2011年11月26日

備中猫山と育霊神社(岡山県新見市)


 9月に登った広島の猫山に続いて、今回は岡山の猫山(備中猫山)にでかける。猫山(532m)の西隣のピークには丑の刻参りで有名な育霊神社(奥宮)があるが、その元となる伝説に猫が絡んでいる。

 この伝説では、領主の娘の愛猫が領地争いの戦いに巻き込まれて殺され、娘も非業の死を遂げてしまう。領主は怒り娘と猫の祠をたてて敵を呪う。すると猫を殺した敵兵は次々と狂い死んだという。領主の居城が神社のあるところだった。城主は斉藤尾張守景宗、娘は玉依姫といい、680年ほど前の話とされている。呪いが成就する神社の縁起というわけだ。


 また、別の伝説では、爺婆の前で芝居を見せた猫に恐れを感じて殺そうとするが、猫は山中の岩屋に逃げ込む。人が岩屋の前で見張っているうちに成長して出られなくなってついに死んだので猫神として祀った。この猫神は人に障り、呪いを頼むこともあるという(『日本民俗大辞典 下』(2000、吉川弘文館)による)。


急登を経て育霊神社へ
 芸備線野馳駅から歩けば1時間くらいだろうが、神社だけでなく猫山にも登るのでタクシーを利用する。育霊神社の登り口までお願いしたが、よく分からないということで神社の社務所前でOKとする。「出雲大社野馳教会・育霊神社」の看板があり、すぐ先に「育霊山参道入り口 徒歩30分」の標柱が立っていた。民家脇を登っていくと立派な鳥居があった。のっけから急登となる。落ち葉が道に積もっていて歩きづらい。点々と灯籠がたっているのは、やはり丑の刻参りのためだろうか。中間地点に四阿ふうのお清め場ある。石猫がのった大岩をすぎるとまもなく奥宮が見えてくる。25分程度で着いた。


参道入り口の鳥居
山頂直下の大岩
大岩の上から石の猫が見下ろしていた
木立の中の育霊神社奥宮


 迎える狛犬はなぜか左側が猫だった。かなり古そうで耳が欠けているのでイタチのような顔になってしまっていた。社殿の中をガラス越しにのぞくと、猫の絵が飾られて祭壇の両側に陶製の猫が鎮座している。裏手に回ると、猫を追って自害した玉依姫をまつる祠や招き猫姿を彫った塚があった。

 境内の石柱には「元應元年(一三一九年)城主斉藤尾張守 育野之城内に祀る」とあり、伝説の年代とも合致する。しかし、狛猫脇の別の石柱には斉霊神社と記されている。もとは城主・斉藤尾張守の一文字をとって斉霊神社といわれたものが、後に育野之城の一文字をとって育霊神社と呼ぶようになったものであろうか。


狛猫が向かえてくれる
祭殿裏に祀られた猫の塚


ヤブを漕いで猫山へ
 猫山方面は木々がじゃまして見渡せない。ヤブは笹中心で薄く、わずかな踏み跡を辿っていく。鞍部に立つと白いナイロンテープが導いてくれる。スギを間伐した際の作業用に張ったものだろうか。猫山の頂上の一角に立つと右下に林道が開かれていた。猫山の532mという標高点は写真測量なので標石はない。頂上を示す山名板を探したが見当たらない。猫山から先の鞍部にも、さきほどの林道がつながっていた。どうやらハイキングの対象にすらなっていないピークのようである。猫山西峰ともいうべき育霊神社のあるピークは、参道入り口の標柱にもあったとおり通称・育霊山と呼ばれているようだ。


猫山頂上


 往路を戻って下山し、麓の育霊神社(出雲大社分院)へ。猫のお札や絵馬はなさそう。宮司さんもいなかったので、時間つぶしに猫山が望めるかもしれない猫山北側の沢沿いに林道をさかのぼってみる。奥に行っても山が見渡せるような場所もなく引き返した。なお、参道入り口の民家のおばさんによると、4月22日に育霊神社のお祭りがあるということだった。


育霊神社

2011年11月17日

二度目のショナラ様(長野県筑北村)


聖高原駅から修那羅峠へ
 10年前に初めて修那羅峠を訪れたときは上田〜別所温泉経由で入ったが、今回は麻績(おみ)村からアプローチした(11月5日)。篠ノ井線聖高原駅前から筑北村営バスが、峠手前の真田(しんでん)まで運行している。駅前から台地のような聖山(1447.1m)が見渡せる。この山には猫股伝説があるのでいずれ登るつもりだが、何せ交通の便が悪い。きょうは、どんな山の姿かを眺めるにとどめる。
聖高原駅から聖山を望む
安宮神社参道入り口
安宮神社
 真田バス停から峠へ向かうと、すぐ安宮神社への入り口を示す鳥居がある。幅広の歩道を15分で神社に着いた。犬がけたたましく吠える。はて、10年前は3匹の猫がいたが、犬はいなかった。まずは右手の修那羅遊歩道(桜の森)の狛猫を見に行く。もっと大きかったと思っていたが、意外に小ぶりだった。虎のように立派な猫だ。明治・大正期だろうが、奉納年や名前は読みとれなかった。

神社入り口脇の狛猫

猫です
凛々しい猫です
 礼拝をすませた後、社殿脇をくぐって猫神を見に行く。右手の小高いところに鎮座していた。霊錚山と同様、猫神はここでも特別の位置を占めている。「養蚕大神祠」の左に鬼をはさんで猫神が二体。入り口の狛猫二体を合わせると四体の猫像があることになる。
養蚕大神として祀られた猫像1
猫像2
 気になっていた猫が見当たらない。いつも本殿の回りで寝ているはずだが。休憩所でお焼きを買いながら、おばさんに聞くと、三匹とも死んでしまったとのこと。二匹は死期を察して自ら山に出て行き、残る一匹は最期の鳴き声を聞くのがつらかった。それで、猫はもう飼えないと。

 バス時間を気にして長居はできず、来た道を引き返す。


   大姥山の山姥伝説
 金時(金太郎)を育てたという大姥山(1003m=現大町市)の山姥伝説の中で猫又が登場する。猫又の大きさや姿などはわからず、神がかりな山姥を盛りたてるための材料となっているにすぎない。
 更級郡大岡村の聖山(1447.1m)に猫又がいて付近の人を食ったり作物を荒らして困らせていた。これを退治するため八坂村の山姥様の夫が行ったが、逆に猫又に食われてしまった。そこで山姥様は女の身ながらこれを退治して夫の仇をとり、大姥山に居を構えて金時を育てたという。(参考:『北安曇郡郷土誌稿』長野県北安曇教育会、1979)
 大姥山には山姥が金時を育てたという「岩穴」や産湯に使った「産池」がある。中腹に建つ大姥神社は金時にあやかって子供の健やかな成長を祈る守護神を祀っている。
 大姥山のある八坂村には「化け猫退治」という伝説もある。「昔八坂村字野田の坂井左喜吾という人の家へは毎日夕方になると山猫が化けてはいった。そこで村中の者が集まって隅から隅までさがしてとうとう見つけて殺した。ところが左喜吾はその後病気になった。いくら薬をのんでも治らないので多分猫の祟りだろうといって、神主を頼んで拝んでもらったらだんだんよくなった」(『北安曇郡郷土誌稿』長野県北安曇教育会、1979)。山猫が何に化けたのか、村人に簡単に退治されるほど弱いものかなど、疑問の残る伝説である。化けることはできるが猫又ではなく、まだまだ妖力を持ち合わせていなかったのだろう。せめて、どこの山から下りてきた山猫なのかを知りたいものだ。

2011年11月16日

「猫壇中」伝説の昌福寺(埼玉県深谷市)


寺の衰退を救った虎猫
 深谷市人見の人見山昌福寺は、深谷上杉第5代(深谷城初代城主)房憲の開基である。本堂裏の庭園は深谷市の名勝で、仙元山麓を生かした禅宗庭園で、室町時代の造園といわれている。上越新幹線沿線なので、車窓からも仙元山と昌福寺を見ることができる。

 この寺に、猫の報恩譚の「猫壇中」という伝説がある。寺の衰退を一匹の虎猫が救う話だ。
 猫と寂しく暮らす和尚が胸中を語ると、人語で猫が答えた。「檀家だった長者が近いうちに死ぬ。葬式のとき棺をつりあげるので、南無トラヤヤと唱えるように」と。はたして、猫の予言のとおり長者は亡くなった。その葬列を突然の稲妻と大雨が襲う。雨が去り、棺を置いたままいったん退散した葬列の人々が戻ってみると、棺が宙づりとなっているではないか。なみいる僧たちが経文を読んだり手を尽くすが、棺をおろすことができない。そこで昌福寺の和尚が呼ばれ、猫の言うとおり「南無トラヤヤ」と唱える。棺はするすると降り、そのまま昌福寺の墓地に行ってしまった。これを見て驚いた長者家では、死人が昌福寺が好きなのだろうということで、再び昌福寺の檀家に戻った。嵐を呼び棺を宙づりにしたのが昌福寺の猫だと知れ、以来、昌福寺の檀家を「猫壇中」というようになった。
 突然の雷雨から棺(死体)が昌福寺に行くまでのパターンはもう一つある。伝えられている話では、十数件まとまって離壇した村が長在家村(旧大里郡川本村長在家、現深谷市長在家=昌福寺から南南西約5キロ)となっていることや、葬儀を出して棺を宙づりされた長者が小川家と特定していることなど、全国に分布する昔話の「猫檀家」が伝説化した例だ。
 
 昌福寺には、伝説にまつわる猫塚などの遺物もなさそう。でも、行ってみないと何が見つかるか分からないものだ。あまり気乗りはしなかったが、雲洞庵に行った翌10月30日に出かけてみた。深谷駅から南東へ約3キロ。県道62号から仙元山(98m)を南側に回り込む。境内に入り、まず石板に彫られた「昌福寺誌」を読んでみる。案の定、伝説には一言も触れていない。室町時代の創建で江戸時代には幕府から二十石を下付された禅宗の名刹と説明されている。戦国時代にすたれた一時期のこととして語られた伝説を、今さら表に出す必要はないのだろう。猫の伝説など遠ざける寺がある一方、世田谷区の豪徳寺、長野県の法蔵寺などは伝説を寺院経営に生かしている。

昌福寺の入り口。背後は仙元山

昌福寺本堂

仙元山の散策路
 背後の仙元山も何かと気にかかった。頂上に建つ浅間神社は昌福寺より古く、南北朝時代にはすでに存立していたと伝えられる。民話などで、踊ったり人語を話したのがバレた寺の猫は、年期を言い渡されたり、また自ら裏山に入っていなくなるものだ。寺と裏山と猫は結びつくのだが、猫の気配なし。散策路はよく整備され、隣接する運動公園とともに市民の憩いの場となっているようだ。何も収穫はなかったが、伝説のある寺を見ただけでも満足感があった。出発が遅かったため、渋沢栄一の生家や記念館までは足が回らなかった。
 
 参考
 「埼玉の伝説」(「日本の伝説」18)早船ちよ、諸田森二、角川書店、1977
 「ふるさと埼玉県の民話と伝説」県別民話シリーズ3 韮塚一三郎、千秋社、1982

2011年11月8日

八海山尊神社から雲洞庵へ(南魚沼市)


 山を登ったついでになどと思っていると、なかなか訪れる機会はめぐってこない。晩秋の晴天の1日を越後・南魚沼の猫めぐりに費やした


八海山尊神社の猫札
 八海山尊神社は、越後三山の八海山(1778m)大崎口にある由緒ある神社。40年近く前の11月初旬、荒沢岳から八海山を縦走した。その最終日、千本檜小屋から霊泉小屋を経て五日町駅へと下ったが、この神社についての記憶は全くない。現在の社殿は1979年に建てられたそうで、それ以前はもっと規模が小さかったのだろうか。10月20日恒例の火渡祭には今年も5千人の人で賑わったという。

 浦佐駅始発のバスを八海山入口(大崎)で下車。登山口目指して行くと20分で辿り着いた。社殿に続く石段前の広場に火渡祭の跡を見る。参拝後に拝殿に入ると、目当ての鼠除けの御札が。宮司さんにお話を聞く。昭和30年代半ばの小学生の頃、まだ養蚕が行われていて、体育館で繭玉の品評会をしていたのを覚えているという。かつて、お蚕を鼠から守るための御札は、猫絵ゆえに今でも人気があるのだ。残念ながら八海山には猫の伝説はない。猫の御札一枚ほしくて来た奇特者に「またご縁がありましたら」と宮司さん。

八海山尊神社

昔「鼠除」今は「猫札」人気

雲洞庵の「火車落の袈裟」と「化け猫の骨」
 次の目的地は金城山麓の雲洞庵。大河ドラマ「天地人」で、上杉景勝と直江兼続が幼少時代を過ごしたことで一躍有名になった。鈴木牧之の「北越雪譜」には、雲洞庵の北高和尚が野辺送りの棺を奪おうとする化け猫を退治した話がある。六日町駅から坂戸山(633.9m)の山裾を歩いて約1時間だ。坂戸山は金城(1369m)へと峰続きで、積雪期は低山ながら面白い雪稜となりそうだ。

雲洞庵本堂
 今年7月下旬の新潟・福島豪雨で雲洞庵にも土砂が流れ込み、金城山登山道は通行禁止。大河ドラマ「天地人」から2年たつが、観光バスで次々と拝観者が訪れ、その人気ぶりが伺われた。一通り拝観をすませ、最後に宝物殿を見学。歴史的に貴重な文物が多く展示されている。その中で見逃せないのは、北高禅師が着ていた血染めの「火車落としの袈裟」と、退治された化け猫の頭骨。頭骨は、猫科の動物のものという感じではないし、火星人みたいな顔をしている。ま、怪獣だから、これはこれでいい。伝説の物証が大切に残されていることに意義がある。説明書きによると、化け猫の出撃基地は金城山の岩洞だったという。「北越雪譜」にはない情報だ。その岩洞の場所が特定されていれば興味深いのだが。

大涅槃図に謎の双尾猫がいた
火車落としの袈裟と怪獣の頭骨(手前)
塩沢への道から金城山を仰ぐ

塩沢の鈴木牧之記念館
 六日町駅までの送迎バスを断って、歩いて塩沢駅に向かう。金城山を何度も振り返りながら南魚沼をテクテクと歩くのは楽しい。小一時間で塩沢駅に近い鈴木牧之記念館に着いた。牧之の生家という酒屋さんの前の通りは、三国街道塩沢宿牧之通りとして観光客を呼び込んでいる。今年度の都市景観賞を受賞したという。

鈴木牧之の生家は健在
 記念館で目を惹いたのはワカンのおばけのようなスカリ。会津山岳会の会報は「すかり」だったと記憶する。先端につけた長いヒモを手綱のように持ち、雪に深く沈んだ足を引き上げるという使い方をする。

すかりの使い方が分かる
 なお、牧之は「飯士山の東に阿弥陀峯があり」と「泊まり山の大猫」に書いたが、塩沢から見ると、飯士山の右手に阿弥陀峯が位置するため「東にある」と書いたことがわかった。地図上では飯士山の北北西に阿弥陀峯がある。