2011年9月25日

広島県の猫山(庄原市)

中国地方の代表的な猫山

そろそろ西日本の猫山も訪ねたくなり、連休を利用して遠出することにした。中国地方で代表的な猫山といえば広島県の猫山(1195.5m=庄原市)だ。山名は、優美なスロープの山容が猫の寝姿に似るということもあるが、猫に関する様々な伝説と信仰も背景にある。かつてタタラ製鉄で潤った地域であることの関連も含めて興味尽きない山である。

予定した高速バスは予約できず、9月23日早朝の東京発新幹線に急きょ切り替える。岡山、新見と鉄道を乗り継いで行く。芸備線小奴可(おぬか)駅からタクシーで猫山スキー場の登山口まで約10分。まだ午後2時20分で日も高い。当初は登山口に泊まり、翌日往復するつもりでいたが、とりあえず頂上まで行くことにする。今日中に下山することも十分可能だ。

スキー場右手の植林帯に入ると、すぐ石仏が二体迎えてくれる。真っ直ぐ登っていき沢を渡って右に曲がれば「天上さん」の小屋がある。縦に割れた大岩の下に役小角像と二体の石仏が鎮座している。道は右へとさらに巻き上がったあと、ミズナラ林の本格的な急登となる。

頂上直下に猫石

完全に秋の空気に入れ替わって風が心地よい。暑すぎた先週(飯士山)のヨレヨレが嘘のようにはかどる。伝説にも登場する猫石であろうか。左手に大岩が点在するのを見ると二等三角点の頂上はすぐそこだった。テント一張り分のスペースはあるが樹林の中で泊まるにはどうか。草原を期待して明瞭な道を南峰へ向かう。


「山中に猫石ありて」という伝説のとおり
猫山頂上。三角点は後ろの岩の上にある
すぐに展望が開ける草地に出て南峰へは一投足であった。ピークは狭いながら平らな草地となっていて、小奴可の全域が眼下に一望できる。意外にも踏み跡はさらに道後山駅方面に続いているようだ。ここで泊まらない手はない、と即決。温かい日差しを浴びながら、奥深き中国山地の連なりを日没まで飽かずに眺めた。


南峰から見た猫山
夜は冷え込み、吹き上げる強風でテントが大きく揺さぶられる。テントの四隅を固定するペグ持参で正解だった。夜中に何やら小動物(鳥?)がテントの周りをうろついて「ギーッ、ギーッ」と鳴いた。あまり眠れぬまま夜明けを迎えてテントから出てみると、霧が滝のように峰を越えていく幻想的な眺めを目にした。

夜明けの南峰。眼下には小奴可集落

猫塚を探す

陽で暖まるのを待って、のんびりと往路を戻る。新見方面の始発電車は7時2分で、次は午後2時過ぎまでない。さてどうするか。時間はたっぷりあるので、猫山東麓の板井谷にあるという猫塚を探しながら駅に戻ることにする。

最初の集落で農作業に出かけるおじさんと朝のあいさつを交わす。南峰からさらに南下する踏み跡は、やはり道後山駅方面へと向かうもので、大学の山のクラブ等が利用するとのことだ。このあたりの家は住む人が減り続け、来年は自分も土地を離れるという。限界集落の現実を感じさせられた。

おじさんと話し込んだおかげで猫塚の手がかりをつかんだ。そして、それはあっけなく見つかった(いずれ詳しく報告するつもり)。予想外の成果を得られたことで、思い切って今回の「猫山」行を決断したことに満足した。山中で誰にも会わない〝貸し切り山行〟は気分がいいものだ。

板井谷の猫塚
小奴可付近から見た猫山
ネズミ退治の山
 たたら製鉄が盛んだった中国地方にあって、“全山鉄の山”の猫山(1196m)は、「猫山三里がわいていた」「同じ住むなら猫山三里」といわれるほど周辺域に活況をもたらした。その山名は『日本山岳ルーツ大辞典』によると、「猫の寝姿に似ているところから付いた山名か」とあるが、『西備名区』には次のような由来を記している。
 「猫山 此山高き事五十余町、周廻三里なり。伯州大山を眼下に見る絶景なり。里諺に云、米皮俵を背おふて一日の中に三度廻り猫の真似をすれば山中の石悉く化して猫となる。よって山に名付くと云」
 従って、「猫山は全山が化け猫の山で米を食い荒らす鼠に悩まされていた農民を守る猫神民間信仰の山であったことが推測される。(中略)この猫山は鼠殺しの猫、鉄山の富の招き猫など、さまざまなイメージが重なる。鉄は山岳修験とも関係し、標高約900メートルのルート脇の岩穴には山岳修験の祖役小角に関係する石仏三体が祀られている。猫の妖刀、役小角、鉄。これらが純朴な里人の手にかかると、鼠退治の山になるから面白い」と『広島県百名山』(1998、中島篤巳)で解説されているように、“猫山”としての奥深さを秘めた山の一つである。
 『国郡志書出帳』にも「猫に似た石があってネズミが暴れない」とあり、山麓の集落・板井谷に残る猫塚が往時の猫神信仰を偲ばせる。この猫塚については、「猫を捨てる場合、谷に捨てれば戻ってこないという俗信がいくつかの地方に残っているが、そのひとつだったのだろうか」(『猫まるごと雑学事典』)と推測する向きもある。猫神信仰からするとむしろ逆で、猫塚はネズミ退治に活躍した猫を手厚く葬った場所ではあるまいか。ただし古猫が化け猫になるのを恐れて、飼い猫に年期を言い渡す習慣がこの地方にあったとすれば、前記の解釈は成り立つかもしれない。
                                                 ヤマネコ山遊記より

2011年9月18日

泊り山の大猫(飯士山・阿弥陀坊)

 今年も9月半ばを過ぎたというのに残暑が厳しい。炎天下の飯士山(1111.5m=新潟県南魚沼市)は気が引けるが、昨年同時期に計画したままになっていたのであえて行くことにした。

 鈴木牧之の『北越雪譜』に登場する「泊り山の大猫」の舞台となった阿弥陀坊(約885m)は、後楽園舞子スキー場からのコース上。南北に縦断するように飯士山を越えたら岩原スキー場に抜け、越後湯沢駅まで歩いて戻ることにした。

 越後湯沢からのタクシーをゲレンデ末端で下りる。大汗をかいて展望台まで上がると阿弥陀峯が見え、その右に飯士山がひときわ高い。この尾根ルート、飯士山のいくつかあるコースで一番人気がないのか、登山道にクモの巣がはびこって気が滅入る。

 振り返って魚沼丘陵の山々を見渡せば、タクシー運転手が言っていたとおり、7月末の豪雨で山肌や沢筋の至るところ地肌がむき出しになっている。巻機山方面もかなり沢筋がやられているようだ。


展望台付近からの飯士山と阿弥陀坊(左手前)

 「雨やどりの松」は日陰となったいい休憩場所で汗がひく。828mを過ぎると馬の背となり尾根も細くなった。眼前の阿弥陀坊は、その名からしてボリューム感あるピークと想像していたが、飯士山にいたる一つの平凡な峰にすぎない。左に大きな尾根が伸びている。農夫らが仮小屋に泊まりながらの樵をしていて大猫の鳴き声を聞き、足跡も見たというのは阿弥陀坊の北側が南側か。南側は急傾斜なので、左側(北)の尾根では、と想像する。

馬の背手前からの阿弥陀坊

 鎖場も現れ始めるが、何となく阿弥陀坊を越すと鎖場やロープ頼りの急登の連続となる。登りきると石仏のある頂上の一角だった。ここまで人と会わず静かな山だったが、展望のいい頂上には賑やかなグループが陣取っていた。そそくさと岩原スキー場へと下り、越後湯沢駅前の江神温泉目指して歩いた。

【コースタイム 後楽園舞子スキー場下 10:00 登山口10:30 展望台10:55 雨やどりの松11:10〜15 阿弥陀坊11:40 飯士山12:30〜45 岩原スキー場下13:45 越後湯沢(江神温泉)15:00


泊り山の大猫
 江戸期の雪国百科全書といわれる『北越雪譜』(鈴木牧之)には「泊り山の大猫」と題して、次のような内容で語られている。
 『飯士山の峰続きに阿弥陀峯(あみだぼう)という山がある。昔、百姓たちは雪の少なくなる頃にこの山に入り、小屋を作って寝泊まりし、木を切って薪を生産した。村人はこれを「泊り山」と呼んでいた。この薪は積んで乾かし、雪が消えると牛馬で家へ運んだ。
 この山には水がなかった。人々は樽を背負って、垂れ下がった藤づるを伝わって、谷川まで水をくみに行った。
 二月のある日、七人の農夫が、この泊まり山に薪作りをしていた。すると近くで、山あいに響きわたるような、大きな猫の鳴き声が聞こえてきた。驚いた農夫たちは小屋に集まり、手に手に斧を持って聞き耳をたてていた。その鳴き声は近くで聞こえたかと思えば遠くで鳴き、多くの猫かといえばやはり一匹の猫の鳴き声で、ついに姿を見せなかった。鳴き声が止んだあと、恐る恐るその場所へ行って見ると、堅い雪の上に丸盆ほどの大きな猫の足跡があった。』
 丸盆ほどの大きさの足跡ならば虎よりも大きな猫だったようだ。大猫が「ニャオーッ」では恐ろしげがないので、やはり鳴き声は「ギャオーッ」だったのだろうか?
                                   「ヤマネコ山遊記」より