2008年4月16日

展覧会を見そこなったおかげで再登板の畦地版画

 また、見そこなってしまった。展覧会や美術展は、「そのうち、そのうち」と結局、最終日になってあわてて行ったり、チケットを買っておけば絶対行くだろうと思っても、気づいたらすでに終わっていたなんてことがよくある。

 今回も「畦地梅太郎版画展」の案内はがきをカバンに入れっぱなしだった。会場の新宿小田急ではよく小規模な畦地展を開くのだが、昨年秋も見逃していたから気をつけていたつもりだったのに。通勤途上だから、いつでも立ち寄れる気持ちがあだになる。案の定、最終日(15日)になって6時少し前に駆け込もうとしたら、無情にも入り口には「5時半で終了」のお知らせが…。次の展覧会の入れ替えがせわしく始まっていた。販売も兼ねた展覧会なので、衝動買いすることもなくてよかったか。



 大抵の畦地版画は、20年ほど前に町田国際版画美術館での大規模な回顧展で見ているし、その図録もある(町田市で晩年を過ごした畦地は、市に多くの作品を寄贈した。常設展もよく行われる)。欲しい作品はいくつかあるが、すでに本人刷りの2点を所蔵済み。当HPにも、一番のお気に入り『ものの気配』(1973、23.6×17.8cm)を張り付けているが、これは調布市の画廊で購入したもの。最初に買ったのは25年ほど前、やはり新宿小田急での大規模な版画展だった。7、8年前まで自室にかけてあったが、いまはクローゼットにしまいこんである。

 それは『圏谷に立つ山男』(1967、40.5×31.5cm)という題。カールを背景にピッケルを握りしめた山男が立っている。それだけの単純な構図だが、山へ向かう強い意志が感じられる。畦地の描く山男はとぼけ顔かおっとりタイプが多い。圏谷の山男はキリリとしている。ちょうど30代半ばの頃、再び猛烈に山に向かいたい気にさせてくれた作品だ。相対して自問自答するにはピッタリなのだ。

 この版画の山男を見て、母はずっと「猫」だと思っていたらしい。ヒョロリとした姿は、猫というよりもカワウソみたいだ。

 いまこそ、この版画が再登板する状況なのか。でもエネルギー溢れていた30代とは全然違う自分であることは百も承知。いい加減見飽きた風景写真のパネルをはずして、また「猫もどき山男」の版画を掛けて自問自答を楽しもう。

2008年4月14日

いつのまにか永野忠一著作コレクターになった

 以前に紹介した在野の猫民俗学者・永野忠一さん(2003年に享年102歳で他界)の著作を探し求めて約10年。いつの間にか主な8冊を収集して、永野忠一著作コレクターとなってしまった。それまでは国会図書館に行かないと、目にふれることはできなかった。半ば自費出版系の書物なので、神田古書店街を徘徊しても、おいそれとは手に入らないレアもの猫本である。

 しかし、インターネット時代の古書探しは、居ながらにして目当ての本を探し出すことができる。根気強く検索をかけることが大事で、初めて探し当てたのは3年ほど前。それからトントン拍子に見つかった。出どころは兵庫、岡山、福岡、東京中野の古書店だった。まるで本のほうから「買ってくれ〜」と自分を呼んでいたかのように、検索した日に売りに出ていることもあった。

 コレクションの発行年順に並べてみると、

 (1)『怪猫思想の系譜』(1971)
 (2)『信仰と猫の習俗』(1971)
 (3)『猫その名と民俗』改訂版(1972、初版1965)
 (4)『猫の幻想と俗信』(1978)
 (5)『日中を繋ぐ唐猫』(1982)
 (6)『猫と日本人(猫の文化史)』(1982、国会図書館蔵本の複写コピー)
 (7)『猫の民俗誌(続、猫と日本人)』(1986)
 (8)『猫と故郷の言葉』(1987)

 これ以外に未収集本として、(9)『エジプト猫、その行方』(1968)、(10)『猫と源氏物語』(1997)がある。





 国会図書館にあるのは、(3)(4)(5)(6)(7)(8)(10)の7冊。国会図書館に保存されていない(1)(2)は小冊子で、これからも古書店に出回ることは極めて少ないだろう。(9)は発行年も古く、もはや幻の本か。類書として『猫たちの世界旅行ー古代エジプトから日本まで』(1993、NHKブックス、ロジャーテイバー著、絶版)がある。テーマからして、あえて手に入れる必要はないと思う。(10)は、日本橋蛎殻町の自費出版図書館にあるので、ネットから申し込んで借りることができる。

 これから少しずつ読み込んでいきながら、永野先生が退職後40年以上にわたり苦しんだ猫民俗との格闘を自分も強いられる気がする。とりあえず、老後がヒマにならないだけでも幸いといえる。

 登った数を気にするような山登りなんぞさらりと捨てて、新たな山と猫の地平を目指す本格的な探求を始めてみるのもそろそろよさそうだ。変な宗教などにのめり込むわけではないから、それほど他人に嫌われないじじいであればいい。ただし、変わり者のネコじじいと指さされそうだが。