1999年11月28日

猫山探検隊は新たな山にさしかかった

 この2年間、猫と縁のある山々をコツコツと調べ上げてきた。その数51山と予想した以上に多かったのに驚いている。猫の字を当てただけの山名が多いが、猫にちなむ伝説等(たいていは猫又や化け猫で人々に悪さをする)をもつ山は51山中20山もあった。この国の昔々には、これほど妖しき猫どもが山を舞台に跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)して、人びとをきりきり舞いさせていたわけである。

 山名が「猫」に転訛する例としては、①地方豪族の根子氏にちなむ、②山城のふもと(根)に家来や農民が住んだことにちなむ、③山の根際(ねきわ)を根処(ねこ)といったことにちなむ、④山麓に根小屋(耕作用の寝小屋)を設けたことにちなむ、などがある。ただし、転訛して「猫」の字が当てられても、動物の猫と全く関係がなかったとまでは言い切れないというのが持論だ。それを明らかにするのは至難で、まず地方史誌・古文献等を徹底的に洗い出さなくてはなるまい。

 猫山、猫岳の変わり種をいくつか取り上げてみたい。まず北海道・知床の猫山(553m)は、土地柄からアイヌ語nay-kot(涸れた沢、川の跡)から転訛した形跡が強いようだ。山形県の猫岳(977m)付近にはネコマタ沢という沢があり、猫臭さを暗示する。ただし、ネコマタというのも「尾根が二手に分かれるところ」と説明される例があるので、地元に伝説等が残されているかどうかが真の猫山であるかどうかの決め手となる。

 岩手県の猫山(920m)と広島県の猫山(1196m)はともに猫の姿に見立てたという説がある。後者には猫伝説もしっかり残っている。富山県に二つある猫又山のうち、毛勝三山のそれに近く大猫山(2055m)がある。この二つの山を分ける谷が猫又谷で、実際に大猫に登山者が襲われた事実のあるという谷である。猫又伝説のあるのはもう一方だというから不思議だ。実に猫臭い地域で興味深い。

 乗鞍岳の猫岳(2581m)も大いに疑問が湧く。猫の字に転訛したのはたいてい標高の低い山である。根子や根処の転訛というのでは、2500mを越す高山にはなじまない。「尾根が二手に分かれるところの山」と解釈することもできるが、地図ではそのような地形になっていなかった。猫山探検隊としては、それではつまらないし、猫伝説が残っていないか要重点調査猫山に指定したいところだ。

 猫伝説に登場していながら未確認の山も多い。江戸時代の文献に「多くの猫の棲む」と記されるのは土佐の白髪山。ところが高知県には同名の二山(1470m、1770m)あり、どちらが伝説の舞台なのか不明のまま。同じ四国・愛媛県三崎町に伝わる「狩人と猫」では、具体的に「のんしら山のはちまき岩」と出てくるが、地図には載っていない。この場合、民話だから架空の山かもしれない。九州・天草郡には200mほどの「オオヤマ」に猫の支配者がいたとされる、また古猫が岩屋にたくさん集まって、笛を吹いたり舞ったりしたという埼玉県比企郡の戸隠山などなど。

 これらの山が所在が確認できれば猫山の数はさらに増える。地方に出かけて文献を調べることができればいいのだが、山にも行けない昨今はなかなか難しい。地の利を生かして国会図書館通いでもしなければ猫山の道も険しい。猫山探検隊は猫山登山の核心部にさしかかったようだ。

1999年10月3日

幻想的な芭蕉の猫山句

 芭蕉が詠んだ俳句に幻想的な猫山句がある。何とも不思議な句で、初めはどういう意味なのかよくわからなかった。

 山は猫ねぶりて行くや雪の隙

 注釈書によると、「この山は猫山という名をもつだけあって、猫が自分の身を舐(ねぶ)るように、その山肌に積もった雪をねぶりねぶりして、とうとうあのようにところどころ雪がむらぎえになったものであろう」という意味になる。

 残雪模様を山名の猫にかけて、幻想的な句に表現した。ここでいう猫山とは会津の猫魔ケ岳を指す。芭蕉が38歳(天和元年、1681年)頃から40歳(天和4年、1684年)頃までの間の作とされ、底本は「陸奥名所句合天和年中」に出した。

 季語は「雪の隙(ひま)」で春。「山」と「ねぶる(眠る)」をかけ合わせると冬の季語「山眠る」ととれるが、残雪の山であることは明らかなので、季節はやはり春であろう。

 芭蕉が現代に生きているならば、「この山で儲けようとする人間の手によって、ねぶりねぶりされてブナ林がむらぎえになってしまったものよのう」と嘆き詠むのだろうか。猫魔ケ岳は表も裏もスキー場となっている。数百年の沈黙を破って化け猫の怨念が吹き出さないとも限らない。

 そういえば今年夏、この山で小学生が下山中に行方不明となって捜索隊が出た。ついに化け猫さまが長い眠りからさめて人間どもを惑わしたのかもしれない。ただし、相手が子供ということで一晩だけ山にとどめただけで帰してくれた。猫魔ケ岳の主の警鐘と受け取った。

1999年7月25日

猫くさい虎毛山の由来の謎

 今シーズン初の沢登りは久しぶりに東北・虎毛山塊の沢に出かけた。虎毛山(1432m)に登る人は、たいていこのユニークな山名にも心惹かれるらしい。一緒に登った相棒もやはり、「虎毛なんて珍しい名前だね。名付けた人はどういう意味でつけたんだろう」と登りながら話していた。

 そこで私がウンチクを披露したが、「猫に関係あると思うよ」とまでは言わなかった。十二支の山としてすっかり定着した虎毛山に「虎」の字がつくからというものの、この山に限っては「タイガー」と決めつけられない「何か」がありそうなのである。

 過去の雑誌や本で述べられた虎毛山の由来はいずれも決め手を欠いており、「真相は分からない」とする最近のガイドブックもある。虎毛模様の猫を連想してもよいと思っているほど、虎毛山をどうしても猫と結びつけたい私にも、一縷の望みが残されているというわけだ。

 虎毛山についての由来については、様々な見方がある。「小沢や紅葉の縦縞模様を虎の毛皮に見立てた」という有力な説に対して重箱の隅をつつかせていただければ、虎の毛は(体の軸に対して)横縞の模様であり、縦縞模様はリビアヤマネコなど山猫の特徴であるということからすれば、動物学的にはこの説は誤りということになる。もっとも縦か横かは別として、縞模様=虎というのは一般的なイメージなのだろうけれど。

 以下の虎毛山名考を読み比べてみれば、猫と関係がある山だとの珍説を主張するヤツが一人くらいいても構わないだろうと思っている。

●「虎毛山の名は黄色っぽい、東面や南面にわずかに生えるブッシュが無積雪期にあたかもトラの毛皮のようになるところからきたものと考えられる。」(虎毛山・春川 牧恒夫 山と渓谷431号 1974.8)

●「山名は山腹の幾条かの沢が、縦縞のように見え、縞馬の横腹を思わせるものを、虎毛に見立てたことに由来するという」(角川地名大辞典「秋田県」)

●「全山紅や黄に燃える頃、虎毛山がビッグタイガーになることはこの目で確認した。」(岩崎元郎)(「日本百名谷」関根幸次、中庄谷直、岩崎元郎編、白山書房、1983)

●「虎毛という名前も興味をそそる。遠くから見た姿が虎のようだからであろうか。確かに北に位置する高松岳から眺めた時には、虎を横から見たような山容だった。……この楽園のような虎毛山頂も、東の須金岳から眺めるとその印象を一変させる。東面は鋭い懸崖を谷に落として、牧歌的な山頂とは異なる険しい表情をしている。これも虎毛と言われる所以だろうか。」(「みちのく120山」福島キヤノン山の会、歴史春秋出版、1991)

●「山腹の幾条かの小沢が縦模様に見え、これを虎の毛に見立てたことから由来するという。」(「日本の山1000」山渓カラー名鑑、1992)

●「虎毛から連想するのは虎刈りである。八ケ岳の縞枯山のような山かと想像したが、どうも違うらしい。天然のヒノキ林やブナ林の山ということだから、植生の違いから付けられた名前なのだろうか。」(「十二支の山」石井光造、東京新聞出版局、1993)

●「虎毛の名は、山腹のいく条かの沢が縦縞の模様に見え、これを虎の毛に見立てたことから由来するという。」(分県登山ガイド4「秋田県の山」、佐々木民秀、鈴木要三、山と渓谷、1993)

●「頂上湿原の紅葉の縞模様、あるいは山腹の幾条かの小沢が縦模様に見え、これを虎の毛に見立てたことから由来するという。真相ははっきりしない。」(「アルペンガイド2 東北の山特別改訂版」 1997)

●「なぜ秋かというと、ガイドブックに、山頂付近の草原が草もみじに紅葉すると、虎の毛皮のように見えるところからの山名とある。だから虎の毛皮を見るため秋に、ということなのである。本来なら高山植物が咲き乱れる夏に登るということになるのだろうが、山名の由来を聞いてしまった以上は、その由来を訪ねての山旅をしなくてはと思っている。 ワシントン条約によって相手国の輸出証明書がないと毛皮の輸入もできない。それならせめてニセの虎の毛皮見物とシャレてみたい。」(「花の山旅、みちのくの山」一戸義孝、実業の日本社、1997)

1999年6月20日

久慈平岳山麓の猫屋敷に行って来た(岩手県九戸郡軽米町)

「猫屋敷」という集落がある。岩手県九戸郡軽米町のほか胆沢郡金ヶ崎町などにも地名として残っている。

 猫屋敷の由来は、山城の麓の集落という意味を表す根子に猫をあてたもので、一般的に動物の猫とは関係ないようである。昔話の「猫屋敷」では、山中深く迷い入った旅人が明かりの灯る家にホッとしたのもつかの間、かつて飼っていた猫が出てきて、ここは猫屋敷だから早く逃げないと猫にされてしまいますよと言われて、ほうほうのていで逃げ出す。こんな言い伝えが由来なら愉快な地名なのだが。

 むしろ都会のほうに今は猫屋敷と呼ばれる家がある。一人住まいのお婆さんが住んでいる家で、庭先や道路端にまでうずたかくゴミが積まれ、何匹もの猫と暮らしているという例だ。猫がいなければただのゴミ屋敷だが、ゴミ屋敷でなくてもたくさんの猫と暮らす家を指して猫屋敷と言ったりするようだ。

 それはともかく、気になっていたのは軽米町猫屋敷の東方5キロに位置する久慈平岳(706m)であった。久慈平岳は岩手県九戸郡種市町と大野村(※2006年から合併して洋野町)と軽米町の境界にある。そして、手拭いをかぶって踊るようになった猫が引導を渡され、この山に登って山の主になったという言い伝えがある山なのだ(「『村の話』奥南新報」1929年12月)。人語を話し、お宮で幾千の猫とともに踊っていたというので、そんな猫になったらかわいそうだが山に捨てるしかないということになった。送り出すときは「つなぎ銭二つに大きな握り飯とさかななども背負わせた」から、猫もこんな豪勢な餞別を背負ったまま久慈平岳に登るのは大変だったろう。

 四国・香川県にはこれと似たような話があって、ある寺の猫が衣を来て猫またの集まりで踊っているのを見られて暇を出される。その際、小豆飯を炊いてもらって行った先の山を猫山とよんだというもの。

 猫屋敷という集落と猫山たる久慈平岳とが5キロしか離れていないということに興味が湧く。そうなると矢も楯もたまらず猫屋敷という集落をぜひとも見たくなった。ただそれだけのことなのに日帰りでよくもまあ出かけたものだ。あわよくば久慈平岳も登ろうかという気にもあったが、八戸までの距離と時間を考えれば無理。せいぜい八戸からタクシーを使って往復するしかなかった。(これができたのは、たまたま期限切れ間近のJR株主優待乗車券をもらったからである。つまり八戸往復はただだったというわけ)


今にも古猫が出てきそうな猫屋敷

 いずれ久慈平岳に登るときは、確認しなければならないことがある。言い伝えの舞台となった集落は久慈平岳から東方約10キロの種市町岡谷だが、猫が集まったお宮とは岡谷稲荷神社のことか、など。この岡谷稲荷神社は歴史のある三陸有数の神社というから楽しみだ。










1999年4月25日

猫の雪形はなぜないのであろうか

 春山の季節だ。残雪に映えるブナの新緑にはまばゆいばかりの躍動感を感じる。この時期の山が一番好きだという人は多いだろう。かくいう私もそうだ。

 しかし、ここ10年ばかりは2月下旬から4月にかけて花粉症に悩まされてかなりの体力を消耗し、さらに追い打ちをかけるように年間で一番多忙な時期を迎える。先日は連続26時間勤務のあげく、さすがに数日間は変調をきたしてしまった。そんなこんなで今年初の山行きはG.Wなのであります。

 今回のテーマは春にふさわしく、以前から気になっていた雪形ついて取り上げたい。猫の雪形がないことにずっと不満を抱いていたからである。猫の形に見える残雪模様はその気になれば見つけることは可能だろう。

ただし雪形というのは、単にある形を表すだけでなく山麓の人々の農事暦となっていたことがポイントで、北アルプス・白馬岳の代かき馬や爺ケ岳の種捲き爺さんが有名だ。

 雪形伝承の本場ともいえる新潟県内の山の雪形を詳しく調べ上げた『図説 雪形』(斎藤義信著、高志書院)によると、生き物の雪形として確認されたのは、ウサギ、サギ、コイ、タイ、カニ、ウシ、ウマ、ツル、カリ、カタツムリ、キツネ、ネズミ、ゾウ、ヤモリ、ハト、シカ、カモシカ、サル、カラス、竜、カメ、イヌ、コウモリだそうで、このうち十二支の動物はウサギ、ウシ、ウマ、ネズミ、サル、竜、イヌと5割以上入っている。で、イヌやウマとともに身近な生き物の猫はなぜ入っていないのか、のけ者にされなければならない理由があるのだろうか。

 一つの仮説としては、山と猫との忌むべき関係を挙げることができるだろう。東北から北陸にかけては化け猫伝説が多い。新潟県には化け猫伝説の存在とともに後世にそれを触れたがらない例がある。弥彦山では佐渡から飛んできた化け猫を猫多羅天女と崇めたと伝えられるが、現在の弥彦神社では妙多羅天女と名を変えて祀られており縁起も大分違っているという。

 また栃尾市の猫股神社(正称・南部神社)は養蚕の神=猫を祀っているとされるものの、神職に聞くと何か不名誉なこととでも勘違いしたのか猫股神社という俗称の由来については語ってくれなかった、と平岩米吉氏は書いている(『猫の歴史と奇話』)。

 猫の雪形が現れる山とあらば、山猫か化け猫の棲む山と混同される恐れがあり、狩猟の世界でも山では猫のことを口に出すのをはばかり隠語を使ったくらいだから、雪形といえども猫を山と結びつけることは意識的に避けたのかもしれない。

 全国に数多い猫山の由来に「猫の姿に似ているため」とされた山もあるが、猫の雪形が現れる山、すなわち猫形山という名の山が存在しないのは寂しいものだ。

1999年3月28日

見つかる、広がる猫の山

 待ち望んでいた本が出た。白山書房創立20周年記念出版の『日本山名総覧 1万8000山の住所録』(武内正編著)である。

 猫山探しが手元の資料だけではもはや頭打ちになっていただけに、この本で少なくとも「猫」のつく山は総ナメにできると心待ちにしていた。期待に違わず、新たに5山の猫山を発見することができた。特にうれしかったのは、北海道にも「猫山」という名称の山が存在したことだ。

 その一方で、すでにぼくが調査していた猫山のいくつかが漏れていることも判明した。例を挙げれば北アルプスの「大猫山」、奥美濃の「猫洞山」などである。山名総覧は2万5千分の1の地形図記載の山名を基本に、自治体への照会で同定したのだそうだが、登山者や地元が通称で用いていても地図に未記載の山名については漏れているとのことだ。

 すでに一部のガイド本には記載されている山名であるだけに、未収録となったのは残念に思う。地図未記載の山名については、改訂版発行の際にぜひとも載せてほしいものだ。

 また、民間伝承や昔話中の猫にまつわる山のいくつかが同定できずに困っていたが、実在する山かどうかの確認は山名総覧でもできなかった。

 もうひとつ細かいところを指摘しておけば、根子岳には信州・菅平と九州・阿蘇に2山あるが、(猫岳)と別名を添えているのは阿蘇の方だけなのはなぜだろうか。

 「コンサイス日本山名辞典」(三省堂)では両方の山に猫岳と別名を入れている。山名総覧「生き物山名」の項で、猫の字がつく山20山として阿蘇・根子岳(猫岳)も含めるのなら、菅平・根子岳も加えてもいいはずだが、はずれたのは地元の呼称に従ったから(別名なしと?)ということだろう。猫岳参り伝説のない信州・根子岳にとっては、わざわざ「猫岳」の別名をもたなければならない裏付けに乏しい。

 それにしても膨大な山名データをまとめ上げた労作に拍手を贈りたい。著者は生涯をかけて山名総覧を改訂・充実していくとのことで、今後の調査を期待しつつ見守りたい。

1999年2月28日

失せ猫どもはどこで修行するのか

 猫の随筆本をめくると、たまに家出猫についての話がでてくる。どこかへ修行に行ったのではないかと書いてあったりすると、自分はランランと輝く猫目になってしまう。その修行先とはどこだ? どこだと思ってるんだ!

 だが、「中部山岳地帯の荒寺」や「木曽の山中」「何年か修行すると化けられる寺」「遠州森の秋葉神社」などと書かれている程度で、本で読んだとか、ある人から聞いたとか、出所がどうもはっきりしないのだ。これじゃ猫どもはほくそ笑み、自分のイライラはつのるばかりである。

 その昔、年老いた猫は山中に入るとされ、地域によっては狐に誘われて山に行くとも考えられた。飼う場合にはあらかじめ年期を猫に言い聞かせ、年期が来ると追い出したり、あるいは自ら言いつけどおりに失踪したのもいるという。

 “冥界”である山に入った猫が戻ったとあらば、妖力をつけてきたと考えるのは自然のことであっただろう。飼い主からすれば「たくましい顔つきになって帰ってきた」と、戻り猫に感心するくだりをある本で最近読んだが、現代でさえ家出猫の振る舞いには不可思議さを残している面がある。

 失せ猫を戻すおまじないで有名な百人一首「立ちわかれいなばの山の峰におふる まつとしきかば今帰りこむ」の「いなばの山」にひっかけて、失せ猫は「九州のいなばの山の猫山」に居るからと説いたとする伝承もあった。

 「九州のいなばの山」が阿蘇の根子岳(猫岳)であるのは明白で、この山こそ猫の王となるべき猫どもをいかに多く集めたのかは、「猫岳参り」の伝承がこの地方にかなり多いことからもわかる。九州での修行先はこれでいいとしても、本州の中部山岳にある猫岳という山は乗鞍のそれをおいてないが、そこでは猫岳参りの伝説は聞かない。

 北アルプス山麓にある通称・猫寺にも、猫どもが修行のため集まって来たという昔話もない。とすると、家出〜戻るとたくましくなっている〜修行したから〜修行先は深山か山寺のはずだ〜日本の真ん中である中部山岳には猫岳という山と通称・猫寺があるという(ここで九州の「猫岳参り」の民話をあてはめる)……中部山岳説は、ざっとこんな流れなのではなかろうか?

 最近、これらの問題を解明すべくタイムリーな刊行となった『猫の王〜猫はなぜ突然姿を消すのか』は、本格的に猫山を取り上げた初めての本で、昨年末に一気に読了した。しかし、その重厚な論考にもかかわらずなお物足りなさが残ってしまうのはなぜか。

 登山する側の立場から全国各地の猫山を想起するとき、その山々が辿ってきた人と猫と山との深淵なつながりと戦(おのの)きをもっと蘇らせなければと高ぶってしまい、ヤマネコのひげは遠い昔をしのんでピクついてしまうのであった。

 とはいうものの、家出猫がご近所の家でのうのうと幾日か過ごし、その後また別の家に上がり込んではカジケ猫を決め込んでいるなどというのが、案外、修行の真実だったりする。

 自分の郷里で昔飼っていた猫が、何日かの家出の果てに「肥溜め」(昔はよく畑の脇などにあったのだよ)にはまり、化け猫どころかクサ猫になってプーンと戻ってきたときには、家族一同ぶっとんでしまったものだ。こういう修行はしてほしくないものである、猫どもよ!

1999年1月31日

猫とハーケン

 いっときの寒波が緩み、柔らかな陽射しが注ぐ土曜午後の猫日和、思い立って地下鉄に乗って都心へと向かった。降りたのは九段下駅。ここから千鳥ガ淵に沿って竹橋まで歩いていくのだ。

 千鳥が淵沿いの散歩道は都内でも有数の猫スポットだという。猫おばさんでも来ない限り、猫どもが集まっているわけではない。植え込みにポッカリあいた空間をのぞいて見ると、じっとしていたり昼寝している。猫おばさんに作ってもらった手製のつぐらなどあって、その上に座っている場合もある。

 カメラを向けるとエサでもくれるかとすり寄ってくるのもいるが、たいていは無視するか、昼寝のじゃまをするなとでも言いたげにカッと目を見開いて警戒した。

 猫ゾーンを過ぎると、学生時代に遊んだ石垣は間近い。通っていた大学は神田駿河台にあったので、いつも皇居のお濠周辺をランニングしていた。そのころは常盤橋公園の石垣など知らなかったから、千鳥ガ淵のとある秘密の石垣で岩登りまがいの練習をしたことがあるのだ。

 半蔵濠手前で左折して尾根状の散歩道に上がると、すぐその場所がわかった。丸いコンクリート台がいくつかあるところだ。台の上でよく腹筋を鍛えたものだが、それがかつてB29を迎え撃つ高射砲の台座だったとは知らなかった。

 石垣基部に降りるため、懸垂下降の支点に使った木は20数年の時を経てかなり太くなっていた。しかし、その脇に立つ「柵内に入らぬこと 環境庁皇居外苑管理事務所」という、当時はなかった立て看にとまどい、直接石垣をのぞき込むことは遠慮してしまった。のぞいたところでザイルがなければ、下におりられるわけではない。

 当時、石垣遊びする者がぼくらの他にもいたらしいことは、すでにその木にあったザイルずれが証明していた。そして、きょうの本当の目的は、石垣にあった1枚のハーケンがまだあるかどうかを確かめたかったのだが……。

 春になったらまた猫どもを見に来ようとは思う。しかし、石垣にはもう行くことはないだろう。人工壁全盛のいま、歴史的遺物に取り付く不埒者などもういないだろうし、記憶の片隅にあのハーケンも打ち込まれたままにしておくことにしよう。竹橋に向かって歩きながら、そう思った。