2010年9月21日

北上山地・笠通山の猫石発見

 18日は群馬県前橋市の飯土井の猫山、19日は千葉県市原市の大桶の猫山と探索した。三連休最終日は疲れも残るが、三たび遠野に向かうことにした。7月に笠通山の山麓で猫石の発見に失敗して3カ月近くになる。10月になると東北は冬に向かってまっしぐらだ。その前にどうしても猫石のある場所を見つけ出したかった。その場所は、7月に探した斜面のもう少し奥だと確信していた。

ついに猫石を自力発見

9月20日 いつものように新花巻を経て遠野にやってきた。観光協会でレンタサイクルを借りて10時20分出発。もう綾織方面へは地図なしでも行ける。雲行きは怪しいが何とか午前中くらいはもってくれそうだ。進行方向から笠通山の根張りは大きく、見た目はあんな山懐まで行くのかよ!と遠く感じる。実際は約40分程度である。11時、綾織町の猫石さん(多田氏)宅に立ち寄る。猫石さんは留守らしく、おばあちゃんと話すが猫石には行ったことはなく、よくわからないという。

笠通山遠望。標高のわりに根張りの大きい山だ


 7月と同じく笠通林道入り口に自転車を置いて林道へ入る。前回調査した地点からさらに奥へ、約10分で二つ目の駐車スペースがある。右斜面に踏み跡があり、刈り払いもされている。猫石さんが刈ってくれたのだろうか。猫石への入り口はここだろうと分かった。我ながらこのような時の猫感は鋭い。長年山登りを続けてきたおかげだ。杉林に入っていくとすぐ上部に大岩が見え、それが猫石だと直感。入り口から50〜60mを急登だが2分ほどでたどりつく。15分くらいは登るとの情報もあったので拍子抜けする。登山をしている者とそうでない人との感じ方の違いか。

 猫石周辺の下草はまだ刈られておらず少々うるさい。岩にはシダ類が生え、苔むしている部分もあって掃除してあげたくなる。高さは5mに少し足りないか。側面はきれいに縦に割れて幅10センチくらいの裂け目になっていた。裏側(斜面上部)から簡単に岩に上がれる。林道まで戻ると、入り口左にフーフーと音を立てて岩の重なった下を小沢が流れている。風穴となっているようだ。ここでまた猫感が働く。猫石さんによると、猫石の由来は「風の強い日には猫石の方角から、猫の鳴き声のように聞こえる」というものだ。岩と岩のすき間に風が通り抜ける音が猫の鳴き声のように聞こえるのではないか。あるいは猫石そのものにある裂け目が笛のような役割を果たしているのかもしれない。……こんな仮説が頭に浮かんできた。

猫石発見!
大きな亀裂が走っている(左側面)
亀裂を上から見下ろす
猫の頭部分

 満足して再び猫石さん宅に寄り、猫石発見を報告する。奥さんが出てきたので、おばあちゃんに豪徳寺の招き猫をプレゼントする。先日も市会議員が探しにきたが見つけられずに帰っていったという。

 続いて続石に向かう。ここにも猫石があるという情報があったからだ。弁慶の枕岩の近くだということだったが、結局わからなかった。7月に引き続き失意のうちに続石を去ることになった。でも帰りのペダルは軽くルンルン気分で遠野に戻る。雨が降ってきたが何とかセーフ。自転車を戻し、駅前の御伽屋でそばを食べる。黒い洋猫がすり寄ってきた。


御伽屋のミステリアスな洋猫(遠野駅前)




猫石と猫岩は別

 猫石は見つかったものの、どうしても解せないことがある。発見した猫石は遠野物語拾遺113に出てくる笠通山のキャシャの成り果てなのか。たしかにキャシャは猫石にほど近い小峠あたりに出没するのだが、姿は猫の化け物ではないし、石に変えられたという話も聞いたことがない。猫石さんも猫石がキャシャと関係があるとは言っていないようだ。それともう一つ、源義家軍に追われる安倍貞任に味方し、源義家によって矢で射抜かれたという伝説の怪猫が打ちつけられた岩は猫岩と呼ばれる。笠通山西麓〜北麓にあると推測しているのだが、この猫岩と猫石を同じものとして扱うWebサイトが散見されることだ。以下に引用する『広報みやもり』に掲載された「宮守村風土記」によると、猫岩の位置は笠通山の西麓であり、写真の岩は猫石とは明らかに別の岩である。


宮守村風土記67 砥嶺神霊翁之夜話(四) 怪獣の跡「猫岩」  
 さて、南の間道に向かった義家の軍は、乙茂の坂や鶴ケ谷地(東和町晴山)を打ち過ぎ、谷内峠を越えて田瀬の里に向かいました。それから猿ヶ石川の急流を越え、北に聳える砥森山によじ登りました。(※村名由来参照)そして嶺を下り、艱難苦労をして(大平〜乗越〜迷岡を通り)、笠岡山(笠通山)の麓にたどり着いたのです。そこで一同は小休憩を取って、瓢箪の酒や水などを飲んで喉を潤し、疲れを休めて軍勢は山に登り始めたのです。ところが大変なことが起こりました。途中の岩窟(岩穴)の中から大山猫が現れたのです。針金のような斑の毛で覆われ、その姿はまるで虎のようです。両眼は稲妻のように光り、しっぽは蛇のように揺れ、大きさは小山のようです。しかもその鳴き声は鉢を合わすように響き渡り、身体を揺るがせて飛び出しました。士卒たちは刀や槍で立ち向かいましたが、その猫は飛び交いながら先頭の兵を食い倒しました。義家はこの様子を見て「憎き獣の振るまいかな、射止めてくれん」と弓に矢をつがえるが速いかヒョーと射ると、かの猫の腹を射貫いて後ろの岩にバシッと立ちました。大猫はギャーッと声を上げて死んだのです。そばに寄ってみると身の丈が五尺(1.5メートル)ばかり、恐ろしいほどの怪猫でした。これからこの岩は「猫岩」と呼ばれ、今も残っています。義家の軍勢は笠岡山に登って向こうの山々を眺め渡しましたが、まだ北の頼義の軍は見えません。合図もないのでそこで暫く休んでいました。  
             『広報みやもり(平成10年8月号)水原義人 宮守村風土記

 写真も載っていて説明には「高さ5メートル、幅四メートルほどの大きさの猫岩。全体がコケで覆われ、山の緑にとけ込んでいる」とあり、杉林にある猫石とは違い、周囲の樹木はブナのような広葉樹であった。ということは、猫岩の場所は山麓ではなさそうで、かなり山に分け入る必要があるということか。 猫岩を見つけるまでは、もうしばらく遠野通いをしなければならないようだ。

2010年9月19日

大桶の猫山(千葉県市原市大桶)と横浜市の中田の踊場

大桶の猫山伝説
 大桶区にあり之を古老に問ふに今より凡そ二百年の前頃、東は長南伊勢屋の猫、西は相川村新三左衛門の猫を始めとして、数百の猫集まりて盛宴を張ることあり、秋夜月清く虫喞く頃、其の歌舞の状を目撃することありしと、今は此の山周囲を青年団の為めに伐採されて開墾する所となり、山頂の平地に四・五の老椎を存するに過ぎず。                                    『市原郡誌』(千葉県市原郡教育会編、千葉県市原郡発行、1916)
 典型的な猫の踊り伝説だが、集まってくる猫のうち二匹の飼い主が明らかにされているのが特徴だ。東の長南伊勢屋は現長生郡長南町のいせや星野薬局のこと、西の相川村は現市原市相川である。猫山からそれぞれ直線距離で8キロ、6キロ程離れている。この距離を猫どもが踊りに興じるため集まってくるのかと思うと頭が下がる。ちなみにいせや星野薬局は300年も続く老舗で切妻妻入の土蔵造りの店舗は文化2(1805)年に建てられたもので、国登録文化財に指定されている。

大桶の猫山へ

9月19日 昨日は群馬県前橋市の飯土井の猫山を探査したが、きょうは房総の猫山である。内房線五井から小湊鉄道に乗り換えて上総山田駅下車。房総方面に出かけることはあまりなく、なじみのないところ。

 市原市大桶(おうけ)の甘露寺まで約5キロ。八幡神社、市原交通刑務所、磯谷病院を過ぎると、両側が丘陵に囲まれたのどかな田園風景が広がってくる。前方に小山が二つ見える。左が軍茶利四天堂が建つ城跡山で目指す猫山。高さがほぼ同じの右の山は城廻山で大桶城があったとされる。どちらも標高100mほどだ。

左が伝説の猫山(城跡山)、右は城廻山



正面に高橋商店、裏山が城跡山

 田んぼの真ん中を一直線に突き進む農道を猫山を正面に見ながら歩いていくのは気持ちがいい。うぐいすラインに合流したところは食料品雑貨「高橋商店」前で、右の大桶集荷所から商店の裏手に回り込んでいくように住宅の間を坂道が続いている。さらに右に上がっていく道に導かれていくと左が広場で、奥に天台宗軍茶利山甘露寺が建っていた。道はそのまま石碑の建つところから細道となって竹林の中へ向かっている。竹林に入ると見上げるほどの急傾斜を一直線の石段と続いていた。両側から竹林が覆い被さって日光を遮り陰気な感じ。石段は82段でいったん途切れ、さらに86段続く。

奥の院への参道からの甘露寺
竹林の中の急な石段

 参道入り口から標高差約50mを登りきると奥の院である軍茶利四天堂に到着。社殿前の広場は手入れされないまま夏草が生い茂っていた。2月上旬に「篝焚き」(かがりだき)という新年神事が行われ、地区民らが広場の草を刈って積み上げて燃やすので、訪れるには春先から初夏の方がいいようだ。伝説の通り老椎の木も何本かあった。そのうち一番大きなものは二股の一方が折れてしまっていた。汗ばんだ体には草いきれの中で休んでも落ち着かず、一通り撮影後下ることにする。社殿裏の城累跡を見にいこうとも思ったが、調査テーマが違うのでやめた。

頂上の軍茶利四天堂。伝説のとおり老椎の木も

猫どもが踊った中田の踊場

 まだ日も高いのでもう一稼ぎすべく駅に戻ることにする。帰途、磯ヶ谷の集落でみかけた大黒猫は一瞬、小熊かと見まごうほどだった。鈴をつけていたので飼い猫とわかる。五井駅からは一気に横須賀線直通の久里浜行きを利用して横浜の戸塚へ(便利になったものだ)。横浜で猫の踊り伝説といえば泉区中田の「踊場」である。踊場というバス停が伝説の名残を伝えていたが、市営地下鉄ブルーラインが1999年に開通し、「踊場駅」ができたことでその存在を広く知らしめた。駅舎には随所にその伝説イメージを採り入れて猫のデザインが施され、粋な計らいをしてくれている。2000年には個性的な駅として関東の駅100選にも選ばれている。


一瞬、小熊かと見まごう大黒猫。足が太い!
踊場駅で最も印象的な踊る猫の照明(出口4)

 戸塚駅からブルーラインに乗り換え一駅目が踊場駅。まずは、踊場の供養塔がある2番出口へ向かう。供養塔は屋根付きで、傍らに碑の由来板も立てられている。碑には「南無阿彌陀佛」と刻まれている。賽銭入れも備わり、碑の後ろには卒塔婆もたてかけられていた。出口1にある踊場交番付近は長後街道の最高標高地点(58.5m)で、「中田の坂」の頂上となっている。供養塔はもともと、旧岡津道と長後街道が交差するこの角にあったが、市営地下鉄建設に伴う長後街道の道路拡幅で現在地に移された。長後街道は庶民信仰の山である大山へ至る旧大山道で、近世は登拝客の往来は多かっただろう。明治・大正期には、この一帯も養蚕が盛んになり製紙工場もあったが、踊場伝説はそれよりずっと前に成立しており、養蚕に関係する言い伝えはない。

長後街道から戸塚方面。右上が踊場交番と出口1

踊場の碑の由来
踊場の地名は伝説として古猫が集り毎夜踊ったので生じたと言はる。この碑は猫の霊をなぐさめ住民の安泰を祈念して近郷住民の総意にて元文二年(西暦一七三七年)造立し中田寺住職尊帰として開眼供養せられしものなり。最近交通いよいよ激しく長後街道と鎌倉道のこの交差路改修にて碑の移動に伴ひ本願の地区安泰と交通安全を祈願のため町内有志相計り住民各位の助成を得て慰霊塔を護持祖先の意志を継承奉らんとするものである。  昭和六十一年十一月三日に戸塚区から当区は泉区に変行になった。   中田踊場慰霊塔管理委員会

踊場供養塔(出口2)
踊場の碑の由来
 踊場伝説のパターンはいくつか在るのだが、不思議なのは猫が踊ったところだから踊場と名付けられたのではなく、「おどり場という所を通ったら猫がたくさん踊っていた」というものが多いことだ。すでに踊場という場所(地名)だったのである。「オドリバノダイ」としている伝説もある。また、なぜ踊る猫どものために供養塔が建てられたのだろうか。由来碑には書かれていないが、一番説明がつく伝説は、「踊場でたくさんの猫とともに踊っていた又兵衛さんの猫が、火傷である日死んでしまう。その後又兵衛さんが踊場にさしかかったところ死んだはずの猫が踊っていた。その猫の怨霊を供養するため供養塔を建てた」というもの。猫どもただ踊っていただけでなく、通りかかる旅人に披露していたというから、そのけなげさが供養塔(慰霊塔)を建ててもらう理由になったのだろう。毎夜踊っている猫どものためにわざわざ供養塔を建てるはずはないからだ。 参考:高塚さより「横浜市泉区踊場の『猫の踊』譚」(『昔話伝説研究』21号 昔話伝説研究会 2000)

 供養塔建立には中田寺の住職が関わっているが、碑の正式名称は「寒念仏供養塔(かんねんぶつくようとう)」という。供養塔右側面に刻まれているようだ。泉区のWebサイトによると、「寒念仏と刻まれているように、寒い中を中田寺の住職等5人の僧侶が、戸塚周辺の広い地域を念仏修行して回った総仕上げに、踊場の坂の頂上に、この供養塔を祀ったものといわれている」。ちなみに中田寺(ちゅうでんじ)は、江戸初期の慶長17年(1612)に中田村の領主石巻康敬が開基となって創建された浄土宗の古刹である。中田の坂の頂上に設置場所を選んだのは猫の踊伝説があったからなのか、碑の由来文にあるように地元住民が猫どもを慰霊するため造立するのにあたり、その開眼のため中田寺住職らが念仏修行したものかはよくわからない。 参考:『いずみ いまむかし − 泉区小史』(1996年、泉区小史編集委員会編、同発行委員会発行)

 猫山のジャンルに入れるつもりはなかったが、昔は「中田の山」「踊場の坂」と呼ばれた寂しい村境の林であった。供養塔の由来についてはなお不明点が多く、再調査することになるだろう。

2010年9月18日

飯土井の猫山(群馬県前橋市)

「踊る猫」の猫山伝説

 実際に存在した伝説の猫山が、いまやその面影すらなくなってしまった残念な事例である。

 「飯土井の猫山」は、前橋市飯土井に実在した。伝説によると「祐庵という医者が、飯土井を通りかかったところ猫が踊っており、その中に自分の飼い猫も入っていた。それからこの辺りを猫山と呼ぶようになった」と、その由来がある。さらに調べてみると、この地区の二之宮小学校には地域に親しみ郷土愛を育むための教材資料として二之宮カルタが昭和55年に作られ、「ね」には「猫山に立った 開田記念碑」と読まれていることがわかった。

 二之宮カルタ解説抄によると、「猫山は、飯土井町の井出上神社から東へ200m程のところにあった小高い丘である。猫山は、飼い猫を捨てた山なので、猫捨山が猫山になったのだろう。沢山の岩石が在ったのであるが大正4〜8年ごろ石工が掘り出したため、南半分は池になっていた。
 開田記念碑はその池の袂に立てられたものであった。この辺りは畑であったが、大正用水が完成し、水が豊富になったために水田になったものである。「もっと米を」これは畑作農民の重要課題である。水田ができたために、飯土井町の供出米が200俵足らずであったものが600俵を越すまでになった。この大事業を記念して猫山に碑を立てたのである。(以下略)」(「二之宮町自治会ホームページ」より)とより詳しく猫山について説明されている。

 現在、猫山と呼ばれた小高い丘はなくなってしまい、池の袂に立てられたという開田記念碑を探すことがポイントになりそうだ。詳しい地図を見ても、それらしき場所を指し示すものはない。現在はどのような状況になっているのだろうか。

猫山の場所を示す「開田記念碑」とは

9月18日 9月中旬だというのに厳しい残暑が続いている。両毛線駒形駅から地図を頼りに井出上神社まで徒歩約1時間かけて13時着。途中、「二之宮カルタ」を作った二之宮小学校に差し掛かると、賑やかに秋の運動会が行われていた。上武道路(国道17号)脇の小さな赤い鳥居から井出上神社境内に入る。掲示されている神社由来の「井出上神社誌」によれば、「井出上は、いずみ湧く上に鎮座せる意味であり、在も赤城山の伏流水が湧き出て神泉池を満している。」とされている。南側にはその通り神泉池があった。

井出上神社
赤城山の伏流水が湧き出る神泉池

 神社の東200m先に開田記念碑があるはずなので、上武道路に沿って周囲も見回しながら進んでみたが、それらしきものは見当たらず。上武道路の北側は工業団地のようで、小高い丘などもちろん見あたらない。仕方なく戻るように、神社東南の木々のこんもりとした集落を歩いてみる。庭先にいたおばさんに訊ねたが記念碑のことは分からないと言う。しかし、畑で農作業中の70代らしきおじさんから詳しくを聞くことができた。

 まず記念碑については、よく分からないが上武道路の北側に池(飯土井池)があり、墓地がある。そのあたりにあるのではという。猫山についてはよく知っていて、具体的に聞くことができた。猫山があったのは、上武道路の北側の西濃運輸となっているところだという。やはり神社の東200mの位置というのは一致していた。完全に小高い丘は削られて運送会社営業所となってしまっていたのだ。二之宮カルタ解説抄の内容通りで、採石をして大きな穴になり、そこに水が溜まって池になっていた。周りには松が生えていて怖いところだった。猫を捨てるところで、エサと一緒に置いてきたものだという。沼に放り投げるのかと思ったが、そんなことはしないと強調していた。

上武道路の向こう側にかつて猫山があった

 しかし、西濃運輸が猫山の場所として一致する一方、猫山にあるという開田記念碑については、神社北側の飯土井沼付近ではないかという答えに少々混乱する。とにかく飯土井池を一周し、墓地も確認したが記念碑はなかった。次に西濃運輸の広い敷地に沿って一周してみる。猫山の名残は何もなかった。途方にくれかかったが、原点に帰り井出上神社に再び行ってみると、最初気にも留めなかった入り口右手にあっさりと記念碑を発見。まさに「飯土井開田記念碑」であった。おそらく西濃運輸が進出した際、井出上神社に移設されたものであろう。

猫山から移された飯土井開田記念碑

遠ざかる「猫山」の記憶

 この猫山には養蚕神としての役割もあったようだ。上武道路は昭和60年に開通したが、それまでは水田のほか桑園が広がる静かな地域だった。『養蠶の神々 蚕神信仰の民俗』(阪本栄一著、群馬県文化事業振興会)によると、猫山には猫観音という石宮もあり、明治期末頃までは観音様には神楽殿があり、祭りに神楽が行われた。猫が居着かない、あるいは死んでしまったりすることがあると猫観音に祈願したという。話を聞いたおじさんは、猫観音のことには触れておらず、石宮などは5、60年前にはすでになくなっていたのだろうか。地元古老の複数の証言がほしいところだ。

 駒形駅に戻る途中、道ばたで自家ぶどう園の巨峰を売っていた老人に聞くと、猫山というのがあったということは知っていた。地域からも「飯土井の猫山」の記憶は消えつつあることを実感させられた。