2011年10月27日

霊諍山の「マントを着たヘソ出しフンドシ鬼猫」

フンドシ猫に会いに行く
15日の弥彦行に続き、16日は長野方面へ。霊諍山(長野県千曲市)の通称・フンドシ猫神を見に行くことにした。頂上付近には、安宮神社のある修那羅山と同様に石仏・石神が数多く鎮座する。中でも通称・フンドシ猫は、石仏写真集で惚れ込んで見に来る人もいるらしい。電車に乗っているうちから実物と対面するのが楽しみでソワソワする。

屋代駅前から、千曲市営の循環バスが出ている。日曜日なのにすばらしいことだ。公共交通機関を利用して山に行く主義者として(運転免許ないだけ…)、この上なく嬉しい。八幡というバス停でおりると、30分かからず霊諍山の麓の大雲寺に到着。

大雲寺池から霊諍山
霊諍山一帯は一重山と呼ぶらしい。まず大雲寺へ行ってみると、「大雲寺自然探勝路」があって、霊諍山へ行けるようだ。少しやぶっぽいが、わずかで鳥居のある尾根の鞍部(牛首)に出た。通ってきた道は落石があったのか通行止とされていた。林道のような幅広の道が尾根を左へ回り込んでいく。10分ほどで491mの霊諍山に着く。


大雲寺の背後が霊諍山

大雲寺のおすまし寺猫
 頂上の真ん中に社殿があり、頂上南側から東側の縁を取り巻くように石仏や石神等が居並んでいた。急かされるように猫神を探す。社殿後方には大きな石祠。その背後に南側を向いた二体並んで猫神があった。他の石仏等とは独立して鎮座していて、特別の存在のように感じられた。養蚕が盛んだった時代をしのばせる貴重な存在だ。

霊諍山の頂上
 フンドシ猫をより詳しく表現すると「マントをはおった出ベソのフンドシ鬼猫」だ。鬼猫というのは下あごに牙を出していて、角と鬼棒がないだけでほとんど鬼のつもりらしい。左手を上げて「来い来い」をしているので、招き猫という見方もできる。もう一体の猫神はうずくまったポーズで平凡だが、その立体的な彫りがよろしい。拝顔するととぼけてはいるが、よくよく見ると少し不気味な表情をしている。

二体の猫神

ユニークなフンドシ猫

とぼけ顔

牛首まで戻って案内板をみると、大雲寺への通行止めの道のほか3本の下山ルートがある。尾根をそのまま進めば矢崎山という小ピークに至るようだ。大雲寺に一番近い元八幡へ下ることにする。あっという間に下り、屋代駅へのんびりと歩いて行く。秋空の下を歩くのはなかなか楽しく、1時間10分ほどで駅に着いた。

霊諍山
 霊諍山は明治の中ごろ、千曲市八幡、郡の北川原権兵衛が開山し、八幡中原の和田辰五郎(東筑摩郡北村安宮神社の修那羅峠の大天武の高弟)と共に近郷近在に布教し、信者を集めて「御座たて」という神事が行われ、吉凶を占っていたという。
 現在はそのようなことは行われていないが、春秋の社日・節分・八十八夜など、祭が暦にしたがって執り行われている。
 この社には天地地祇、八百万の神と大国主命が祀られ、「信者が各地の社寺へ参詣せずとも、ここで願いごとを祈れば願渡しをすることが出来る」と、いわれている。
 社殿の周囲に並ぶ石神・石仏は、諸国の著名な社寺から勧請したほか、信者の願果たしの御礼として奉納されたものである。厚い信仰は今も続き数年前に、寄特な方により本殿脇に如意輪観音が祀られた。百余体があり、土俗信仰を知る上で貴重な存在である。
 代表的な石像として、三途の川で亡者の衣をはぎとる奪衣婆像・ヤットコと持った鬼・マントにフンドシ姿の猫・魔利支天・大日如来・文殊菩薩があげられる。
 この一重山一帯は、霊諍山の石仏群、麓にはサクラに囲まれた禅宗寺院の大雲寺。夏にはハスの花が咲き、ナライシダに秋はヤマガキが実るという、歴史的自然環境に恵まれ、県の「大雲寺郷土環境保全地域」に指定されている。(頂上説明書きより)

2011年10月23日

宝光院の妙多羅天女像御開帳(新潟県弥彦村)

猫多羅天女と妙多羅天女
10月15日は猫鳴山(福島県いわき市)に行きたかったのだが、天気が今一つなので新潟方面に行き先を変更した。ちょうど、弥彦神社に近い宝光院(西蒲原郡弥彦村弥彦2860)で妙多羅天女像を御開帳する日だったので好都合。新潟県には弥三郎婆伝説が数多く残されていて、中でも妙多羅天女は伝説の核となっている。悪行を重ねたのち改心するまで「弥彦の鬼婆」として恐れられたという。一方、佐渡由来の伝説では猫多羅天女という化け猫にまつわるものがあるのだが、現在は伝説の表舞台から一歩退いた存在なのだ。

 一字違いの猫多羅天女を宝光院の妙多羅天女と結びつけたい--そんな思いが猫好きには強くあることだろう。かく言う自分も化け猫びいきからか復権を願ってきた。しかし、何とか細い糸を辿って光明の手がかりをつかめないものか。当日の御開帳に立ち会い、妙多羅天女像をこの目で確認してみなくては…。


妙多羅天像御開帳当日の宝光院阿弥陀堂

スケールの大きい婆々杉
弥彦駅から真言宗紫雲山龍池寺宝光院まで歩いて15分。御開帳の法要前に本堂裏手へ妙多羅天ゆかりの婆々杉を見に行く。予想したより遙かにスケールがある大杉だ。県指定の天然記念物で幹回り10m、樹高40m、樹齢約1000年だという。傍らの石碑は、同じ妙多羅天女伝説が伝わる山形県高畠町の有志が建立したものだった。

妙多羅天女ゆかりの婆々杉
 法要受付では勝手がわからず右往左往したが、とりあえず妙多羅天様にお参りしたい旨伝えて阿弥陀堂に入った。中央に阿弥陀如来像、左側に「妙多羅天」の額があり、立派な飾り厨子の扉が開いていた。


妙多羅天女像は、黒っぽく変色していて相当古そうだ。奪衣婆像によく見られる綿帽子をまとうように被り、何かにつかみかかるようなお姿だった。かつてこの真綿は、子どもの首に巻くと百日咳が治る「妙多羅天御衣」として参拝者の信仰を集めたという。


三体ある妙多羅天の残り二体は、阿弥陀如来像の左右に安置されている。このうち左側の像が写真でよく紹介されているものだった。片膝を立てた姿は奪衣婆像そのもの。

午前11時半、僧呂8人による読経で護摩焚きが始まった。堂内の気温が上がり、これから冬ごもりのカメムシが元気になって動き回っていた。真言宗の歌うような読経は、リズミカルな太鼓の響きとともに心地よく感じられる。ただ、隣の弥彦競輪場のアナウンスが少々気に障った。法要が終わってお斎の案内を受けたが今回は遠慮する。参列者は妙多羅天様に手を合わせて、ありがたい護摩の煙をかぶっていた。

御開帳法要でいただいた御供物
中身は紅白の落雁
 朝方の小雨もすっかり上がり、弥彦山が望める高台の弥彦総合文化会館に行って周辺の遊歩道を辿ってみる。山の上部のガスがなかなかとれないので、弥彦神社境内の散策に向かった。


 何よりも実際に伝説の地を歩いてみることが想像力をかきたてる。資料だけ見ていては気がつかなかったことも想起された。伝説の成り立ちの違いから、猫多羅天女=妙多羅天女と断定できるところまでいかないが、その源流は猫多羅天女にあるという念を今は強くしている。


弥彦山を望む(弥彦総合文化会館から)
弥彦神社拝殿(背景は弥彦山)
   猫多羅天女の事(佐渡由来の伝説)
 鳥翠台北茎の『北国奇談巡杖記』(文化4年〈1807〉刊)巻三「猫多羅天女の事」 
 弥彦神社末社に猫多羅天女の禿(毛髪)というのがある。その由来を尋ねるに、夏の夕方、佐渡国雑多(さわた)郡小沢の老婆がひとり山上で涼んでいた。すると一匹の老猫があらわれ砂の上でころがってたわむれはじめた。老婆もつられて猫と遊ぶこと数日、そのうちに体が軽くなり、やがて全身に毛が生えてついに飛行自在の妖術を得た。形相もすさまじく、見る人肝をつぶし驚くうち、猫となった老婆は雷鳴をとどろかせて対岸の越後国・弥彦山に飛び移り、霊威をふるって大雨を数日降らせた。里人は困り、これを鎮めて猫多羅天女とあがめた。年に一度、猫多羅天女が佐渡にわたる日には、ひどい雷鳴があるという。 

妙多羅天女と婆々杉(弥彦由来の伝説)
 承暦3年(1079)彌彦神社造営の際、上棟式奉仕の日取りの前後について鍛匠と工匠(大工棟梁家)との争いとなり、結局、工匠は第1日、鍛匠は第2日に奉仕と決定された。鍛匠・黒津弥三郎の祖母は無念やるかたなく、怨みの念が高じて悪鬼に化け、工匠らにたたり、方々を飛び歩いて悪行を重ねた。家から姿を消した祖母は、ものすごい鬼の姿となり、雲を呼び風を起こして天高く飛び去ってしまった。それより後は、佐渡の金北山・蒲原の古津・加賀の白山・越中の立山・信州の浅間山と諸国を自由に飛行して、悪行の限りを尽くし、長らく「弥彦の鬼婆」と恐れられた。保元元年(1156)、当時弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が、ある日、山のふもとの大杉の根方に横になっている一人の老婆を見つけ、その異様な形態にただならぬ怪しさを感じて話したところ、これぞ弥三郎の祖母であることがわかった。典海大僧正は、善心に立ち返らせるべく老婆に説教し、「妙多羅天女」の称号を与えた。高僧のありがたいお説教に目覚めた老婆は、「今からは神仏の道を護る天女となり、これより後は世の悪人を戒め、善人を守り、とりわけ幼い子らを守り育てることに力を尽くす」と大誓願を立て、神通力を発揮して誓願のために働きだした。その後は、この大杉の根元に居を定め、悪人と称された人が死ぬと、死体や衣類を奪って弥彦の大杉の枝にかけて世人のみせしめにしたといわれ、後にこの大杉を人々は「婆々杉」と呼ぶようになったという。(参考:弥彦村・弥彦観光協会ホームページ)

2011年10月11日

花渕山の雄沼では猫を雨乞いに使った

鳴子温泉郷の名山

鳴子温泉のシンボル的存在である花渕山(984.9m=宮城県大崎市)は、紅葉の名所・鳴子峡の背景の山としておなじみだ。かつてインカレや全日本スキー選手権も行われたスキー場があった(1950年、国設花渕山スキー場としてオープン。鳴子スキー&リゾートを経て経営不振で2002年閉鎖)。スキーブームが続いていた20年ほど前、花立峠から山スキーで縦走して、このスキー場を滑り下りたことがある。下手な山スキーヤーには手強い斜面だった。

当時は、頂上近くの標高820mにある雄沼について、地形図に記されているにも関わらず、気にとめることもなかった。ずっと後になって『鳴子町史 上巻』をめくってみて驚かされた。雨乞いのため猫を生きたまま沼に沈めるという因習があったのだという。隣接する加美郡の薬莱山(553.1m)麓の荒沢の滝でも、雨乞いに死んだ猫を投げ入れるということを、たまたま観光パンフレットで知って謎が深まる。この地方で、なぜ雨乞いに猫なのか。

沼や滝壺の水神を怒らせて雨を降らせる手段として、牛の首を投げ入れたり、小便をしたり、いろいろあるのだが、宮城県北地方では猫を利用する雨乞いが二例もあるというのは偶然だろうか。大崎耕土といわれ、ササニシキを生んだ豊かな稲作地域でも、かつては水不足に悩まされることがあったのだろうか。

閉鎖されたスキー場と見事なブナ林

三連休中日の10月9日、閉鎖されて10年近い鳴子スキー場を登り、雄沼を目指す。地元の人は、鬼首スキー場のテレキャビンを利用して鍋倉山から花渕山を往復するのが一般的らしい。「面白うてやがて哀しきスキーかな」と揺れるススキが語りかける。いま全国のスキー場が経営不振にあえぎ、引き受け手がなければ閉鎖に追い込まれている。

ススキが伸び放題のゲレンデ跡

それでも、いったん登山道がスキー場からそれればブナ林が広がっていた。ゴンドラ終点のビッキハウスから尾根左斜面に入ると、さらに見事なブナ林となった。登山道にクマの糞があり、雄沼付近は気が抜けないと警戒する。

見事なブナ林の道

立派な龍神の祠

右手の小尾根に上がると、左眼下に雄沼がブナの樹間から垣間見えた。クマ除けに大きな声を上げると、湖面に吸い込まれるように響いた。沼のほとりには立派な龍神(水神)の祠があった。たび重なる大地震で屋根が落ちたとの情報もあったが、しっかりと修復されていた。数人がかりでないと持ち上げられない重さだ。雨乞いの風習は戦後も続けられたというが、地元の信仰心の厚さが見てとれる。

深閑とした雰囲気の雄沼

立派な龍神様

通信施設のある頂上は展望はなく、そのまま北上して大柴山(1083.2m)から鍋倉山(1094m)まで縦走したくなり、いったん向かいかけた。しかし、鬼首スキー場に下りても、バス便がさだかでなく思いとどまる。予定通り往路を戻り、もういちど雄沼の龍神でしばし憩うことにした。


鳴子温泉を見下ろす。左上のポッコリした山が薬莱山

ゲレンデ跡を下る途中、左手南東方向に加美富士とも呼ばれる薬莱山が端正な姿を見せていた。薬莱山も登るつもりだったが、前日8日は山形県の肘折温泉付近をうろついて時間をつぶしてしまったので中止に。急きょ思いついた大蔵村の猫岳(977m)偵察は思うようにいかなかった。肘折温泉は遠く、しかし懐かしかった。村山葉山〜肘折温泉~念仏ヶ原〜月山〜朝日連峰(天狗角力取山~オツボ峰~大鳥池~以東岳~大朝日岳)〜長井葉山へと10日間の合宿をしたのは37年も前のこと。

鳴子公園付近からの花渕山(右のピーク)
なお、鳴子峡は震災の影響で、渓谷沿いの遊歩道は通行禁止となっていた。紅葉の見頃まで1週間早かったようだ。