2010年11月15日

永久寺の山猫めをと塚(台東区谷中)

猫好き・仮名垣魯文の菩提寺・永久寺へ

 前回の谷中散策でとりこぼした曹洞宗興福山永久寺(台東区谷中4の2の37)へ行く。明治時代の新聞記者・戯作者であり猫好きとしても知られる仮名垣魯文の菩提寺であり、山猫めをと塚をはじめ、猫塔記念碑、猫塚碑など猫史跡フリークには見逃せないところである。

榎本武揚から譲られた山猫の供養塚

11月14日 日暮里駅からもみじ坂経由で三崎坂へ。通りに面した永久寺の山門を入ってすぐの本堂右に山猫めおと塚と猫塔記念碑、右手には猫塚碑が建っている。写真では何度も見たことがあるので、初めてという気がしない。それでも細かいところは間近で観察しないといけない。
山猫めを登塚(左)と猫塔記念碑

 山猫めをと塚(正確には「山猫めを登塚」)は、魯文の飼っていた雌雄の山猫を供養する碑である。『猫の歴史と奇話』(平岩米吉著)によると、雌雄の山猫を魯文に譲ったのは当時海軍卿の榎本武揚であった。その山猫とは欝陵島(竹島とされているのは誤り)で捕らえられたらしい。榎本が塚石を建てたのは、贈って約1年後に亡くなった山猫を惜しんでのことだった。表に福地桜痴の碑文(明治十四年十月建 山猫めを登塚 桜痴居士源喜)が刻されている。裏面には「榎本武揚君嘗賜雌雄山猫于猫々道人魯翁 該猫病而斃標石一基 卿表追悼之意 嗚呼」とあり、遊食連(呑み食い友達?)として竹内久一以下16名が列記されている。なお、本堂には魯文の本箱の扉に描かれた「山猫の写生図」(大蘇芳年画)が掲げられているというから興味深い。

魯文は元祖・猫グッズマニア

 平岩によると、魯文は猫の書画玩具収集には目がないが、猫の飼育には不慣れで贈られた山猫はましてや野生猫であったから、飼い始めて約1年の短命に終わったのだと。面白いのは、明治14年10月4日付「仮名読新聞」(魯文主宰)に、「10月16日に山猫の追善法会施行」の広告を載せているが、その機会に収集した猫グッズを陳列して見せたのだろうという。それらの猫グッズが現在もどこかに保存されているのだとしたら是非見てみたいものだ。

山猫めをと塚
 山猫めをと塚の隣に立つ猫塔記念碑は明治11年開催の「珍猫百覧会」の収益で建てたのだという。珍猫百覧会とは今でいう猫グッズ展だというから、昔も猫モノ人気は高かったのか。丸穴から中をのぞくと眠り猫の像が見えるという、なかなか凝った猫塔である。さすが猫々道人(みょうみょうどうじん)を名乗るだけの猫好きだ。

猫塔記念碑の中には眠り猫が
 猫塚碑に刻まれた成島柳北撰文の文字は細かくて読みとれないが、線彫りされた猫の顔は目立つ。よく見ると目、鼻、口を「魯」の字形にしてある。この碑は、もともと谷中霊園にある高橋お伝の墓の近くにあったもの。本当のお伝の墓は南千住回向院にあるが、谷中霊園の墓は『高橋阿伝夜叉譚』を書いた魯文や歌舞伎役者らが伝三回忌に建てた。お伝ネタで得た収入を充てたものだ。正岡子規は「猫の塚お伝の塚や木下闇」と詠んでいる。
 
猫塚碑

猫塚碑に線彫りされた猫の顔
 魯文の墓は、墓地入り口すぐのところ。墓石には、聖観音を線刻した板碑(13〜16世紀頃に追善のため造られた供養塔)がはめ込まれている。側面には「遺言本来空 財産無一物 俗名 假名垣魯文」と刻まれている。
魯文の墓
 さて、今日の目的は果たしたので、猫探し歩きに切り替える。同じ通りの本通寺をのぞくと墓猫どもがいるわいるわ。猫喫茶?「乱歩」でコーヒータイムとするがナマ猫はいなかった。曲がりくねったへび道(旧藍染川)には猫がいそうとにらんだが見つからず。あかじ坂を登りきって右折。三浦坂のねんねこ家をちらりと見て行きかかるがぐっとこらえて宗善寺、延寿寺へと回る。大きなヒマラヤ杉の下、駄菓子屋風のみかどパン屋で菓子を買う。ひも付きの店番猫がいた。大きい黒猫で「かなりのお年でしょ」と店番のおばあちゃんに聞くと、まだ1歳だとのこと。日暮れが迫り先を急ぐ。改修休館中(平成25年3月まで)の朝倉彫塑館〜夕やけだんだん〜六阿弥陀道〜道灌山通りと抜けて西日暮里駅で終了。
墓猫ども(本通寺)

ひも付き店番猫(みかどパン店)

つかまえた!(朝倉彫塑館近くの路地)