2011年10月23日

宝光院の妙多羅天女像御開帳(新潟県弥彦村)

猫多羅天女と妙多羅天女
10月15日は猫鳴山(福島県いわき市)に行きたかったのだが、天気が今一つなので新潟方面に行き先を変更した。ちょうど、弥彦神社に近い宝光院(西蒲原郡弥彦村弥彦2860)で妙多羅天女像を御開帳する日だったので好都合。新潟県には弥三郎婆伝説が数多く残されていて、中でも妙多羅天女は伝説の核となっている。悪行を重ねたのち改心するまで「弥彦の鬼婆」として恐れられたという。一方、佐渡由来の伝説では猫多羅天女という化け猫にまつわるものがあるのだが、現在は伝説の表舞台から一歩退いた存在なのだ。

 一字違いの猫多羅天女を宝光院の妙多羅天女と結びつけたい--そんな思いが猫好きには強くあることだろう。かく言う自分も化け猫びいきからか復権を願ってきた。しかし、何とか細い糸を辿って光明の手がかりをつかめないものか。当日の御開帳に立ち会い、妙多羅天女像をこの目で確認してみなくては…。


妙多羅天像御開帳当日の宝光院阿弥陀堂

スケールの大きい婆々杉
弥彦駅から真言宗紫雲山龍池寺宝光院まで歩いて15分。御開帳の法要前に本堂裏手へ妙多羅天ゆかりの婆々杉を見に行く。予想したより遙かにスケールがある大杉だ。県指定の天然記念物で幹回り10m、樹高40m、樹齢約1000年だという。傍らの石碑は、同じ妙多羅天女伝説が伝わる山形県高畠町の有志が建立したものだった。

妙多羅天女ゆかりの婆々杉
 法要受付では勝手がわからず右往左往したが、とりあえず妙多羅天様にお参りしたい旨伝えて阿弥陀堂に入った。中央に阿弥陀如来像、左側に「妙多羅天」の額があり、立派な飾り厨子の扉が開いていた。


妙多羅天女像は、黒っぽく変色していて相当古そうだ。奪衣婆像によく見られる綿帽子をまとうように被り、何かにつかみかかるようなお姿だった。かつてこの真綿は、子どもの首に巻くと百日咳が治る「妙多羅天御衣」として参拝者の信仰を集めたという。


三体ある妙多羅天の残り二体は、阿弥陀如来像の左右に安置されている。このうち左側の像が写真でよく紹介されているものだった。片膝を立てた姿は奪衣婆像そのもの。

午前11時半、僧呂8人による読経で護摩焚きが始まった。堂内の気温が上がり、これから冬ごもりのカメムシが元気になって動き回っていた。真言宗の歌うような読経は、リズミカルな太鼓の響きとともに心地よく感じられる。ただ、隣の弥彦競輪場のアナウンスが少々気に障った。法要が終わってお斎の案内を受けたが今回は遠慮する。参列者は妙多羅天様に手を合わせて、ありがたい護摩の煙をかぶっていた。

御開帳法要でいただいた御供物
中身は紅白の落雁
 朝方の小雨もすっかり上がり、弥彦山が望める高台の弥彦総合文化会館に行って周辺の遊歩道を辿ってみる。山の上部のガスがなかなかとれないので、弥彦神社境内の散策に向かった。


 何よりも実際に伝説の地を歩いてみることが想像力をかきたてる。資料だけ見ていては気がつかなかったことも想起された。伝説の成り立ちの違いから、猫多羅天女=妙多羅天女と断定できるところまでいかないが、その源流は猫多羅天女にあるという念を今は強くしている。


弥彦山を望む(弥彦総合文化会館から)
弥彦神社拝殿(背景は弥彦山)
   猫多羅天女の事(佐渡由来の伝説)
 鳥翠台北茎の『北国奇談巡杖記』(文化4年〈1807〉刊)巻三「猫多羅天女の事」 
 弥彦神社末社に猫多羅天女の禿(毛髪)というのがある。その由来を尋ねるに、夏の夕方、佐渡国雑多(さわた)郡小沢の老婆がひとり山上で涼んでいた。すると一匹の老猫があらわれ砂の上でころがってたわむれはじめた。老婆もつられて猫と遊ぶこと数日、そのうちに体が軽くなり、やがて全身に毛が生えてついに飛行自在の妖術を得た。形相もすさまじく、見る人肝をつぶし驚くうち、猫となった老婆は雷鳴をとどろかせて対岸の越後国・弥彦山に飛び移り、霊威をふるって大雨を数日降らせた。里人は困り、これを鎮めて猫多羅天女とあがめた。年に一度、猫多羅天女が佐渡にわたる日には、ひどい雷鳴があるという。 

妙多羅天女と婆々杉(弥彦由来の伝説)
 承暦3年(1079)彌彦神社造営の際、上棟式奉仕の日取りの前後について鍛匠と工匠(大工棟梁家)との争いとなり、結局、工匠は第1日、鍛匠は第2日に奉仕と決定された。鍛匠・黒津弥三郎の祖母は無念やるかたなく、怨みの念が高じて悪鬼に化け、工匠らにたたり、方々を飛び歩いて悪行を重ねた。家から姿を消した祖母は、ものすごい鬼の姿となり、雲を呼び風を起こして天高く飛び去ってしまった。それより後は、佐渡の金北山・蒲原の古津・加賀の白山・越中の立山・信州の浅間山と諸国を自由に飛行して、悪行の限りを尽くし、長らく「弥彦の鬼婆」と恐れられた。保元元年(1156)、当時弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が、ある日、山のふもとの大杉の根方に横になっている一人の老婆を見つけ、その異様な形態にただならぬ怪しさを感じて話したところ、これぞ弥三郎の祖母であることがわかった。典海大僧正は、善心に立ち返らせるべく老婆に説教し、「妙多羅天女」の称号を与えた。高僧のありがたいお説教に目覚めた老婆は、「今からは神仏の道を護る天女となり、これより後は世の悪人を戒め、善人を守り、とりわけ幼い子らを守り育てることに力を尽くす」と大誓願を立て、神通力を発揮して誓願のために働きだした。その後は、この大杉の根元に居を定め、悪人と称された人が死ぬと、死体や衣類を奪って弥彦の大杉の枝にかけて世人のみせしめにしたといわれ、後にこの大杉を人々は「婆々杉」と呼ぶようになったという。(参考:弥彦村・弥彦観光協会ホームページ)