2010年9月19日

大桶の猫山(千葉県市原市大桶)と横浜市の中田の踊場

大桶の猫山伝説
 大桶区にあり之を古老に問ふに今より凡そ二百年の前頃、東は長南伊勢屋の猫、西は相川村新三左衛門の猫を始めとして、数百の猫集まりて盛宴を張ることあり、秋夜月清く虫喞く頃、其の歌舞の状を目撃することありしと、今は此の山周囲を青年団の為めに伐採されて開墾する所となり、山頂の平地に四・五の老椎を存するに過ぎず。                                    『市原郡誌』(千葉県市原郡教育会編、千葉県市原郡発行、1916)
 典型的な猫の踊り伝説だが、集まってくる猫のうち二匹の飼い主が明らかにされているのが特徴だ。東の長南伊勢屋は現長生郡長南町のいせや星野薬局のこと、西の相川村は現市原市相川である。猫山からそれぞれ直線距離で8キロ、6キロ程離れている。この距離を猫どもが踊りに興じるため集まってくるのかと思うと頭が下がる。ちなみにいせや星野薬局は300年も続く老舗で切妻妻入の土蔵造りの店舗は文化2(1805)年に建てられたもので、国登録文化財に指定されている。

大桶の猫山へ

9月19日 昨日は群馬県前橋市の飯土井の猫山を探査したが、きょうは房総の猫山である。内房線五井から小湊鉄道に乗り換えて上総山田駅下車。房総方面に出かけることはあまりなく、なじみのないところ。

 市原市大桶(おうけ)の甘露寺まで約5キロ。八幡神社、市原交通刑務所、磯谷病院を過ぎると、両側が丘陵に囲まれたのどかな田園風景が広がってくる。前方に小山が二つ見える。左が軍茶利四天堂が建つ城跡山で目指す猫山。高さがほぼ同じの右の山は城廻山で大桶城があったとされる。どちらも標高100mほどだ。

左が伝説の猫山(城跡山)、右は城廻山



正面に高橋商店、裏山が城跡山

 田んぼの真ん中を一直線に突き進む農道を猫山を正面に見ながら歩いていくのは気持ちがいい。うぐいすラインに合流したところは食料品雑貨「高橋商店」前で、右の大桶集荷所から商店の裏手に回り込んでいくように住宅の間を坂道が続いている。さらに右に上がっていく道に導かれていくと左が広場で、奥に天台宗軍茶利山甘露寺が建っていた。道はそのまま石碑の建つところから細道となって竹林の中へ向かっている。竹林に入ると見上げるほどの急傾斜を一直線の石段と続いていた。両側から竹林が覆い被さって日光を遮り陰気な感じ。石段は82段でいったん途切れ、さらに86段続く。

奥の院への参道からの甘露寺
竹林の中の急な石段

 参道入り口から標高差約50mを登りきると奥の院である軍茶利四天堂に到着。社殿前の広場は手入れされないまま夏草が生い茂っていた。2月上旬に「篝焚き」(かがりだき)という新年神事が行われ、地区民らが広場の草を刈って積み上げて燃やすので、訪れるには春先から初夏の方がいいようだ。伝説の通り老椎の木も何本かあった。そのうち一番大きなものは二股の一方が折れてしまっていた。汗ばんだ体には草いきれの中で休んでも落ち着かず、一通り撮影後下ることにする。社殿裏の城累跡を見にいこうとも思ったが、調査テーマが違うのでやめた。

頂上の軍茶利四天堂。伝説のとおり老椎の木も

猫どもが踊った中田の踊場

 まだ日も高いのでもう一稼ぎすべく駅に戻ることにする。帰途、磯ヶ谷の集落でみかけた大黒猫は一瞬、小熊かと見まごうほどだった。鈴をつけていたので飼い猫とわかる。五井駅からは一気に横須賀線直通の久里浜行きを利用して横浜の戸塚へ(便利になったものだ)。横浜で猫の踊り伝説といえば泉区中田の「踊場」である。踊場というバス停が伝説の名残を伝えていたが、市営地下鉄ブルーラインが1999年に開通し、「踊場駅」ができたことでその存在を広く知らしめた。駅舎には随所にその伝説イメージを採り入れて猫のデザインが施され、粋な計らいをしてくれている。2000年には個性的な駅として関東の駅100選にも選ばれている。


一瞬、小熊かと見まごう大黒猫。足が太い!
踊場駅で最も印象的な踊る猫の照明(出口4)

 戸塚駅からブルーラインに乗り換え一駅目が踊場駅。まずは、踊場の供養塔がある2番出口へ向かう。供養塔は屋根付きで、傍らに碑の由来板も立てられている。碑には「南無阿彌陀佛」と刻まれている。賽銭入れも備わり、碑の後ろには卒塔婆もたてかけられていた。出口1にある踊場交番付近は長後街道の最高標高地点(58.5m)で、「中田の坂」の頂上となっている。供養塔はもともと、旧岡津道と長後街道が交差するこの角にあったが、市営地下鉄建設に伴う長後街道の道路拡幅で現在地に移された。長後街道は庶民信仰の山である大山へ至る旧大山道で、近世は登拝客の往来は多かっただろう。明治・大正期には、この一帯も養蚕が盛んになり製紙工場もあったが、踊場伝説はそれよりずっと前に成立しており、養蚕に関係する言い伝えはない。

長後街道から戸塚方面。右上が踊場交番と出口1

踊場の碑の由来
踊場の地名は伝説として古猫が集り毎夜踊ったので生じたと言はる。この碑は猫の霊をなぐさめ住民の安泰を祈念して近郷住民の総意にて元文二年(西暦一七三七年)造立し中田寺住職尊帰として開眼供養せられしものなり。最近交通いよいよ激しく長後街道と鎌倉道のこの交差路改修にて碑の移動に伴ひ本願の地区安泰と交通安全を祈願のため町内有志相計り住民各位の助成を得て慰霊塔を護持祖先の意志を継承奉らんとするものである。  昭和六十一年十一月三日に戸塚区から当区は泉区に変行になった。   中田踊場慰霊塔管理委員会

踊場供養塔(出口2)
踊場の碑の由来
 踊場伝説のパターンはいくつか在るのだが、不思議なのは猫が踊ったところだから踊場と名付けられたのではなく、「おどり場という所を通ったら猫がたくさん踊っていた」というものが多いことだ。すでに踊場という場所(地名)だったのである。「オドリバノダイ」としている伝説もある。また、なぜ踊る猫どものために供養塔が建てられたのだろうか。由来碑には書かれていないが、一番説明がつく伝説は、「踊場でたくさんの猫とともに踊っていた又兵衛さんの猫が、火傷である日死んでしまう。その後又兵衛さんが踊場にさしかかったところ死んだはずの猫が踊っていた。その猫の怨霊を供養するため供養塔を建てた」というもの。猫どもただ踊っていただけでなく、通りかかる旅人に披露していたというから、そのけなげさが供養塔(慰霊塔)を建ててもらう理由になったのだろう。毎夜踊っている猫どものためにわざわざ供養塔を建てるはずはないからだ。 参考:高塚さより「横浜市泉区踊場の『猫の踊』譚」(『昔話伝説研究』21号 昔話伝説研究会 2000)

 供養塔建立には中田寺の住職が関わっているが、碑の正式名称は「寒念仏供養塔(かんねんぶつくようとう)」という。供養塔右側面に刻まれているようだ。泉区のWebサイトによると、「寒念仏と刻まれているように、寒い中を中田寺の住職等5人の僧侶が、戸塚周辺の広い地域を念仏修行して回った総仕上げに、踊場の坂の頂上に、この供養塔を祀ったものといわれている」。ちなみに中田寺(ちゅうでんじ)は、江戸初期の慶長17年(1612)に中田村の領主石巻康敬が開基となって創建された浄土宗の古刹である。中田の坂の頂上に設置場所を選んだのは猫の踊伝説があったからなのか、碑の由来文にあるように地元住民が猫どもを慰霊するため造立するのにあたり、その開眼のため中田寺住職らが念仏修行したものかはよくわからない。 参考:『いずみ いまむかし − 泉区小史』(1996年、泉区小史編集委員会編、同発行委員会発行)

 猫山のジャンルに入れるつもりはなかったが、昔は「中田の山」「踊場の坂」と呼ばれた寂しい村境の林であった。供養塔の由来についてはなお不明点が多く、再調査することになるだろう。