2001年10月27日

信州の猫寺・法蔵寺(長野県上水内郡小川村)

江戸時代初期から伝わる猫の報恩伝説

 澄み切った青空が広がった晩秋の土曜日に長野へと向かった。目的地は、信州で唯一の猫寺として知られる上水内郡小川村瀬戸川の霊験山曹洞宗法蔵寺。ちょうど長野市と大町市の中間あたりに位置する。創建は南北朝時代の1342年という古刹である。江戸時代初期にはすでに猫の報恩伝説が生まれ、信州の猫寺として伝承されてきた。私はこの寺に伝わる民話から、俗信で失せ猫が修行するという猫寺のモデルになったかもしれないと推測している。

 大宮から長野まで、新幹線だと1時間半で着いてしまうのだから近くなったものだ。駅からのバス便は少ないので、タクシーに乗ると珍しく女性運転手だった。「小川村の法蔵寺」と頼んだら、「どのあたりかな」と仲間に聞いていた。「猫寺として有名なんですよ」と大げさに水を向けると、「そうなんですか? 私は猫好きだけど知らない」とそっけない。でもナマ猫の話となると別で、運転しながら彼女は茶トラ猫の小さな写真を取り出して見せてくれた。「18年も生きたのよ。最後はぼけちゃってね。もう一匹いたんだけど交通事故で悲惨な亡くなりかたで…」と、いまだに立ち直れないペットロスの心境を吐露し始めた。

 山あいの国道を走っているとき、路上の無惨なネコセンベイ(車に轢かれてペシャンコになった猫のこと)に気づき、きわどく避ける。まだレア状態で昨夜の事故らしい。「あー、やだ。あぶなかった」とつぶやいた彼女の、心のダメージを慮った。小川村に入ると、北アルプスが正面に見える。景気づけるように「おお、猫の耳! 鹿島槍だ」と思わず叫ぶ。これほど左右均等の猫耳となった鹿島槍ヶ岳は初めてだ。

「錦秋の山の向こうに耳二つ きりりと立つは鹿島槍かな」

 猫好きの運転手といい、成仏できないネコセンベイといい、猫の耳といい、全く猫寺へ向かうのにはできすぎたお膳立てだと思った。いきなり訪問しても失礼かと思い、車内から携帯電話で法蔵寺に電話する。出たのは奥さんで、住職は法事で午後2時ごろ帰るという。それまでは居られないので「写真を撮りたいだけです」と伝える。

 国道を右折すると小さな「法蔵寺」の看板があった。さらにもう一つの看板から左折すると林道っぽくなって尾根を上がっていく。地図上の瀬戸川という地域とは別の尾根なので変に思う。やがて寺の建物らしいのがあるが、写真でみた法蔵寺とは違う。導かれるままに境内に入っていくと、赤い屋根の大きな本堂が突然現れたのでホッとした。尾根の中腹に建つ寺としては劇的な空間で、かなり広い敷地だ。

山を上がっていくと突如現れる法蔵寺の伽藍 
南北朝時代の創建にふさわしい雰囲気
ペット供養像
13歳の三毛猫がお出迎え

 車を降りると、手を合わせた姿の猫像が建っていてまず驚く。そして最初に見えた建物のほうから奥さんがおりてきた。なんと後から三毛猫がちょこちょこついてくるではないか。この寺の民話によると、たくさんの猫を前に住職の袈裟を着て経を読んでいたのも三毛だったのだ。「電話をされた方ですか?」と待っていてくれたようすで恐縮する。

 勧められて女性運転手とともにお茶をいただきながら話を聞く。歴史ある猫寺としてのPRは一切行わないのが住職の考えなのだという。何より檀家を大切にする寺の姿勢が伺えた。座敷には檀家から贈られたのか、招き猫が数十体鎮座していた。

 三毛は13歳で最初の5年くらいは手がかかったが、いまでは大きな戸も自分で開けるそうだ。最近、雑誌等の取材もたびたびあるが、三毛を写真に納めさせるのは苦労するという。今回も三毛にカメラを向けると物陰に隠れてしまい、撮らせてくれなかった。山中の寺なのに猫が集まってくるらしく、三毛がよそのオス猫に追いかけられていた。

 帰り際に伝説の三毛を祀ったという猫塚を見に行く。寺の裏手を登っていくと小屋がけの脇に、「猫塚」と彫られた五輪塔があった。赤い屋根が木々の緑に映える本堂をカメラに納めてタクシーに戻る。彼女に「効率の悪い仕事させて、ごめんね」と謝ると「いえ、私も勉強になりましたから」と気にしてない様子。「猫寺に招かれたんじゃないの?」と言うと、「そうだねえ」としんみりしていた。そういえば本堂で手を合わせていたなあ。

本堂裏手を登っていくと猫塚
五輪塔の猫塚
 再びネコセンベイの現場を通過したとき、どういうわけか彼女は「あれは猫じゃない。しっぽが太いからタヌキだ」と言い出した。駅前で降車する際、「気持ちだけどこれどうぞ」と彼女が差し出した缶コーヒーの意味は何だったのだろう。なぜかもらい物をする日だ。猫寺からおみやげにいただいたリンゴで、ザックはずしりと重くなっていた。わずか数時間の滞在だったが、満ち足りた気分で長野を後にした。

 いただいた法蔵寺の縁起書にある「猫伝説の由来」は次の通り(「猫塚の由来」碑にも同文が刻まれている)。
 当寺は猫寺の通称をもって知られる古刹にして江戸時代初期正保年間に起りし物語りとして伝ふ。当時三代に亘り飼われたる三毛猫が法師に化けて住持の法衣を着し夜毎鎮守堂に参じて同類を集めて勤行し説法などして奇行な振舞いに及びしが事発覚するや三毛猫は寺より姿を晦したといふ。
 后年三毛猫は武士に変化して当寺を訪れ過去の非礼を詫び何れの日か多年の恩恵に酬いたきを約して去りたといふ。
 当時安曇郡千見の郷に御番所守護職の任にありし下條七兵衛信春氏他界し葬送にあたるや暗雲かき曇り風雨烈しく稀まる荒天に阻まれ数日に亘り難渋を極め居る折旅僧立寄り進言し当山十一代格州良逸和尚を導師として招きたる処荒天たちまち鎮まり晴天白日の下恙なく大葬儀が執り行われたと云ふ。時正保四年〔一六四七〕初秋なり。
 是より下條家一門を初めとして千見地区を中心に深く当寺に帰依して檀家となるなり当時の人々は彼の旅僧こそ猫の化身にして三代に亘り飼われたる三毛猫の報恩の所業なりとして猫檀家と呼び今日に伝わる所以なり。
 冀はこの伝説が広く「心の故郷」として永く伝承されんことを念願やまざるなり。