2010年7月25日

会津・猫魔ヶ岳と志津倉山の木彫りカシャ猫探し

代表的な化け猫伝説の山・猫魔ヶ岳

 猫魔ヶ岳(1404m)は猫又伝説の代表的な山の一つ。釣り上げた魚目当てに老女に化けた雌猫を郷士が斬り殺したため、山の主たる猫王はその奥方を食い殺して樹上に吊し復讐。怒りの郷士が宝刀で妻の仇を討つという粗筋である。

 「耶麻郡桧原村の豪勇の士・穴沢善右衛門は奥方を連れて磐梯の湯に行った。奥方を残し、宿の下男と山裾の沼へ釣りに出かけた。思わぬ大漁に夢中になり日も暮れかけたので、その日は近くの釣り小屋に泊まることにした。魚を焚き火で焙り夕食をとっていると、小屋の入り口から覗く老婆がいる。驚いたことに善右衛門の乳母ではないか。中に引き入れ串焼きの魚を差し出すと、ぺろりとたいらげ飢えた者のような食欲である。思い出話をしてもつじつまがあわず、魔性の者と見破った善右衛門は太刀で斬り殺した。明け方になると老婆は年老いた一匹の黒猫となって口から血を吐いて死んでいた。
 急ぎ湯治場へ帰る途中、奥方が昨夜から行方不明と聞かされた。山中を村人らが捜索したところ断崖の上にそびえ立つ老樹に、変わり果てた奥方の屍体を見つけた。
 近くにいた木樵り風の男に遺体の引き下ろしを頼むと、男は「腰に差している刀を貸してくれたなら」という。伝家の宝刀だからと断ると男の態度が一変し、「われこそはこの山の主、猫王なるぞ。先夜、我妻を一刀のもとに斬り殺したであろう。その仇を討たんがため汝の妻を食い殺したのだ。刀を渡さないと汝をも食い殺してやる」と一喝して、するすると梢に登り怪猫の正体を現した。そして「ギャオーッ」と叫ぶと奥方の遺体をくわえて、宙を飛ぶように梢をわたり姿を消した。
 怒狂った善右衛門は村人達を動員して山を包囲し、化け猫退治に乗り出した。幾日かの後、洞穴に潜む化け猫と奥方の屍体を見つけた。善右衛門は伝家の宝刀で怪猫を真っ二つにして、奥方の屍体を取り戻した。それ以来、怪猫を斬った山を猫魔ヶ嶽といい、宝刀貞宗は猫切丸の異名で呼ばれ、穴沢家に永く伝えられた」というもの。北塩原村桧原には、穴沢家の五輪塔群がいまでも残っている。

 このほか、「猫魔ヶ岳に出る化け猫が人々に危害を与えるというので、これを退治しようとした殿様がいたが、計画が猫に聞こえ、奥方様を人質に取られた。これを鉄砲名人の百姓六三が救い出し、沢山の褒美を貰った」(『みちのく120山』福島キャノン山の会、歴史春秋出版)という伝説があるようだが、元文は未見だ。

 善右衛門が釣りをした沼は、猫魔ヶ岳西方の雄国沼だ。北方の檜原湖で釣りをする人々にも危害を与えたともいう。この点について平岩米吉は「人里離れた高地の沼と、釣り上げた魚と、山猫との間には、何か関連がありそうである」と書いている(「猫の歴史と奇話」1992 築地書館)。

 かつて猫魔ヶ岳の猫を祀った磐梯神社では、文政年間(1812~29)に猫の絵を描いたお札を発行していた。山頂西方にある猫石について『新編会津風土記』では、「磐梯山の西にあり、高九十丈周二里計、昔猫またありて人を食ふしとてこの名あり、北の方に猫石とて其面畳の如くなる大石あり、其の下草木を生せす、塵埃なく掃除せしか如し、猫また住すめる故なりと云(後略)」と記されている。なお、松尾芭蕉の詠んだ「山は猫 ねぶりていくや 雪の隙」の句は天和年間(1681~84)の作とされているから、猫又伝説はそれ以前に成立していたと思われる。

猫魔ヶ岳に登る

 7月24日 雄国沼登山道入り口でバスをおりる。猛暑の予報だが、雄国沼登山道はブナ林の涼しい道で助かる。沢も横切るので水には困らない。雄国沼休憩舎手前で雄国山への道が分岐する。水量豊富な水場がある。休憩舎は数十人は泊まれそうな立派なログハウス。大勢のハイカー、学校登山団体で混み合う。雄国沼の散策も楽しそうだ。

雄国沼と猫魔ヶ岳(中央左)と猫石(中央右)

 猫石(1335m)が見える。約1時間の行程だ。急登となるとポッカリと猫石頂上に着いた。猫石そのものがピークとなっている。西方に磐梯山(1818m)が猫魔ヶ岳の向こうに見える。猫石を下ると、すぐ下山コースの厩岳山への分岐である。猫魔ヶ岳からの磐梯山の眺めがすばらしい。

猫石

猫魔ヶ岳から磐梯山

 厩岳山(1261m)への道も歩きやすく、ブナ林の道である。スキー場の存在はここまで目に入らず意外だった。厩岳山からの猫石は猫が寝そべっていると思えなくもないが、見た目が小さい。

 10分も下ると馬頭観音堂と行基清水(冷たくおいしい)だ。三十三番目の石地蔵がある。参道入り口が一番札所となっており、植林地を過ぎると登山口だ。地図どおり真っ直ぐ下る道は草に覆われており、林道を左に少し歩いてから明瞭な道を右に辿ると集落に出た。

 磐梯町駅周辺の地図は持参しておらず、道を間違えて15分のロス。会津若松駅前の白木屋で夕食後、只見線で会津宮下へ向かう。駅前でテントを張ったら駅員に追い払われる。仕方なく宮下活性化センター裏に移動する。

(コースタイム)登山口10:00 雄国沼休憩舎11:15〜11:30 猫石12:30〜45 猫魔ヶ岳13:02〜10 厩岳山14:00〜10 行基清水14:20 登山口15:41 磐梯町駅17:00

木彫りのカシャ猫を求めて三島町へ

7月25日 暑くてあまり眠れなかった。4時には起き出して神社でコーヒーを飲む。7時過ぎまで表通りを散策。カシャ猫を置いてそうな店を探す。いったん駅へ戻り、8時すぎに宮下温泉栄光館に朝風呂をいただきに。おかみは民芸品が好きだと栄光館のサイトにあったので、何か手がかりがありそうだった。

 奥会津書房の脇を通り抜け、下ったところに栄光館がある。入浴料500円。さっぱりとして、土産物売り場で『会津学4号』を購入。おかみさんに聞くと、カシャ猫は15、6年前までは販売していたそうだ。町長宅の「斉藤用品店」に聞いてみるとよいのではとアドバイスを受ける。

 役場入り口の休憩所(水場)でしばらく『会津学』を読みふける。カシャ猫伝説のことにも触れており参考になる。

 9時近くになったので、斉藤用品店へ伺う。町長の息子さんが出てきて、ここにもないということで、生活工芸館に電話してくれた。販売はもうしていないが、展示しているものはあるということなので、向かうことにする。山開きの際に入浴したふるさと荘を過ぎてからが遠かった。西片駅をすぎると、さすがに暑くてバテてきた。ふるさと荘から2・5キロほど行って左へカーブして坂を上がって、さらに右に登っていくとやっと工芸館入り口だ。

 工芸館で電話を受けた方は、『会津学』にも登場していた菅家さんだった。案内され事務室右手の部屋左奥の棚に2体あった。径8センチ、高さ25センチくらいの大カシャと、径4センチ、高さ20センチくらいの小カシャだった。単純な作りだが思ったより手が込んでいて、ヒゲまでついていた。コシアブラの木でつくられているという。間方出身の菅家さんも自宅にひとつ置いてあるという。作者の長郷(なごう)さん宅に在庫があるかもしれないといって電話していただいたが不在だった。

カシャ猫の木彫り(長郷千代喜作)

 空腹だったので、隣のカフェでソバを食べ、主人に宮下駅まで送っていただき大助かりだった。「カシャ猫」と出会えたので所期の目的は果たせたが、実物を見たら味わいのある木彫りでぜひともほしくなった。後日、長郷さんに電話してみると、ヤマブドウのツル細工も作っていないし、カシャ猫は手元にないということだった。

 

2010年7月19日

戸隠山の「ねこまたの岩屋」(埼玉県鳩山町)

「ねこまたの岩屋」

埼玉県比企郡鳩山村須江 戸隠山
戸隠山に岩屋がある。昔、古猫がこの岩屋に沢山集まり、笛を吹いたり、仕舞を舞ったりしたという。             『川越地方郷土研究』四冊

 ねこまた伝説の全文はこれだけにすぎない。比企郡鳩山村は現鳩山町。この一帯は外秩父の丘陵地帯で周辺の開発が進み、地形図を見ても戸隠山という山は見当たらない。須江という地名は残っているが、北側に98.3mの標高点があり周辺の最高地点だ。実際に伝説の地を歩いてみることにした。

埼玉県唯一のねこまた伝説の地

 7月19日 朝から強烈な太陽が照りつける。きょうは沿線地の探索なので気楽だ。東上線武蔵嵐山駅でおりて笛吹峠へ向けて歩いていく。途中、源義賢の墓地や源義仲、源義高生誕地、縁切り橋(東征中の坂上田村麻呂が、心配して訪ねてきた奥方を叱りつけ京に返した)、将軍塚など見所がある。また、笛吹峠までの一帯は蝶の里としてオオムラサキの保護に力を入れている。峠までのなだらかな登りで涼しげなクヌギ林で心地よい。この道はかつての旧鎌倉街道で幾多の武士団らが往き来したところだという交通の要所であった。


 約50分で峠に着く。ハイカーも訪れていて休憩所もあり、一息入れる。「クマ出没注意」の看板があり、こんな里山にも出没するのかと驚く。「平成20年5月27日に熊の目撃情報あり」と記されていた。峠から西に幅広の道が続いている。東に行けば物見山へと続くハイキングコースだ。98.3m標高点を通る西の道に入る。北が嵐山町、南は鳩山町の境界道となっている。標高点付近から南側に入る道があり、そちらに行ってみる。明るく開けた伐採跡に出る。南側は谷を隔てて森となって人家は見えず、里山とは思えない山中にいる感じ。このあたりが戸隠山というのだろうか。雑木林とヤブで自由に歩き回ることはできない。
涼しげなクヌギ林のトンネルを笛吹峠へ
笛吹峠

里山ながら「熊出没注意」の看板

ねこまたの岩屋はこの森に?
 境界線の道に戻り、熊除けに声を上げる。すると、子供の声が返ってきた。車道に出る手前に人家があり、二階から子供がこちらを見ていた。別荘ではなさそうで、寂しいところに住んでいるものだ。車道を下っていくと右手に少し大きい貯水池がある。ほとりに地蔵様が鎮座している。池の南側には社があり、のぞくと戸隠大神と九頭龍大神の文字が見えた。農耕と水を祀る戸隠信仰あることから須江の山を戸隠山と呼んだということは容易に想像できる。少し下った集落から再び山に入る道がある。車も入れる道で途中人家があり、戸隠山の件について聞いてみたが、比較的新しい住人だからなのか知らないということだった。

池端に祀られた戸隠大神と九頭竜大神

農業用貯水池?
 笛吹峠からS字状に戸隠山と目される森を辿って須江集落の南端に回り込む。ここには長命寺という寺があり、何か手がかりになる話をキックことができるのかもと期待していたが、無住の寺となっていた。大きな門構えの農家の前に来た。迷ったが暑いさなかにおじゃまするのは気が引けて断念。これではいないのだが。黒石神社、桝井戸遺跡(町指定記念物)と見ながら、須江の集落を離れ、玉川から八高線明覚駅に向かった。途中、玉川工高前の車道で交通事故に遭った動物は猫かと思ったら大きなタヌキだった。この日は最高気温36度まで上がり、調査するには厳しすぎる猛暑であった。

須江集落と戸隠山方面
 この日歩いただけでは具体的な手がかりはなく、土地の古老か町役場に問い合わせる必要がある。しかし、岩屋の場所を特定することは困難であろう。

2010年7月4日

北上山地・六角牛山と笠通山山麓の猫石探査

六角牛山と猫川

 猫川は岩手県遠野市の早瀬川上流、遠野三山の一つ六角牛山(1294m)付近に発する。

 『遠野物語拾遺 176』(角川文庫)には、「青笹村の猫川の主は猫だそうな。洪水の時に、この川の水が高みへ打ち上がって、たいへんな害をすることがあるのは、元来猫は好んで高あがりするものであるからだといわれている。」とある。地形図をみると、現在の猫川は砂防堰堤だらけで氾濫しやすい暴れ川だったことが分かる。源流は柏手のように何本かの急峻な沢から猫川に一気に流れ込む地形となっているのだ。六角牛山は、そんな暴れ川をかかえる山とは思いもつかない優美な山容である。

 ところで鉄砲水のことを利根川支流湯檜曽川の流れる地元、群馬県水上町では「猫まくり」と呼ぶ。平成12(2000)年8月6日に起きた湯檜曽川での鉄砲水事故が記憶に新しい。事故当時80〜120センチ水位が上昇し、谷川山麓で合宿キャンプ中だった少年サッカー団を襲った。「猫まくり」は「壁のように押し寄せる水の波頭が、猫の前脚のように曲がる様子から来た言葉だ」(asahi.com 8月7日配信記事)と注目された。猫川の洪水は「猫の高あがり」だが、いずれも異常な出水を猫の動きに例えているのは偶然とはいえ興味深い。

六角牛山へ登る

7月3日 六角牛山は以前から登ってみたいと思っていた。この土日は、まずこの山を片づけ、翌日は北上山地最北端の久慈平岳を登る計画だ。

 新花巻に着くと昨夜の豪雨による土砂崩れで釜石線が不通となっていた。振替輸送バスで遠野駅まで行く。六角牛山方面は雲に覆われており、上部は雨かもしれない。六角牛神社でタクシーを下りようと思っていたが、林道終点まで入れるとのこと。終点にはマイクロバス(秋田ナンバー)が止まっており、団体さんが先行しているようだ。

六角牛山登山口
六角牛山頂から中沢への尾根
中沢登山道下部の気持ちいい道
 しっとりとした樹林帯を登っていくと7合目から急登に変わる。岩がゴツゴツして歩きづらい。団体14名が下山してくる。湯沢を朝4時に出てきたそうだ。9合目には小屋があり、頂稜の一角に出る。頂上はガスであまり展望がない。晴れていれば遠野盆地が一望だろうに。北方で雷鳴がする。雨を心配して早々に下山にかかる。中沢への道は誰にも会わず歩きやすかった。登山口から林道をショートカットするが、地形図上の道はあまり使われていないようで沢を強引に渡って林道に上がる。

 六神石神社分岐から青笹駅までのロードは日差しも出て蒸し暑くなった。振り返ると六角牛山が見渡せるほどに天候回復。きょうは陸中海岸北部の久慈まで行くので、猫川の流れを見に行くことはできない。猫川の源流から六角牛山に登るのも面白そう。沢の記録は見ないので、そのうち登ってみたいものだ。

 釜石線は午後に復旧したようだ。予定通り、釜石で山田線に乗り換え、さらに宮古で北リアス線に乗り換えてようやく久慈へ辿り着く。霧で海は見えず。宮古線は豪雨で不通になったらしい。雨上がりの久慈に下り立つ、駅前の養老の瀧で夕食後、市内の道の駅でテント泊。

再び遠野の猫石探査へ

7月4日 ガスが濃く、山は霧雨模様。久慈平岳は中止として八戸に出て、再び遠野に舞い戻ってきた。遠野駅でレンタサイクルを借りて、猫石探査のため笠通林道を目指す。

 40分ほどで続石、そして笠通林道入り口を過ぎて小峠へ向けて400mほど登っていく。どうもこちらではなさそうなので、笠通林道入り口に自転車を置いて林道に入ってみる。右手山側斜面の杉林に見当をつけて探すがそれらしき大石はない。いったん下って畑仕事中の爺様に声をかけ、「猫石を知りませんか」と訊ねる。すると下の家を指さし、「そこで聞けば分かる」というようなことを言う。「それは猫石さんですか」と聞くとうなずくので、これはしめたと思う。そのお宅に行って声をかけると、畑からおばちゃんが上がってきた。

笠通林道入り口
 猫石はやはり笠通林道を少し入った右手斜面にあるのだという。1〜2分も上がると分かるらしい。ご主人(屋号猫石さん)は出かけているが、いれば案内させるのだがと恐縮していた。以前にも何人か猫石を探しに来た人がいると言っていた。

 もう少していねいに探せば見つかるだろうとタカをくくって、もう一度林道に戻る。しかし、かなり上まで行っても見つからずじまい。汗だくになってしまう。あとでネットで調べたら、もう少し奥へ入ったところで、左側に駐車スペースがある地点らしい。今日はここまでとして探査を切り上げる。帰りがけ10年ぶりに続石に立ち寄った。

 今回は収穫がなかったわけではないので、遠野駅に向け自転車を漕ぐ気分はまずまずであった。帰宅後、続石をネットで調べたら弁慶の枕石の近くに「猫石」があるということで、写真まで載っていたのに驚く。これはどういうことだろう。つまり、綾織地区に「猫石」は二つあることになる。さらに安部貞任伝説の「猫岩」は笠通山西麓にあるとにらんでいるので、遠野通いはしばらく続けなくてはならなくなった。

遠野市内で目ヤニ猫がお出迎え