2001年12月24日

猫の雪形は三例見つかっている

 かつてこの欄で「猫の雪形はなぜないのか」と書いたが、その後、猫が現れる雪形は三例あることを知った。私の勉強不足で、東北、越後、信州の雪形を参考にしただけで断定してしまい、雪形の王国のひとつ「北陸地方」を見落としていた。季節はずれの話題だが、訂正も兼ねるので早めに掲載することにした。

 富山県にある北アルプス・僧ヶ岳(1855m)は、山名の由来となった「僧」の雪形で知られる。この山は雪形の宝庫らしく、まず4月中旬の「ウサギ」から始まり、「僧」のとなりに「大入道」と「猫」が現れるという。5月に入ると「大入道」は「馬」と変化し、「馬を曳く僧」となって田植えの季節を知らせてくれる。

 『立山黒部の奥山の歴史と伝承』(廣瀬誠著、桂書房、1984)にも「僧ケ岳の僧は、雪の解けゆくにつれて、尺八を吹く姿、袋を背負った姿、馬を曳く姿とさまざまに変化し、猫や兎や鶏まで付き従ひ」と記されている。

 農事暦と猫は関係なさそうだが、猫又山とも峰続きだし、この一帯はよく野猫が現れたところなので何か因縁があるのだろうか。

 驚きだったのは、北海道の利尻山にも猫の雪形があるということだ。1998年10月開催の日本雪氷学会全国大会で、利尻山で見られる雪形に「猫の顔」があることが発表された。「新潟日報」98年10月16日付の記事によると、「猫の顔」はニシン漁の始まりから見え出し、漁期の終わるころには「猫の目から涙が流れるように見えた」とされる。「昭和30年ごろを境にニシンが捕れなくなり、現在では古老でないと地元でも忘れられている」と、発表した利尻町立博物館の学芸員は残念がっているという。この雪形の写真はないらしい。是非とも、この目で伝説と化した「猫の顔」を見てみたいものだ。

 猫関連の雪形は、もう一例ある。1996年、新潟県長岡市の鋸山(765m)に「ブレーメンの音楽隊」と命名された雪形が発見された。ロバの上に犬、猫、鶏が乗っているように見えるという。見つけたのは国際雪形研究会会員で、この年のもっとも素晴らしいニュー雪形「96雪形オブ・ザ・イヤー」として表彰された。

 いまのところ猫の雪形が、この三例だけにとどまっているのは腑に落ちない。身近な動物の猫だけに、もっと登場してほしいものだ。私も残雪の山を眺めるときは、意識して雪形を探してみよう。

2001年11月24日

塩田平の猫山と修那羅山安宮神社の狛猫

 塩田平の猫山(長野県上田市下組)は約540mの高さがあるが、標高の高い信州にあっては小山にすぎない。猫山というからには、何かしら伝説があるものと期待するが、単純に山容から名付けられたようだ。しかし猫山に観音堂を建てることで鼠除けの観音菩薩と崇められることになる。養蚕の盛んな頃は、鼠からお蚕様を守ってくれる霊験ある仏として、村人から厚い信仰が寄せられたという。明治・大正・昭和と祭典は続けられてきたが、大東亜戦争のため昭和17年から中止となった。44年ぶりに復活されたのは昭和61年で、猫山観世音が建立された。

初冬の猫山へ

 初冬の塩田平は抜けるような青空だ。上田から上田電鉄別所線に乗り換え下之郷で下車。南東方向に伸びる道を適当に猫山を目指す。見えてきた小高い丘がそれだろう。約25分で猫山への石段下に建つ猫山観世音碑に至る。説明板によるとこの一帯は猫山公園として整備されたようだ。標高差30mの急な石段の先に猫山観音堂が見える。猫山観音堂には江戸中期の作と推定される木造の観音様(全高85センチ、高さ43センチ)が安置されているという。観音堂からは塩田平が一望でき、特に独鈷山がすばらしい。

猫山
猫山観世音の碑


猫山公園
 丸やかな山容から名付けられた猫山に、地域の人びとが古来から信仰してきた観世音菩薩を安置するため、観音堂が創建されたのは元禄11年(1698年)の春でした。
 この地域は松本村といわれ、記録によれば村には天正年間(1573〜1591年)に五光寺があり、その一つの練光寺がこの猫山に建っていました。
 観音堂は茅ぶき屋根があったが平成六年に大改修が行われ銅板葺になりました。このお堂への130段の参道は石段で、寛保(1742年頃)年間に水田三升播(約300坪)と畑一俵半取(小麦が一俵半とれる面積、約150坪)の土地が寄進され、それを資金としてつくられた古い参道です。
 観音堂からは塩田平が一望のもとに眺められるので、地元の人びとは此の地を猫山公園と呼び、信仰と憩いの場所になって居りました。

猫山創造の森
 猫山公園を含む猫山一帯約七町歩(7ha)の地域が国の新規補助事業である「創造の森整備事業」として、長野県でただ一か所の指定を受け、平成5年度より3か年計画で完成されました。
 工事は上田市が事業主体となり、約一億7千万円をかけて400米の遊歩道兼作業用道路、観音堂前の整備、あづまや・月見堂・トイレ・給水設備などが新設され、数多くの花木の植樹などによって、猫山全体が調和のとれた美しい森林公園として面目を一新し地方における一大名所に生まれかわりました。
平成9年6月 下組自治会 下組郷土史研究会


猫山観音堂への石段
猫山観音堂
猫山から塩田平と独鈷山を望む

修那羅山安宮神社へ

 下之郷駅まで戻り上田電鉄終点の別所温泉駅へ。温泉の誘惑を断ち切り、タクシーで修那羅峠(小県郡青木村と東筑摩郡坂井村の境界)まで飛ばし、安宮神社の猫像を見にいくことにする。ここからだと15キロくらいあるが、交通の便が悪いのでついでに行っておきたかった。それでも15分で安宮神社への登り口についてしまった(4620円)。鳥居をくぐって山道を800m進むと神社に着く。まず目についたのは神社手前右の狛猫だ。お宮には養蠶大神祠と刻まれており、堂々たる対の狛猫だ。明らかに猫である。安宮神社といえば猫の石像が有名だが、こんな立派な狛猫を紹介していないのは不思議だ。

安宮神社・養蠶大神祠の狛猫
安宮神社の狛猫。立派な猫だ
 神社は北側の坂井村から車で上がってくる参拝者らで賑わっていた。まずは有名な猫の石像を見に行く。二体とも写真では何度も見ているが、かわいらしい猫像である。数枚の五円玉を首にぶら下げていた。一通り坂井村側の石仏群を見て回ったが、ほかに猫像は見当たらなかった。神社に戻り名物のおやきをほおばりながら、社殿の周辺でくつろいでいる3匹の猫を観察する。やたらとゴロンゴロンする猫さんたちだ。

 小一時間がたちもう午後2時すぎ。さて、帰りが厄介だ。修那羅峠からの下り道を国道143号に出てバス停のあるところまで歩くことに。結局、青木村役場まで約10キロ1時間20分かけて歩いた。上田行きバスがちょうど来て、駅には16時5分着だった。

安宮神社のお猫さま1
安宮神社のお猫さま2
安宮神社の猫像1
安宮神社の猫像2

2001年11月11日

火の玉となって阿蘇・根子岳を見に行く

 11月10日 猫雑誌の依頼記事に使う写真撮影のため夜行日帰りで阿蘇に行った。猫岳についての記事なのでイメージ写真としてはどうしても阿蘇・根子岳(猫岳)がふさわしいと思った。あのギザギザの怪奇な山容が猫の耳を連想させて猫岳の象徴として映る。

 東京発博多行きの新幹線終電を当日予約できた。仕事を終えてからの出発。博多から鹿児島本線に乗り継いで熊本に着いたのは深夜となった。駅の中でステビバしようにも適当な場所がない。酔っぱらいやホームレス風の人もウロウロしていて安心してベンチで横にもなれない。バスの待合所に行ってみたり、いろいろ場所を変えたが、結構寒くて眠れぬまま南阿蘇鉄道高森線の始発時刻となった。終点の高森駅から阿蘇山が見えるが雲がかかっている。早朝の駅前で、こちらを待ち受けていたかのように黒ちゃん発見。赤い首輪がおしゃれだ。

猫岳修行はこれからですか?(南阿蘇鉄道高森駅前)

 駅前からタクシーに乗って根子岳の撮影ポイントを聞く。国道265号沿いの休暇村がベストとのことで、そこで降ろしてもらう。根子岳上部の雲はどんどんとれてきてチャンス。教えてもらった通り根子岳南面の眺めは最高だ。朝日の当たり具合もちょうどよい。

休暇村南阿蘇からの根子岳(猫岳)

 撮影ポイントを探しながら国道を大戸ノ口方面に上がって行く。高森温泉館を過ぎ、洗川(そそがわ)あたりまで来ると木々が邪魔になってきたので撮影を切り上げる。昨夜から寒い思いをしていたので高森温泉館に立ち寄る。9時30分開館までで少し待った。阿蘇五岳の眺めのいい大浴場であった(入浴料400円)。さっぱりとしたあとは晩秋の阿蘇の眺めを楽しみつつ高森駅へ下っていくのみ。まるで火の玉のごとく根子岳修行にいく猫のように、夜行日帰りで阿蘇に来てしまったが無駄ではなかった。登る山はもちろんいいが眺める山もいい。何度も根子岳を振り返り再訪を誓う。今度は北面から「ヤカタガウド」のコースを登りにこよう。

休暇村からR265を更に登って
高森温泉館から見た根子岳
高森駅へ下る途中から。雲がかかってきた

猫の王と猫岳参り

 阿蘇・根子岳(猫岳)ほど猫にまつわる伝説に富んだ山もない。猫岳には「猫の王」がすみ、除夜あるいは節分の夜に猫が集まって会議を開いた。「猫岳参り」と称して猫岳で修行した猫は、出世して化ける力もつけ、里に戻ると猫の頭領となった。修行の印に耳がさけていたという。猫岳山中には猫屋敷を構え、道に迷った旅人をまどわして下働きの猫に変えた。現在も登山口の谷間に「ヤカタガウド」の地名を残す。猫岳の伝説は熊本県のみならず、大分、福岡県などにも分布している。

 江戸中期(1770〜80頃?)に、ある僧が書いた『塔志随筆』には、「猫岳には猫の王がすみ、毎年節分の夜に、阿蘇郷内三里あたりの猫が、みな集まる」とある。同じ頃の『肥後国誌』(1772)にも坂梨村(一の宮町)に伝わる話として、「猫岳には猫の王がすみ、阿蘇郡内の猫は毎年除夜には必ず、この山に詣でる」という。『太宰管内志』下巻(1841)では、『塔志随筆』の話を引いた後、「猫岳には数百の猫がすんでおり、時々、二、三百も連なって歩くのを見る人がいる」と現実味を帯びた記述となっている。

 猫岳は「猫が宮仕えに登る山で、人家の猫が年を経るとここに逃げてくることがあり、それを宮仕えに行ったという」と説明するのは『南郷事蹟考』(1866、長野内匠俊起)だ。『阿蘇郡誌』(1926)には「虎のような猫の大王がすんでいたので、猫岳と名付けた」と山名の由来にしている。「虎のような」と形容された猫王だが、大きな黒猫だとする伝説もある。

 猫王の権威が広がった証は福岡県鞍手郡の伝説に明らかだろう。「飼い猫は大きくなると、必ず姿を隠す。二度三度と姿を隠す猫もいる。それは、五十里もある肥後の猫岳に行(ぎょう)に行くからである。そこには、たくさんの猫が集まって修行をする。修行に行かない猫はほとんどいない。三十日から六、七十日も姿を見せない。修行から帰ると、もうふつうの猫ではない。どの猫もげっそりやせ、耳がさけている」(『民俗怪異篇』「日本民俗叢書」1927、礒清)。猫岳は単に集まって会議をする山から、猫にとって修行の聖地となったのである。それとともに里の人々にも猫岳参りの行動が知れ渡った。猫が集まるときは「峰や谷のいたるところに猫の鳴き声がして、猫の行列を見ることができる」(『肥後昔話集』1943、荒木精之)ほどだった。

 ほとんどの猫が修行にでかけるとする地域もあったが、猫岳参りする猫は、(1)年を経た猫、(2)7歳になった雄猫、(3)大きな猫で特に1貫目(3.75kg)になった場合、などがある。九州中から集まるため、遠いところからは火の玉のように飛んでいったという。修行期間は3日間から半年までと幅があるが、一度猫岳に登れば口が耳までさけ、尾が二またとなったり、恐ろしい面相となった。戻ったとき耳がさけているのは、免許皆伝のしるしに耳たぶをかみわってもらうからなのだという。修行を終えると里に戻って化け猫としてのワザを披露することがある。陽気な猫なら、手ぬぐいをくわえて踊り出し、おとなしい猫なら、障子をそろりと開け閉めする。
 
 猫岳にとどまって悪行をはたらく化け猫もいた。「猫岳の天狗岩には化け猫がいて、ここに登った者は食い殺され、1人も帰って来なかった。それを山東弥源太という豪傑が、少年時代に退治した。子牛ほどの山猫だった」、「高森から宮地に向かう娘の巡礼が猫岳の中腹で道に迷った。谷川に出ると洗濯をする老女に出会った。振り返った老女は口は耳までさけ、目はらんらんと光っていた。逃げると追ってきて、たらいの水をかけた。朝、宮地近くまで来ると、着物の水の乾いたあとに猫の毛がいっぱい生えてきた」(『阿蘇の伝説』「郷土文化叢書」第五篇 1953、荒木精之)
 
 今でも飼い猫が姿を消した時、山に修行に行ったのだと、半ば本気で思う人がいる。猫岳参りの伝えは、猫の摩訶不思議な行動の象徴として、現代にもなお生き続けているといえる。




2001年10月27日

信州の猫寺・法蔵寺(長野県上水内郡小川村)

江戸時代初期から伝わる猫の報恩伝説

 澄み切った青空が広がった晩秋の土曜日に長野へと向かった。目的地は、信州で唯一の猫寺として知られる上水内郡小川村瀬戸川の霊験山曹洞宗法蔵寺。ちょうど長野市と大町市の中間あたりに位置する。創建は南北朝時代の1342年という古刹である。江戸時代初期にはすでに猫の報恩伝説が生まれ、信州の猫寺として伝承されてきた。私はこの寺に伝わる民話から、俗信で失せ猫が修行するという猫寺のモデルになったかもしれないと推測している。

 大宮から長野まで、新幹線だと1時間半で着いてしまうのだから近くなったものだ。駅からのバス便は少ないので、タクシーに乗ると珍しく女性運転手だった。「小川村の法蔵寺」と頼んだら、「どのあたりかな」と仲間に聞いていた。「猫寺として有名なんですよ」と大げさに水を向けると、「そうなんですか? 私は猫好きだけど知らない」とそっけない。でもナマ猫の話となると別で、運転しながら彼女は茶トラ猫の小さな写真を取り出して見せてくれた。「18年も生きたのよ。最後はぼけちゃってね。もう一匹いたんだけど交通事故で悲惨な亡くなりかたで…」と、いまだに立ち直れないペットロスの心境を吐露し始めた。

 山あいの国道を走っているとき、路上の無惨なネコセンベイ(車に轢かれてペシャンコになった猫のこと)に気づき、きわどく避ける。まだレア状態で昨夜の事故らしい。「あー、やだ。あぶなかった」とつぶやいた彼女の、心のダメージを慮った。小川村に入ると、北アルプスが正面に見える。景気づけるように「おお、猫の耳! 鹿島槍だ」と思わず叫ぶ。これほど左右均等の猫耳となった鹿島槍ヶ岳は初めてだ。

「錦秋の山の向こうに耳二つ きりりと立つは鹿島槍かな」

 猫好きの運転手といい、成仏できないネコセンベイといい、猫の耳といい、全く猫寺へ向かうのにはできすぎたお膳立てだと思った。いきなり訪問しても失礼かと思い、車内から携帯電話で法蔵寺に電話する。出たのは奥さんで、住職は法事で午後2時ごろ帰るという。それまでは居られないので「写真を撮りたいだけです」と伝える。

 国道を右折すると小さな「法蔵寺」の看板があった。さらにもう一つの看板から左折すると林道っぽくなって尾根を上がっていく。地図上の瀬戸川という地域とは別の尾根なので変に思う。やがて寺の建物らしいのがあるが、写真でみた法蔵寺とは違う。導かれるままに境内に入っていくと、赤い屋根の大きな本堂が突然現れたのでホッとした。尾根の中腹に建つ寺としては劇的な空間で、かなり広い敷地だ。

山を上がっていくと突如現れる法蔵寺の伽藍 
南北朝時代の創建にふさわしい雰囲気
ペット供養像
13歳の三毛猫がお出迎え

 車を降りると、手を合わせた姿の猫像が建っていてまず驚く。そして最初に見えた建物のほうから奥さんがおりてきた。なんと後から三毛猫がちょこちょこついてくるではないか。この寺の民話によると、たくさんの猫を前に住職の袈裟を着て経を読んでいたのも三毛だったのだ。「電話をされた方ですか?」と待っていてくれたようすで恐縮する。

 勧められて女性運転手とともにお茶をいただきながら話を聞く。歴史ある猫寺としてのPRは一切行わないのが住職の考えなのだという。何より檀家を大切にする寺の姿勢が伺えた。座敷には檀家から贈られたのか、招き猫が数十体鎮座していた。

 三毛は13歳で最初の5年くらいは手がかかったが、いまでは大きな戸も自分で開けるそうだ。最近、雑誌等の取材もたびたびあるが、三毛を写真に納めさせるのは苦労するという。今回も三毛にカメラを向けると物陰に隠れてしまい、撮らせてくれなかった。山中の寺なのに猫が集まってくるらしく、三毛がよそのオス猫に追いかけられていた。

 帰り際に伝説の三毛を祀ったという猫塚を見に行く。寺の裏手を登っていくと小屋がけの脇に、「猫塚」と彫られた五輪塔があった。赤い屋根が木々の緑に映える本堂をカメラに納めてタクシーに戻る。彼女に「効率の悪い仕事させて、ごめんね」と謝ると「いえ、私も勉強になりましたから」と気にしてない様子。「猫寺に招かれたんじゃないの?」と言うと、「そうだねえ」としんみりしていた。そういえば本堂で手を合わせていたなあ。

本堂裏手を登っていくと猫塚
五輪塔の猫塚
 再びネコセンベイの現場を通過したとき、どういうわけか彼女は「あれは猫じゃない。しっぽが太いからタヌキだ」と言い出した。駅前で降車する際、「気持ちだけどこれどうぞ」と彼女が差し出した缶コーヒーの意味は何だったのだろう。なぜかもらい物をする日だ。猫寺からおみやげにいただいたリンゴで、ザックはずしりと重くなっていた。わずか数時間の滞在だったが、満ち足りた気分で長野を後にした。

 いただいた法蔵寺の縁起書にある「猫伝説の由来」は次の通り(「猫塚の由来」碑にも同文が刻まれている)。
 当寺は猫寺の通称をもって知られる古刹にして江戸時代初期正保年間に起りし物語りとして伝ふ。当時三代に亘り飼われたる三毛猫が法師に化けて住持の法衣を着し夜毎鎮守堂に参じて同類を集めて勤行し説法などして奇行な振舞いに及びしが事発覚するや三毛猫は寺より姿を晦したといふ。
 后年三毛猫は武士に変化して当寺を訪れ過去の非礼を詫び何れの日か多年の恩恵に酬いたきを約して去りたといふ。
 当時安曇郡千見の郷に御番所守護職の任にありし下條七兵衛信春氏他界し葬送にあたるや暗雲かき曇り風雨烈しく稀まる荒天に阻まれ数日に亘り難渋を極め居る折旅僧立寄り進言し当山十一代格州良逸和尚を導師として招きたる処荒天たちまち鎮まり晴天白日の下恙なく大葬儀が執り行われたと云ふ。時正保四年〔一六四七〕初秋なり。
 是より下條家一門を初めとして千見地区を中心に深く当寺に帰依して檀家となるなり当時の人々は彼の旅僧こそ猫の化身にして三代に亘り飼われたる三毛猫の報恩の所業なりとして猫檀家と呼び今日に伝わる所以なり。
 冀はこの伝説が広く「心の故郷」として永く伝承されんことを念願やまざるなり。