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2011年11月16日

「猫壇中」伝説の昌福寺(埼玉県深谷市)


寺の衰退を救った虎猫
 深谷市人見の人見山昌福寺は、深谷上杉第5代(深谷城初代城主)房憲の開基である。本堂裏の庭園は深谷市の名勝で、仙元山麓を生かした禅宗庭園で、室町時代の造園といわれている。上越新幹線沿線なので、車窓からも仙元山と昌福寺を見ることができる。

 この寺に、猫の報恩譚の「猫壇中」という伝説がある。寺の衰退を一匹の虎猫が救う話だ。
 猫と寂しく暮らす和尚が胸中を語ると、人語で猫が答えた。「檀家だった長者が近いうちに死ぬ。葬式のとき棺をつりあげるので、南無トラヤヤと唱えるように」と。はたして、猫の予言のとおり長者は亡くなった。その葬列を突然の稲妻と大雨が襲う。雨が去り、棺を置いたままいったん退散した葬列の人々が戻ってみると、棺が宙づりとなっているではないか。なみいる僧たちが経文を読んだり手を尽くすが、棺をおろすことができない。そこで昌福寺の和尚が呼ばれ、猫の言うとおり「南無トラヤヤ」と唱える。棺はするすると降り、そのまま昌福寺の墓地に行ってしまった。これを見て驚いた長者家では、死人が昌福寺が好きなのだろうということで、再び昌福寺の檀家に戻った。嵐を呼び棺を宙づりにしたのが昌福寺の猫だと知れ、以来、昌福寺の檀家を「猫壇中」というようになった。
 突然の雷雨から棺(死体)が昌福寺に行くまでのパターンはもう一つある。伝えられている話では、十数件まとまって離壇した村が長在家村(旧大里郡川本村長在家、現深谷市長在家=昌福寺から南南西約5キロ)となっていることや、葬儀を出して棺を宙づりされた長者が小川家と特定していることなど、全国に分布する昔話の「猫檀家」が伝説化した例だ。
 
 昌福寺には、伝説にまつわる猫塚などの遺物もなさそう。でも、行ってみないと何が見つかるか分からないものだ。あまり気乗りはしなかったが、雲洞庵に行った翌10月30日に出かけてみた。深谷駅から南東へ約3キロ。県道62号から仙元山(98m)を南側に回り込む。境内に入り、まず石板に彫られた「昌福寺誌」を読んでみる。案の定、伝説には一言も触れていない。室町時代の創建で江戸時代には幕府から二十石を下付された禅宗の名刹と説明されている。戦国時代にすたれた一時期のこととして語られた伝説を、今さら表に出す必要はないのだろう。猫の伝説など遠ざける寺がある一方、世田谷区の豪徳寺、長野県の法蔵寺などは伝説を寺院経営に生かしている。

昌福寺の入り口。背後は仙元山

昌福寺本堂

仙元山の散策路
 背後の仙元山も何かと気にかかった。頂上に建つ浅間神社は昌福寺より古く、南北朝時代にはすでに存立していたと伝えられる。民話などで、踊ったり人語を話したのがバレた寺の猫は、年期を言い渡されたり、また自ら裏山に入っていなくなるものだ。寺と裏山と猫は結びつくのだが、猫の気配なし。散策路はよく整備され、隣接する運動公園とともに市民の憩いの場となっているようだ。何も収穫はなかったが、伝説のある寺を見ただけでも満足感があった。出発が遅かったため、渋沢栄一の生家や記念館までは足が回らなかった。
 
 参考
 「埼玉の伝説」(「日本の伝説」18)早船ちよ、諸田森二、角川書店、1977
 「ふるさと埼玉県の民話と伝説」県別民話シリーズ3 韮塚一三郎、千秋社、1982

2011年2月3日

自性院の節分会で秘仏・猫地蔵を御開帳

 毎年2月3日は自性院(新宿区西落合)の節分会で、この日だけ秘仏の猫地蔵2体が開帳される。ただネット上には過去の開帳日に撮影された猫地蔵の画像がたくさん目につくようになった。寺からすれば秘仏の画像が多くのブログ等に出回るのは好ましいことではなくなったのだろう。秘仏が秘仏でなくなることへの危機感の表れか、2008年から撮影禁止となっている。

 これまで拝観しようと思えば行けたのに10年以上もそのうちそのうちと先延ばししてきた。「明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかわ」ということを実感。主題の猫山詣は藪漕ぎや積雪期もあるから体力のあるうちに行かないと…。

昼休み利用の速攻拝観

 今年こそ必ず猫地蔵尊を拝観するつもりで手帳に書き込んでいた。2月3日は木曜日だが、昼休みを利用すれば何とか観て来られそう。招き猫像に迎えられ北参道から境内へ向かう。午後2時からの豆まき(七福神練り歩きはそのあと)まで約1時間半。人出はまだ少なく、法被姿の氏子さん達も手持ちぶさたの様子だ。猫地蔵堂では若手の坊さんが猫地蔵の由来を拝観者に丁寧に説明中だった。ちょうど木像観音(明治時代の作)の光背に猫顔をあしらっていることを強調されていた。

 地蔵堂奥の正面右に「猫面地蔵」、「太田道灌奉納の猫地蔵」は左に開帳されていた。画像でおなじみのせいか、お初にお目にかかった気がしない。手前に護摩が炊けるようになっていて七福神パレード後に行う予定となっている。堂内には奉納された招き猫がずらり。なかなかの珍品もありそうだが、10年前に招き猫への執着を断ちきっており、それほど感慨はない。としつつも帰りがけに縁起物販売テントをのぞきこんで「左手上げ4号」をいただいてしまう(1000円)。ま、いいか。

昼時の拝観者はまだ少ない(猫地蔵堂)
堂内撮影禁止なので少し離れて
これがギリギリのアングルか
いやもう一押し

猫面地蔵の由来の謎

 猫地蔵の由来については、「江古田ヶ原の戦い(文明9年、1447年)で道に迷った太田道灌を導いて危機から救った猫を供養するため奉納した地蔵」が「道灌招ぎ猫」の猫地蔵、「明和3年(1746年)、江戸市中の評判となった貞女の誉れを後世につたえたいと牛込神楽辺で鮨屋を営む弥平が猫面の地蔵を納めた」のが猫面地蔵である。今日の御開帳で道灌の猫地蔵と猫面地を並べて見たわけだが、由来通りだと2体の制作年には約300年の時を隔てていることになる。

 道灌奉納の猫地蔵はともかく、猫面地蔵については一般に伝えられる由来を読んで疑問を抱く人も多いようだ。なぜ誉れ高い貞女を一介の鮨職人が猫面の地蔵にして奉納したのか。なぜ猫面でなくてはいけなかったのか。自性院でいただく略縁起にもその辺りには触れていない。

 この疑問を完全に解決する内容ではないが、補完する逸話が『旅と伝説』78号(1934年、三元社)の『途上所見(三)』(尾島滿)に載っている。要点は「牛込の人が、かわいがっていた猫に死なれて悲しんでいたところ、夢の中に地蔵尊が現れて、自性院という寺の鑑秀上人に頼んで法要を営んで地蔵尊を建立せよ、と告げた」というのである。牛込の人弥平は猫を飼っていたのだ。そして夢のお告げを実施するにあたり、当時評判だった貞女と死んだ愛猫とだぶらせて猫面の地蔵を刻んだとすると由来のつじつまが合うのである。

 参考に「ねこ地蔵尊の略縁起」を以下に掲載しておく(カッコ内はルビ)。

ねこ地蔵尊の略縁起(はなし)
 昔から私の寺を猫寺とか、猫地蔵と世間の皆さまが愛称して下さるのは、自性院の俗称であります。
 大昔は又別に辻観音とか、東寺(ひがしてら)と愛称されていた真言宗の寺であります。
 又この寺が弘法大師豊嶋廿四番の霊場と申しますことは本四国八十八ヶ所の大師霊場の中第廿四番土佐の高知の室戸崎にある最御崎寺(ほっみさきてら)に模したもので、彼の寺も同じ東寺と申しご利益ことのほか験かな寺でありますところから起ったと申します。
 この寺の御詠歌に
  明星の出でぬる方の 東寺
   暗き迷いの などかあらまじ
 と、私達に此身このまゝ仏さまになれると教えている歌であります。又この土地は何と有難い有難いところであります、ご参詣の方々の品のよさ、巡拝者の腰の鈴の清らかさ、まことに極楽浄土もかっくやあらんと思う程の美しい浄土であります。
 この寺の草創(はじめ)は真言宗の開祖弘法大師空海上人が下野国の日光山に参詣の道すがら観音さまをお供養あそばされたという故事に始り、先づこれが当院の辻観音の縁起であります。又早くより来迎阿彌陀如来をおまつりして当山の本尊さまとして篤く敬い信仰して参りました。その後数百年を経て、酉酉(だいご)の帝、延喜の御代八幡太郎源義家の軍師で大江匡房と並び称された葛大納言源経卿が或年太宰府長官に任命されたが任地に赴かず東下りして、武蔵野のこの地に来り叢(くさむら)深く身をかくし、仏の加護を願って、朝夕当院の観音・阿彌陀如来を熱心に信仰されて、おかげで一生安泰に過ごしたと伝えられて居ります。それより又数百年を経て、足利初期康暦年間に本尊仏の供養に、板碑が造られたがそれが今日尚現存しております。更に降って文明十年七月の記録は本尊修理の件であります、『自性院檀徒中によってこれを修理す』と記しているなど古い文献、金石が現存していることであります。
 そして、今から凡そ四百五十年前天文年間以降は歴代の住持が判然して居ります。徳川時代は細田地頭の皈依で寺は大いに栄えました。
 「道灌招ぎ猫」
 文明九年の頃、当所の豊嶋城主豊島左ヱ門尉と太田道灌とが合戦した有名な江古田ヶ原の戦いの折り、日暮れて、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れて、道灌を当院に案内した、そで道灌は一夜を明したゝめ危難を免れ大勝利を得た、これひとえにこの猫のおかげと感激して、この猫を大切に養い、死後丁重に葬った上一体の地蔵尊を造って盛大な供養して、この地蔵尊を当院に奉納した、これが当院の猫地蔵尊の最初の縁起であります。
 「猫面地蔵尊の由来」
 その後数百年を経て、徳川の中期、明和四年四月十九日江戸小石川御三間屋の豪商で加賀屋舗の真野正順の娘御で金坂八郎治の妻となり、貞女の誉一世に高く、後の覧操院孝室守心大姉の法号を謚られたがこの貞女のため牛込神楽坂辺にて鮨商売を渡世としていた彌平という人がこの貞女の誉を後世の亀鑑(かがみ)に伝えたい、又一つにはこの覧操院の冥福を祈るため、世にも珍しい一体の猫面地蔵尊を丈五十センチ程の石に刻んで造り、猫に因縁深い地蔵尊を祀っている当院を訪ね住持の鑑秀上人に開眼供養を依頼してねんごろに法要を営み御像を当院に納められたと伝えられています。この地蔵尊が当院秘仏の猫面地蔵尊で俗に猫地蔵と申しているものであります。この二体の地蔵尊は当時江戸市中に大そう評判となって一つには貞女にあやかりたい、又一つには地蔵尊のご利益にあずかりたいと願う人々が押な押なと参詣されたと伝えられたが何時しか星うつり余は変って、人々の信仰も次第に衰えしたびとなり、当院も幕末の頃より無住の寺となってさびれ果て昔日の観はなくなってしまったのでありましたが今日再び郊外の発展と共に漸く寺も復興して、昔日の観をとり戻しつゝあります。何卒皆さまと共に、この霊験あらたかな地蔵尊の信仰に浴して、家内安全、諸願成就と延いては世界平和をお祈りいたしましょう。
 猫地蔵尊の御詠歌に
  猫形(みょうぎょう)のほとけの誓い ありがたや
      葛(かつら)の里に かをりとゞめて
 と、これ地蔵尊が猫に形を代えて、この世に現れて、人々に善行をお示しになられたことでありましょう。
 以上が大体猫地蔵の略縁起でご座います。(苗堂山人記)

    付 記
 猫地蔵尊秘仏のお開帳は毎年二月の節分の日だけであります。

2010年12月26日

天寧寺の身代わり猫地蔵(千葉県安房郡鋸南町)

 瑞雲山天寧寺(安房郡鋸南町佐久間)は内房線安房勝山駅から東方1・5キロにある臨済宗建長寺派の古刹で、安房の国観音札所七番霊場でもある。動物慰霊墓苑が付設されペット供養にも力を注いでいる。途中、佐久間川沿いに世界の猫グッズ博物館がある。

 動物慰霊墓苑内に鎮座する「身代わり猫地蔵」という風変わりな元招き猫石像は、2010年3月に大阪から遷座してきた。経緯は下記由来碑文にあるとおりで、元々は大阪のお茶屋に置かれていた。戦後、お茶屋廃業の際に猫好きな女性が引き取ったが、代も替わり家の立ち退きのため、落ち着き先として天寧寺が名乗りを上げたということである。世界の猫グッズ博物館館長らが世話人になったようだ。「身代わり」という名称は、幾度か車に当てられて左手を欠くなど、身を以て家人を守ったという逸話によるものだろうか。


 身代わり猫地蔵由来之記
大阪ミナミのお茶屋にて守神だった招猫。戦後、お茶屋の廃業の曲折を経て猫好きな女性に引取られ、自宅前に祀られた。
そこで、招猫は移りゆく大阪を見守りつつ風雨に曝され、、石の猫地蔵に変わり果て、更に、バイクや車に当てられ招猫の左手を欠いてまで家の者に怪我人を出さぬようにしたと云う。
だが、代も替わり後を頼まれた嫁も老いて立退を求められ、猫地蔵様は、またもや居場所を失ってしまった。
縁あって、大阪市都島区北通二ー九ー十三浜口様宅から、当山天寧寺へと遷座された身代わり猫地蔵様、安房の大地が終の住処とならんことを記念する。
平成二十二年三月吉日


天寧寺への途中にある世界の猫グッズ博物館
天寧寺の入り口
天寧寺仁王門と本堂(左奥)
動物慰霊墓苑
身代わり猫地蔵と由来之碑
左手は欠けて無くなっている
だいぶ痛みが激しいが愛嬌のある顔
身代わり猫地蔵由来之記
招福招幸観世音菩薩(ペット観音)

2010年11月28日

少林寺(埼玉県大里郡寄居町)の猫像?

 きょうも秩父方面へ向かう。五百羅漢で有名な曹洞宗少林寺(大里郡寄居町大字末野)は猫寺としても有名である。東武東上線寄居駅から秩父鉄道に乗り換えて一駅目の波久礼(はぐれ)駅で降りる。ふるさと歩道玉淀コースに従って歩くことにする。寄居に戻るように晩秋の秩父の里をてくてくと歩いていく。末野集落の末野神社は見事な彫刻がほどこされ一見の価値がある。桑畑が今も残り、養蚕農家の特徴を持つ造りの家が点在する。猫神が鎮座していても不思議ではない土地だ。30分ほどで少林寺に着いた。黒犬が飼われている。寺には猫がいるということを聞いたことがあるが今日は姿が見えない。

紅葉の少林寺
猫像らしき石像を見つける

 本堂左手から羅漢山登り口がある。ふと足下を見ておやっと思う。水子地蔵の手前に四つ足で頭がとれた石像があったのだ。これは「猫」ではないかと直感する。あとでゆっくり調べることにして、まずは裏山(羅漢山)めざして九十九折の山道を登っていく。山側斜面に延々と並ぶ羅漢を観賞していく。510体もの羅漢様がいると、よく探せば自分とよく似たのが見つかるに違いない。中には頭が欠け落ちてしまったものもある。登ること20分で頂上。明るく気持ちがいいところである。このまま鐘憧堂山(330m)に行きたくなるが、「猫像」が気になり往路を足早に下山する。なお、本堂右から登っても千体荒神のコースを経て羅漢山に至る。

悩み尽きませぬ
すでに呆けていますが
延々と並ぶ羅漢様

羅漢山の頂上
 猫像らしき石像まで戻り、じっくり観察する。首から先がなく、断面はすっぱりと切りおとされたようだ。寺院でも狛犬がないわけではないが、狛犬なら対になっているはず。草むらにただ置かれているのは不自然だ。養蚕農家が奉納した猫像と想像したいが、この段階では断定するほどの材料はない。

茶釜のふたを持って踊る猫伝説

 猫寺としての少林寺の伝説はよくある猫の報恩話だ。茶釜のふたを持って踊る猫が住職に見つかり寺を出される。猫は恩返しに鉢形城主の葬儀の際に嵐になって棺が上がるので猫の教えのとおり呪文を唱えると棺が元に戻る。このことで住職の評判があがり寺の格も上がった。手拭いを被るかわりに茶釜のふたを持つという特徴がある。住職に暇をだされるとき世話になった御礼にと数珠を差し出すのも独特で、舞い上がった棺を戻すときにこの数珠を呪文を唱えながら天に投げるよう人語で語るという力をもった猫だ。

これが問題の石像
頭部は猫だったのでは?
かわいい猫足
 謎の石像については、直接お話を伺えれば何か分かることだろう。この日、住職は留守だったようだ。猫が踊りに使った茶釜の蓋も残されているとのことなので、日をあらためて訪れたい。帰りは波久礼駅に戻るよりは少し遠くなるが、名勝の玉淀を見たいので寄居駅まで歩いた。

養蚕農家の面影を残す家(寄居町末野)
見返り美猫
排気ガス浴びちゃうよ

2010年11月21日

長瀞町の猫地蔵尊(埼玉県秩父郡)〜岩根神社の蚕神像

個人宅で守られてきた猫地蔵

 秩父は養蚕の盛んだった地域で、蚕神としての猫の言い伝えや神社がいくつかある。長瀞町の猫地蔵尊は個人宅に祀られている珍しい猫神である。言い伝えでは、厠についてきた猫の首を切ったところ蛇に食らいついて妻女を守ったので、猫の供養のために地蔵を安置した。300年以上も守り続けているが、養蚕が盛んだった頃は鼠除けに参詣する農家が多く、今では主に安産・交通安全祈願だという。

 秩父鉄道野上駅から彩甲斐街道を南下して消防署分署から右折、十字路で散歩中の男性に尋ねると親切に教えてくれた。昔は養蚕の盛んな時代でよく猫地蔵に参拝にきていた。今はこの町でも数件しか養蚕はやっていないとのこと。左の道(旧道?)を50mほど行くと左に猫地蔵の小さな看板。青い屋根が見えてそれだと分かった。庭におばあさんがいたので確認する。大きな岩に猫地蔵と刻んである。拝観をお願いすると快く扉をあけていただいた。物置小屋のような建物で間口1・5m、奥行き2mほど。物置としても利用しているようで、大きなカメや石油貯蔵のドラム缶も入っている。奥正面の台に鎮座した猫地蔵尊は高さ約30センチで優しいお顔をしていた。赤い頭巾と前垂れをかけ彩色ははげかかっている。下の台座には黒光りした木彫り猫?が横たわっていた。招き猫が20体ほど並べられ、右下には色あせた絵馬が二枚おかれていた。かろうじて大正十二年と読みとれる。猫の絵は消えかかっていた。以前はもっとあったが雨漏り等で痛んでしまったらしい。

300年を経た猫地蔵尊

台座に黒い木彫り猫?

大正12年奉納の猫絵馬

 猫地蔵尊はかつては家の中にあったが、地蔵のところが雨漏りがする。これは元の屋敷に置いてあった場所に戻りたいということなのだろうということで、旧屋敷に安置されていたところに小屋を建て安置し直したらしい。それでわざわざこの小屋があるのだった。これは新たな伝説だ。

旧屋敷の安置場所に戻すため小屋を建てた
 野上駅に戻ると駅前で宮澤賢治の歌碑を見る。石っこ賢さんは秩父にもきていたのだ。大正5(1916)年、盛岡高等農林学校2年(20歳)のとき地質調査のため秩父地方を訪れた。

 盆地にも今日は別れの本野上 駅にひかれるたうきびの穂よ 宮澤賢治

宮澤賢治の歌碑
ツツジの季節が素晴らしい岩根山

 駅員によれば岩根山のつつじ園がすばらしいとのこと。ここから歩いて1時間ほどだから季節はずれだが岩根神社に行くことにする。神社には蚕神像があり、もしかしたら猫の像もあるかもと期待する。秩父鉄道を渡り荒川に架かる高砂橋を渡って左折。やがて岩根神社徒歩道の道標がある。いったん車道に戻るが再び徒歩道入り口から山道となる。手入れがよく歩きやすい。一汗かいて一段と紅葉がきれいなところが岩根神社の社務所前だ。真っ赤な紅葉がすばらしい。

岩根神社社務所前の紅葉
猫顔に見える蚕神像

 社務所脇から車道に上がると白い鳥居があり、急な石段の先が岩根神社だった。つつじ園の眺めがいい。秩父らしく狛犬は狼のようである。社殿の背後は岩壁が迫っていて崩壊防止のためコンクリートが吹き付けられていた。猫の石像もあるかと期待したが、周囲を探しても見当たらない。蚕神像は社殿真後ろの岩壁のくり抜きに鎮座していた。頭には蚕蛾、左手に桑の木、右手にマユを持っている。顔は人顔だがよく見ると猫顔で、少し怖い印象。守り神としての猫をイメージして作られたのではとも思われる蚕神だ。

背後の岩に蚕神像がある
蚕神像
猫顔に見えてしまう

 社務所のある谷を隔てた尾根上にも神社があるのでそちらにも登ってみた。春にツツジの花が山を覆うように咲く景色は見事だろう。往路を戻って高砂橋を渡り、桜並木の街道を長瀞の岩畳へ向かう。隣町にある大日神社(皆野町)も御神体は猫石で興味が湧くが、かなり歩くので別の機会に回すことにした。例大祭がある5月5日には御神体も拝観できるし、御札もいただける。狛猫のある城峰神社と組み合わせて来てみよう。秩父地方は山小屋建設などで何度も通い続けたが、あらためて山裾を歩くだけでも面白いところだと実感する。

長瀞の岩畳から川下り船を見送る
そろそろ猫の気配が
おすまし子猫
運良くSLにも出会えた(秩父鉄道長瀞駅)

2010年11月20日

西方寺の招き猫像(豊島区西巣鴨)と自性院の猫地蔵尊(新宿区西落合)

西方寺の招き猫像

 浄土宗道哲西方寺(豊島区西巣鴨4の8の43)は浅草にあったころ遊女の投げ込み寺として知られたが、関東大震災で消失し現在地に移転した。「遊女薄雲伝説」にちなむ猫塚はなくなったが、名残の石の招き猫像がある。主人を救う忠義猫の有名な伝説なのでかいつまんで記す。

 吉原の遊郭・三浦屋の看板遊女であった薄雲が、ある時厠へ入ろうとすると、ついてきた愛猫の三毛猫が厠に入れようとしない。遊郭の主が魔性の猫かと脇差しで首を切り落としてしまう。猫の首は天井の大蛇に食らいついて薄雲を救った。忠義の猫を供養するため薄雲は西方寺に猫塚を建てた。贔屓の豪商は伽羅(きゃら)の木で造った猫を薄雲に贈った。これを真似たものを浅草で売りに出したのが招き猫の始まりだという。

 「(遊女、殿様の奥方など)厠についてくる猫→誤解され切られて首が飛ぶ→蛇にかみつき飼い主を救う→猫塚が建つ」というパターンの伝説は、このほか仙台市若林区の少林寺の猫塚、山形県置賜郡高畠町の猫の宮、埼玉県秩父郡長瀞町の猫地蔵尊などに伝わる。

無残に変わり果てた姿に

 西方寺に行くのには地下鉄西巣鴨駅を利用するのが一般的だが、久々に都電荒川線に乗ってみたくなり大塚駅から新庚申塚下車。白山通りから裏道に入ると西方寺はすぐだ。招き猫は入り口の門柱の上にあったが、5年以上も前に二代目高尾太夫である万治高尾の墓前に移された。本堂脇を抜けて左手に万治高尾の墓を見つける。招き猫像は高尾の墓入り口の塚の脇に座っていた。しかし、上げていた左手はなくなり頭部も欠けているではないか。修理した跡も痛々しい。写真でもきゃしゃな印象だったが、無残な姿に変わり果てていた。この招き猫は西方寺がまだ浅草にあった頃につくられたもので、関東大震災で焼け出されたとすれば、石ももろくなっていたのだろう。

 傷みが激しいから門柱から下ろしたのだろうが、高尾塚前に移動したことで、誰でも自由に触れることができるようになり、イタズラされた可能性もある。現に欠け落ちた左手はなくなってしまい修理のしようもない。両国回向院の猫塚のように史跡としてガラス張りケースで保護できればいいが、寺の財政事情もあるだろうから難しい。回向院の猫塚もかつては塚の上部に猫の寝姿が刻まれていたというが、鼠小僧墓前の「欠き石」と間違われてすっかり削られてしまったのである。

万治高尾の墓

高尾の墓の左脇に招き猫が

上げた左手はなくなり頭部分も欠損

頭部分の修理跡が痛々しい

自性院の猫地蔵尊は地域密着

 西光山真言宗豊山派自性院(新宿区西落合1の11の23)の猫地蔵尊は伝説を生かして、地域にもしっかりと根付いている。ご本尊の猫地蔵尊は毎年節分の日にしかご開帳しないので、猫マニアは全国から集まるほどだという。都営地下鉄大江戸線落合南長崎駅の広告には「道灌招ぎ猫供養地蔵尊、猫面地蔵尊 秘仏につき、お開帳は、節分会当日です。」としっかりPRしていた。そしてシンボルの招き猫石像は境内にではなく車道からよく見えるように配置している。しっかりと小判を抱いており御利益を期待したくなるというもの。節分の日には商店会も協力して猫パレードもある。とにかく来年の節分には秘仏を拝みにきてみたい。境内には猫も現れず、ついでに哲学堂公園をめぐったがここでもお姿なし。猫探しもこれでは意気上がらず、池袋行きのバスに乗った。

真言宗豊山派の寺院で西光山自性院無量寺といい、秘仏「猫地蔵」を安置し、ねこ寺として有名。 寺伝によると弘法大師空海が日光山に参詣の途中で観音を供養したのが自性院の草創といい、また葛大納言経信が東下りして当地に身をかくし、朝夕当院の観音・阿弥陀を信仰したとも伝えられている。 猫地蔵の縁起は、文明9年(1477)に豊島左衛門尉と太田道灌が江古田ヶ原で合戦した折に、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救ったため、猫の死後に地蔵像を造り奉納したのが起こりという話が伝えられている。また、江戸時代の明和4年(1767)に貞女として名高かった金坂八郎治の妻(覧操院孝室守心大姉)のために、牛込神楽坂の鮱屋弥平が猫面の地蔵像を石に刻んで奉納しており、猫面地蔵と呼ばれている。二体とも秘仏となっており、毎年二月の節分の日だけ開帳されている。 毎年二月三日の午後に行われる節分会は、七福神の扮装姿の信徒らの長い行列が町内を練り歩く珍しいもので、秘仏開帳とあわせ、参詣客で賑わう。                     (『ガイドブック新宿区の文化財』新宿区教育委員会)

地下鉄駅でもしっかり猫地蔵尊をPR

自性院・猫地蔵堂入り口の招き猫

正面左奥に猫地蔵堂がある

境内にある稲荷神社の不気味な石の顔

自性院山門

哲学堂公園の妖怪門