2011年8月20日

「猫又山」「猫ノ踊場」を目指して

猫山詣で復活

体調がようやく回復し、10カ月ぶりに山へ。猛暑続きで不安だが、思い切って昨年9月にも計画した北アルプス「猫ノ踊場」(2217m)をめざす。

白馬岳から西方に延びる尾根は清水岳(2589m=しょうずだけ)に至る。さらに黒部川に向かって南西に清水尾根、北西に突坂尾根が分かれる。猫又山(2308m)は清水岳から1.5キロ北西の突坂尾根上にある。猫ノ踊場はここから南西に向きを変える突坂尾根から北西に延びる枝尾根1キロ先に位置する。

猫又山から清水岳までのわずか1.5キロの藪漕ぎに5時間かかったという沢登りパーティーの記録もあり、この猛暑の中で往復するのはただでさえ萎える。残雪期なら比較的容易に辿ることができるが、手つかずの楽園ともいうべきお花畑と草原の「踊場」に立たなくては、とのこだわりがある。できれば月夜の草原に泊まって猫又伝説に思いを馳せてみたい。それは同時に、この一帯特に棲息密度が高いクマの恐怖に戦くことでもあるのだが。

今回はどれだけ体力が回復したか検証するつもりで、黒部峡谷の祖母谷温泉から清水尾根を登ることにした。この尾根を登るのは下山に使う人の1、2割程度。観光客で満杯のトロッコ列車に乗っていた登山者は自分1人だった。お盆時期の白馬岳周辺の喧噪に比べていかに少ないことか。

静かな清水尾根

初日(8月14日)、しょっぱなから急登でかなりこたえる。暑さでヨレヨレしながらも不帰岳避難小屋までほぼコースタイム通り。ということは、かなり遅いということ。小屋泊まりは下山者含めて3人だった。

翌日はとりあえず清水岳まで行って判断することにする。清水尾根上部は噂通りのお花畑が続き展望も素晴らしい。猫又山から猫ノ踊場への尾根もよく見える。ルートを観察したり写真を撮りながら、ついつい歩みがのろくなってしまう。清水岳でハイマツの状況などを確認するが、日高のような枝渡りするハイマツ漕ぎとはならないようだ。尾根北面は植生が薄く、うまく利用すれば辿りやすいだろう。

まだ9時前だが、往復には最低8時間はかかりそう。午後3時以降は雨となりそうだし、今回は猫又山から猫ノ踊場の姿をカメラにおさめたことでよしとしよう。

計画では清水尾根を下るのだが、しんどかった登りを思うと敬遠することに。そのかわり40年ぶりに白馬岳を登ってみたくなった。あわよくば雪倉岳、朝日岳まで足を延ばそうか、というのは虫がよすぎた。結局、白馬大池小屋で幕営し、3日目は蓮華温泉に下山した。


清水尾根上部から毛勝三山の猫又山も見える(左のピーク)

猫又山(写真中央の禿部分と右の小ピーク)と猫ノ踊場
猫ノ踊場遠望。三角点は白い雪渓のさらに先となる

清水岳から猫ノ踊場への稜線。猫又山は隠れて見えない



猫又伝説と猫の踊り場

 黒部・猫又山由来のオリジナルは『山の伝説 日本アルプス篇』(青木純二、丁未出版社、1930)の猫又伝説であろう。

 「元和の頃、黒部峡谷に猫又という怪獣が出た。富士山に棲んでいたのであるが、源頼朝が巻狩をしたとき、軍兵を喰い殺したので、富士権現の怒りに触れて黒部へ流転して来た。ここでも人を襲った。猫又に殺された三人の惨状を目のあたりにした人々は恐れおののき、作場へも出なくなった。そこで庄屋と村人が代官に猫又退治を願い出た。山狩りを行うことになり、千余の勢子が出動した。猫又を発見はしたが、その形相の凄まじさに勢子は立ちすくんだ。しかし、猫又もその威勢に怖れ、いずこともなく逃げ去った。怪獣のいた山を人々は猫又山と呼んで怖れた」

 後半は「猫の踊り場」の話で、猫又退治のため黒部奥山を探し回っていた加賀藩の鉄砲隊が、満月の光を浴びて踊っているところ見つけ、狙いを定めて仕留めた場所とされている。

 ところが伝説前半部の、人々が猫又退治に出かけたあたりまでは、「重倉山の猫又」を記録した『猫又退治之次第』とほとんど同じで、これをリライトしたものと推測されている(湯口康雄『黒部奥山史談』桂書房、1992)。

 猫又山は黒部峡谷右岸に位置するが、そこから出ている谷を猫又谷、谷が黒部川に落ち合う場所に猫又ダム、猫又発電所がある。猫又谷の名も伝説に基づいている。

 「昔、下流から一匹のネズミが猫に追われて逃げてきた。追跡からのがれるため、左岸の絶壁をよじ登ろうと何度も飛びついたがだめだった。そこでその壁を「ネズミ返しの断崖」と呼んだという。さらに猫がその様子を見ていた右岸の段丘を「猫又」と呼ぶようになったという」。ネズミ返しの断崖は猫又発電所の対岸近くに続く200mにも及ぶ花崗岩の壁である。


                                      「ヤマネコ山遊記」より