2011年1月29日

青梅と五日市の琴平神社(養蚕の神)

 青梅も五日市(現あきる野市)も戦前までは養蚕の盛んなところだった。それぞれ養蚕の神を祀る神社として琴平神社が町を見下ろす山の上に建っている。かつて猫の焼き物を奉納したという青梅の琴平神社が有名で、今でも商売繁盛等を祈願する招き猫が奉納されている。青梅の琴平神社〜日の出山〜金比羅山(五日市の琴平神社)と歩けば5時間程度かかる結構なハイキングになるが、足の具合を考えてそれぞれ麓から往復してみた。五日市の琴平神社にも青梅同様に招き猫が奉納されているものと思いこんでいたが…。


青梅の琴平神社へ


 青梅線日向和田駅から吉野梅郷を経て尾根取り付き(標高230m)まで20分少々。登山道を登ること35分、ようやく汗ばんでくる頃、琴平神社の鳥居が見えた。登山道は右に分岐し、鳥居の道は左を巻くように登っていくと社殿に至る。さっき分かれた登山道も神社裏10m先で合流していた。社殿は青梅の町を一望するかのように建っている。このあたりの標高は470mほど。金網越しに中をのぞき込むと左右の壁に沿って招き猫がたくさん並べられていた。左側に並んでいる招き猫のいくつかは相当古そうなもののようだ。ここが巖山と呼ばれるとおり社殿背後には岩がゴツゴツと突き出ている。金属製由来碑の文字は劣化してかすんでおり、かろうじて読むことができた。

鳥居のある参道。登山道は右へ(社殿裏で合流)
小ぶりな琴平神社社殿
社殿の内部には奉納された招き猫が並ぶ
登山道側から見た社殿
社殿前から青梅の町が一望できる


琴平神社(金比羅大権現)
祭神 大国主命、崇徳天皇
鎮座 不詳
沿革 当社は、梅郷を一望し、常に氏子を見守ることのできる、巌山の頂上に鎮座しており、古くは「金比羅大権現」と呼ばれていましたが、明治以降「琴平神社」と呼ばれるようになりました。昭和の戦前まで当地は養蚕が盛んで、繭の生産が氏子の生活の支えであり、経済の中心事業でありました。増殖増産の産土神として崇敬されていた当社には、当時、繭の豊作を祈願する人が多く、繭の当たり年にはお礼に猫の焼き物が奉納されたものでした。猫の焼き物は、天敵であるネズミから蚕を、お猫様が守ってくれたお礼とも伝えられております。戦後も、山頂の当社まで、商売繁盛を祈願に訪れる人が多く、新しい招き猫、現代的な招き猫がたくさん奉納されております。家運の隆昌を、祈願いたしましょう。

 下山にかかると法螺貝を吹く音が下の方から聞こえてきた。山伏姿の人を先頭に10数人の若い男女が続いてきた。杖を持ち、頭には白い被り物をつけていた。外国人の若い女性もいたから、御山駆けの体験行という感じ。御岳神社まで行くのだろうか。駅まで40分くらいで着いた。次の目的地は拝島経由で武蔵五日市駅である。


五日市の琴平神社に招き猫はなかった


 13時45分に五日市駅に到着。金比羅山(468m)は1997年の長谷川カップ(日本山岳耐久レース)の最終盤で通過しているが、琴平神社があったことさえ全く記憶がない。足にマメができて辛く、下を向きながら黙々と山を下っていたのであろう。長谷川カップのスタート・ゴール地点だった五日市中学校裏から道標に従って金比羅山に向かう。登り口の標高は225mほど。尾根の途中で道は分岐しており巻き道を行ってみる。駅から50分程度で神社に着いた。金比羅山の頂上はさらに300mほど先となる。通称入野峰と呼ばれる神社付近の標高は450mに少し足りないくらいだ。


 鳥居から振り返ると五日市の町が望まれた。青梅の琴平神社と同じく氏子を見守るパターンだ。見下ろす景色も何となく似ている。境内一帯は金比羅山公園として整備されており、社殿左手の一段下がったところに四阿屋とトイレが設置されていた。社殿は青梅の琴平神社より倍以上の大きさである。扉は閉ざされ、内部は簡素で招き猫は奉納されていないようであった。狛犬はなく「寛政六年甲寅 五月吉日」奉納の灯籠が二基あった。右手奥には3mほどの大岩があり祠があった(奉納日は文化十一年戌年 九月吉日)。さしずめ金比羅岩とでもいうのだろうか。養蚕神や猫とのかかわりを示すものがなかったのは残念だった。帰りは尾根道をとる。展望台からの眺めがよい。ツツジが多いので開花時期は綺麗なことだろう。


琴平神社の鳥居と社殿
琴平神社社殿の手前左右にツツジを配置
社殿裏にある金比羅岩?
鳥居から五日市の町が眼下に

 琴平神社は阿伎留神社の境外社で、毎年4月29日の祭礼には入野集落の獅子舞が披露される。社殿も幕で飾られて立派な装いとなる。300年以上前から続いているといわれる獅子舞だが、以前は厳冬の1月9日に行われていたという。阿伎留神社の由緒では明治以降は養蚕の神として崇敬されたとある。青梅の神社と同様、猫の焼き物が奉納されてきたのかどうかは町史などの資料にあたれば分かることだ。4月の例祭に行って阿伎留神社の宮司や入野の人々に直接聞けば確実だろう。




阿伎留神社(あきる野市五日市町五日市1081)の由緒書より
(境外社)琴平神社(大物主神、崇徳天皇)五日市入野峰山頂にあり、江戸時代より栄えた古社。明治以降は特に養蚕安全の神として近郷に崇敬が多く1月9日の山頂の祭は賑やかである。境内地100坪。

2011年1月8日

善部のねこ塚(横浜市旭区)

善部のねこ塚伝説

 最近まで「善部のねこ塚」の存在をしらなかった。平成21年秋、旭区誕生40周年記念事業の一環で新たに石碑が建てられたことが新聞に掲載された。そもそも元禄時代にお婆さんが猫連れで巡礼していたということに驚くのだが、よほど絆が深かったのだろう。お婆さんが飢えと疲れで亡くなった後も傍らで鳴き続け、村人がやってくると安心したのか後を追うように猫も死んでしまう。ほろりとさせられる言い伝えにより地元ロータリークラブも後押ししてのねこ塚周辺整備となったようだ。
ねこ塚
元禄の頃、巡礼中のおばあさんが善部の村を通りかかり、飢えと疲れのため亡くなってしまいました。そばで一匹のねこがしきりに鳴いていましたが、間もなく後を追うように死んでしまいました。村人はその場におばあさんとねこを埋め、塚と石碑を建てて供養しました。そこは「ねこ塚」と呼ばれ、かわいがっているねこや犬が死ぬと埋めたということです。現在は場所も少し移され、ねこや犬が埋まっている塚はなくなっています。(旭区観光協会『緑と水と歴史にふれあう 旭区散策ガイド』平成15年 より)

ゴルフ練習場の脇にひっそりと

1月8日 相鉄本線希望ヶ駅から坂を下りながら南下していく。そのまま行けば自然と東海道新幹線にぶつかるはず。しかし、善部西自治会館の分岐で左に入るべき所、そのまま右に入ってしまった。ちょうど「妙蓮寺・ねこ塚」の案内が電柱にあったので行きすぎたことを知る。妙蓮寺の西側に出て新幹線のガード下をくぐり抜け、横浜隼人高校に沿って善部ゴルフの南側へ。親切にも「史跡 ねこ塚」との目立つ指導標が。地元も史跡として大事にしているようだ。練習場の金網柵に沿って北へ100mほどでねこ塚だ。遠回りになったが無事にねこ塚に辿りついた。善部ゴルフのパター練習場の脇で、おじさん達がねこ塚など興味なさそうにパターにいそしんでいる。

ウオーキングコースとなっている
ねこ塚は「史跡」扱い。ゴルフ練習場入り口で

 由来を記した石碑は立派なもので、寝ているような猫のオブジェをのせた凝ったつくりだ。お婆さんのそばで力尽きた姿をあらわしてたのかもしれない。あるいは村人が来てくれて安心しきった様子にも見える。石碑の左側にはねこ塚碑が立っている。高さ25センチ、幅15センチほどの小ぶりな碑だ。表には「元禄七年 妙法門法妙喜信女 十月二日」と刻まれていた。元禄七年(1694年)は今から317年前となる。旧暦の十月二日というと現在の十月下旬で、寒い季節へ向かう中での出来事だった。化けたとか踊ったとかという猫伝説が多い中で、実話としても通用する物語ではある。ただし、猫を連れての巡礼はどうなのかと思うし、行き倒れたお婆さんがいたのは確かだろうが、そばで村の野良猫が鳴いていただけなのかもしれない。

ねこ塚はパター練習場脇にある
少し小ぶりのねこ塚碑

 帰りは林の中の道を北へ向かって下る。すぐ林の出口となり、ここにも指導標があった。当初はここを通ってくるつもりだったから、ねこ塚へは南から北へ抜けるという回り道をしたことになる。新幹線の下を抜けると道路をはさんで向かい側が妙蓮寺と善部神明社だ。ついでだから神明社から妙蓮寺へと立ち寄っていく。石碑を建てるときにこの寺はかかわっていたのだろうか。妙蓮寺の石段から新幹線をはさんでねこ塚のある小高い森がよく望めた。かつてこの一帯は善部谷とよばれたが、新幹線とそれに平行する車道が谷を抜けるように走っている。中田の踊場のときもそうだったが、目の前の丘陵地が300年も前はどのような風景だったのだろうか、といつもながら思う。かつての里山の変貌のなかにかろうじてねこ塚はひっそりとたたずんでいる。

妙蓮寺山門
妙蓮寺の参道石段からねこ塚の林を望む
この猫は何だ! 希望ヶ丘駅への帰途
珍しい?たけし招き猫。希望ヶ丘駅への帰途