2011年12月31日

猫が岩山(大分県別府市)


 2011年最後の猫シリーズは大分県別府市近郊の猫が岩山へ。722mのピークはわずかに自衛隊十文字原演習場内に入るため、安全性を考慮すると年末年始がベストだ。昨年は悪天と積雪のため計画を断念していた。
 
防火帯を登る
 登る人は少ないようで南側の高平山(830m)から往復するのが一般的だが、アフリカンサファリ行きのバスを利用して北側から猫が岩山を登ることにした。往復はつまらないので南下して高平山、狸峠を経由して明礬温泉に下りることにする。演習場側は広大なカヤト原で、官民境界線の防火帯が登りやすい。
 
 やたらとイノシシの足跡が多い。注意していたら、いきなりウリ坊が林の中に逃げていった。頂上の展望は素晴らしく別府湾を望むことができる。「猫が岩」という山名は、鎮西八郎為朝に退治された山猫の伝説に基づいている。
 
鎮西八郎為朝の山猫退治
 その昔、明礬の先の湯山に旅人を襲うなどの凶暴な山猫がいて人々は困り果てた。嘆願されて山猫退治を引き受けた為朝はある夜待ち構えていると、青光りする目の怪物が現れた。矢を放ったところ怪物の額に命中し、恐ろしい悲鳴とともに山に逃げていった。追っていくと頂上で山猫は鮮血を流して石と化していた。それ以来、この山を猫が石山と呼ぶようになったという。
 
山の位置に疑問も
 頂上に点在する岩には、うずくまったような猫の形をしたものは特に見当たらない。伝説では猫が岩山を850mの山としており、湯山から見ても位置的には高平山なのだが、かつてはこの山も含めて猫が岩山と呼ばれていたのかもしれない。高平山は地図に記されておらず、その可能性はある。ただ高平山にも猫に似た顕著な岩はなかった。

岩が点在する猫が岩山頂上
高平山の登りから猫が岩山を振り返る
高平山から別府市街を望む
狸峠手前のピークから高平山
 狸峠から道標に従い、やや不明瞭な道をところどころ右往左往しながらも明礬温泉へと下った。あまり使われていないようで、意外にも「明礬山の湯」の裏手に出たところ「この先危険につき通行禁止」の表示があった。山の湯は混んでおらず湯加減もちょうどよかった。

狸峠の道標
明礬山の湯


2011年12月23日

秩父・城峯神社の「お猫さま」(埼玉県)


将門伝説の城峯山
 将門伝説で知られる秩父の城峯山(1,037.7m、埼玉県秩父市、秩父郡皆野町、児玉郡神川町の境)は、車道が山頂近くの城峯神社まで通じているため労せずに登ることができる。巨大な電波塔が頂上にあるのも気に入らず、登りたい山からはずれてきた。しかし、山頂直下の城峯神社に狛猫がおられるということであれば話は別。「お猫さま」と呼ばれる訳ありの石像を見たい衝動にかられた。

 秩父鉄道皆野駅から町営バスで日野沢コース登山口の西門平まで入る。鐘掛城(1,003m)まで植林地を黙々と登る。稜線の風は冷たく、霜柱を踏み崩して急坂を石間峠へ急ぐ。車道が横断していて、左へ行くと城峯神社へ至る。少しの登り返しで頂上に立つ。バス停から約1時間半で着いてしまう。一等三角点だけに展望はよい。やはり目立つのはギザギザの両神山。

天狗岩から城峯山
目立たぬが特別の存在
 城峯神社へは反対側の尾根を下る。こちらは日当たりのよい雑木林となっている。神社の奥社から天狗岩を往復してから神社へ。伝説の「将門隠れ岩」はうっかりパスしてしまった。鳥居前は平坦な広場で、左手に神楽殿やキャンプ場がある。神社の狛犬は強面の三峰系狼だ。狛犬のそばにあるものと思っていた猫の石像だが、付近を探しても見当たらず少しとまどう。社殿に戻ってみると、その左手前に目立たぬように鎮座していた。思ったより小さく紫の前垂れをかけており、特別な存在のようである。

城峯神社拝殿
これが「お猫さま」
両神山と秩父の山並み(境内広場から)
狛猫ではなく「お猫さま」
 この置き場所が何となくしっくりこない、しかし特別扱いのような猫の石像のルーツとは? この猫、もとは城峯神社の別当寺だった長伝寺(旧吉田村石間)にいらっしゃった。長伝寺には平将門の守り本尊の十一面観音が安置されていて、その眷属である「お猫さま」を貸し出していたという(養蚕地帯なのでやはり鼠除けか)。


 長伝寺の十一面観音は明治元年に光明寺(旧吉田村沢戸)の観音堂に移された。廃寺となったためなのか、明治2(1869)年には「お猫さま」も城峯神社に安置された。それが今に伝わる狛猫だということになる。どおりで、ほかの狛犬と比べて小ぶりだ。貸し出すために人が担ぎ上げて移動できる程度の重量にしたのだろう。当初から猫の石像はひとつだったから、神社にあるからといって狛猫ではない。往時のように「お猫さま」と呼ぶべきなのだ。

 交通の便の悪さから足を延ばせなかったが、秩父困民党の蜂起の舞台となった山麓を訪ねるのも興味深い。

2011年11月26日

備中猫山と育霊神社(岡山県新見市)


 9月に登った広島の猫山に続いて、今回は岡山の猫山(備中猫山)にでかける。猫山(532m)の西隣のピークには丑の刻参りで有名な育霊神社(奥宮)があるが、その元となる伝説に猫が絡んでいる。

 この伝説では、領主の娘の愛猫が領地争いの戦いに巻き込まれて殺され、娘も非業の死を遂げてしまう。領主は怒り娘と猫の祠をたてて敵を呪う。すると猫を殺した敵兵は次々と狂い死んだという。領主の居城が神社のあるところだった。城主は斉藤尾張守景宗、娘は玉依姫といい、680年ほど前の話とされている。呪いが成就する神社の縁起というわけだ。


 また、別の伝説では、爺婆の前で芝居を見せた猫に恐れを感じて殺そうとするが、猫は山中の岩屋に逃げ込む。人が岩屋の前で見張っているうちに成長して出られなくなってついに死んだので猫神として祀った。この猫神は人に障り、呪いを頼むこともあるという(『日本民俗大辞典 下』(2000、吉川弘文館)による)。


急登を経て育霊神社へ
 芸備線野馳駅から歩けば1時間くらいだろうが、神社だけでなく猫山にも登るのでタクシーを利用する。育霊神社の登り口までお願いしたが、よく分からないということで神社の社務所前でOKとする。「出雲大社野馳教会・育霊神社」の看板があり、すぐ先に「育霊山参道入り口 徒歩30分」の標柱が立っていた。民家脇を登っていくと立派な鳥居があった。のっけから急登となる。落ち葉が道に積もっていて歩きづらい。点々と灯籠がたっているのは、やはり丑の刻参りのためだろうか。中間地点に四阿ふうのお清め場ある。石猫がのった大岩をすぎるとまもなく奥宮が見えてくる。25分程度で着いた。


参道入り口の鳥居
山頂直下の大岩
大岩の上から石の猫が見下ろしていた
木立の中の育霊神社奥宮


 迎える狛犬はなぜか左側が猫だった。かなり古そうで耳が欠けているのでイタチのような顔になってしまっていた。社殿の中をガラス越しにのぞくと、猫の絵が飾られて祭壇の両側に陶製の猫が鎮座している。裏手に回ると、猫を追って自害した玉依姫をまつる祠や招き猫姿を彫った塚があった。

 境内の石柱には「元應元年(一三一九年)城主斉藤尾張守 育野之城内に祀る」とあり、伝説の年代とも合致する。しかし、狛猫脇の別の石柱には斉霊神社と記されている。もとは城主・斉藤尾張守の一文字をとって斉霊神社といわれたものが、後に育野之城の一文字をとって育霊神社と呼ぶようになったものであろうか。


狛猫が向かえてくれる
祭殿裏に祀られた猫の塚


ヤブを漕いで猫山へ
 猫山方面は木々がじゃまして見渡せない。ヤブは笹中心で薄く、わずかな踏み跡を辿っていく。鞍部に立つと白いナイロンテープが導いてくれる。スギを間伐した際の作業用に張ったものだろうか。猫山の頂上の一角に立つと右下に林道が開かれていた。猫山の532mという標高点は写真測量なので標石はない。頂上を示す山名板を探したが見当たらない。猫山から先の鞍部にも、さきほどの林道がつながっていた。どうやらハイキングの対象にすらなっていないピークのようである。猫山西峰ともいうべき育霊神社のあるピークは、参道入り口の標柱にもあったとおり通称・育霊山と呼ばれているようだ。


猫山頂上


 往路を戻って下山し、麓の育霊神社(出雲大社分院)へ。猫のお札や絵馬はなさそう。宮司さんもいなかったので、時間つぶしに猫山が望めるかもしれない猫山北側の沢沿いに林道をさかのぼってみる。奥に行っても山が見渡せるような場所もなく引き返した。なお、参道入り口の民家のおばさんによると、4月22日に育霊神社のお祭りがあるということだった。


育霊神社

2011年11月17日

二度目のショナラ様(長野県筑北村)


聖高原駅から修那羅峠へ
 10年前に初めて修那羅峠を訪れたときは上田〜別所温泉経由で入ったが、今回は麻績(おみ)村からアプローチした(11月5日)。篠ノ井線聖高原駅前から筑北村営バスが、峠手前の真田(しんでん)まで運行している。駅前から台地のような聖山(1447.1m)が見渡せる。この山には猫股伝説があるのでいずれ登るつもりだが、何せ交通の便が悪い。きょうは、どんな山の姿かを眺めるにとどめる。
聖高原駅から聖山を望む
安宮神社参道入り口
安宮神社
 真田バス停から峠へ向かうと、すぐ安宮神社への入り口を示す鳥居がある。幅広の歩道を15分で神社に着いた。犬がけたたましく吠える。はて、10年前は3匹の猫がいたが、犬はいなかった。まずは右手の修那羅遊歩道(桜の森)の狛猫を見に行く。もっと大きかったと思っていたが、意外に小ぶりだった。虎のように立派な猫だ。明治・大正期だろうが、奉納年や名前は読みとれなかった。

神社入り口脇の狛猫

猫です
凛々しい猫です
 礼拝をすませた後、社殿脇をくぐって猫神を見に行く。右手の小高いところに鎮座していた。霊錚山と同様、猫神はここでも特別の位置を占めている。「養蚕大神祠」の左に鬼をはさんで猫神が二体。入り口の狛猫二体を合わせると四体の猫像があることになる。
養蚕大神として祀られた猫像1
猫像2
 気になっていた猫が見当たらない。いつも本殿の回りで寝ているはずだが。休憩所でお焼きを買いながら、おばさんに聞くと、三匹とも死んでしまったとのこと。二匹は死期を察して自ら山に出て行き、残る一匹は最期の鳴き声を聞くのがつらかった。それで、猫はもう飼えないと。

 バス時間を気にして長居はできず、来た道を引き返す。


   大姥山の山姥伝説
 金時(金太郎)を育てたという大姥山(1003m=現大町市)の山姥伝説の中で猫又が登場する。猫又の大きさや姿などはわからず、神がかりな山姥を盛りたてるための材料となっているにすぎない。
 更級郡大岡村の聖山(1447.1m)に猫又がいて付近の人を食ったり作物を荒らして困らせていた。これを退治するため八坂村の山姥様の夫が行ったが、逆に猫又に食われてしまった。そこで山姥様は女の身ながらこれを退治して夫の仇をとり、大姥山に居を構えて金時を育てたという。(参考:『北安曇郡郷土誌稿』長野県北安曇教育会、1979)
 大姥山には山姥が金時を育てたという「岩穴」や産湯に使った「産池」がある。中腹に建つ大姥神社は金時にあやかって子供の健やかな成長を祈る守護神を祀っている。
 大姥山のある八坂村には「化け猫退治」という伝説もある。「昔八坂村字野田の坂井左喜吾という人の家へは毎日夕方になると山猫が化けてはいった。そこで村中の者が集まって隅から隅までさがしてとうとう見つけて殺した。ところが左喜吾はその後病気になった。いくら薬をのんでも治らないので多分猫の祟りだろうといって、神主を頼んで拝んでもらったらだんだんよくなった」(『北安曇郡郷土誌稿』長野県北安曇教育会、1979)。山猫が何に化けたのか、村人に簡単に退治されるほど弱いものかなど、疑問の残る伝説である。化けることはできるが猫又ではなく、まだまだ妖力を持ち合わせていなかったのだろう。せめて、どこの山から下りてきた山猫なのかを知りたいものだ。

2011年11月16日

「猫壇中」伝説の昌福寺(埼玉県深谷市)


寺の衰退を救った虎猫
 深谷市人見の人見山昌福寺は、深谷上杉第5代(深谷城初代城主)房憲の開基である。本堂裏の庭園は深谷市の名勝で、仙元山麓を生かした禅宗庭園で、室町時代の造園といわれている。上越新幹線沿線なので、車窓からも仙元山と昌福寺を見ることができる。

 この寺に、猫の報恩譚の「猫壇中」という伝説がある。寺の衰退を一匹の虎猫が救う話だ。
 猫と寂しく暮らす和尚が胸中を語ると、人語で猫が答えた。「檀家だった長者が近いうちに死ぬ。葬式のとき棺をつりあげるので、南無トラヤヤと唱えるように」と。はたして、猫の予言のとおり長者は亡くなった。その葬列を突然の稲妻と大雨が襲う。雨が去り、棺を置いたままいったん退散した葬列の人々が戻ってみると、棺が宙づりとなっているではないか。なみいる僧たちが経文を読んだり手を尽くすが、棺をおろすことができない。そこで昌福寺の和尚が呼ばれ、猫の言うとおり「南無トラヤヤ」と唱える。棺はするすると降り、そのまま昌福寺の墓地に行ってしまった。これを見て驚いた長者家では、死人が昌福寺が好きなのだろうということで、再び昌福寺の檀家に戻った。嵐を呼び棺を宙づりにしたのが昌福寺の猫だと知れ、以来、昌福寺の檀家を「猫壇中」というようになった。
 突然の雷雨から棺(死体)が昌福寺に行くまでのパターンはもう一つある。伝えられている話では、十数件まとまって離壇した村が長在家村(旧大里郡川本村長在家、現深谷市長在家=昌福寺から南南西約5キロ)となっていることや、葬儀を出して棺を宙づりされた長者が小川家と特定していることなど、全国に分布する昔話の「猫檀家」が伝説化した例だ。
 
 昌福寺には、伝説にまつわる猫塚などの遺物もなさそう。でも、行ってみないと何が見つかるか分からないものだ。あまり気乗りはしなかったが、雲洞庵に行った翌10月30日に出かけてみた。深谷駅から南東へ約3キロ。県道62号から仙元山(98m)を南側に回り込む。境内に入り、まず石板に彫られた「昌福寺誌」を読んでみる。案の定、伝説には一言も触れていない。室町時代の創建で江戸時代には幕府から二十石を下付された禅宗の名刹と説明されている。戦国時代にすたれた一時期のこととして語られた伝説を、今さら表に出す必要はないのだろう。猫の伝説など遠ざける寺がある一方、世田谷区の豪徳寺、長野県の法蔵寺などは伝説を寺院経営に生かしている。

昌福寺の入り口。背後は仙元山

昌福寺本堂

仙元山の散策路
 背後の仙元山も何かと気にかかった。頂上に建つ浅間神社は昌福寺より古く、南北朝時代にはすでに存立していたと伝えられる。民話などで、踊ったり人語を話したのがバレた寺の猫は、年期を言い渡されたり、また自ら裏山に入っていなくなるものだ。寺と裏山と猫は結びつくのだが、猫の気配なし。散策路はよく整備され、隣接する運動公園とともに市民の憩いの場となっているようだ。何も収穫はなかったが、伝説のある寺を見ただけでも満足感があった。出発が遅かったため、渋沢栄一の生家や記念館までは足が回らなかった。
 
 参考
 「埼玉の伝説」(「日本の伝説」18)早船ちよ、諸田森二、角川書店、1977
 「ふるさと埼玉県の民話と伝説」県別民話シリーズ3 韮塚一三郎、千秋社、1982

2011年11月8日

八海山尊神社から雲洞庵へ(南魚沼市)


 山を登ったついでになどと思っていると、なかなか訪れる機会はめぐってこない。晩秋の晴天の1日を越後・南魚沼の猫めぐりに費やした


八海山尊神社の猫札
 八海山尊神社は、越後三山の八海山(1778m)大崎口にある由緒ある神社。40年近く前の11月初旬、荒沢岳から八海山を縦走した。その最終日、千本檜小屋から霊泉小屋を経て五日町駅へと下ったが、この神社についての記憶は全くない。現在の社殿は1979年に建てられたそうで、それ以前はもっと規模が小さかったのだろうか。10月20日恒例の火渡祭には今年も5千人の人で賑わったという。

 浦佐駅始発のバスを八海山入口(大崎)で下車。登山口目指して行くと20分で辿り着いた。社殿に続く石段前の広場に火渡祭の跡を見る。参拝後に拝殿に入ると、目当ての鼠除けの御札が。宮司さんにお話を聞く。昭和30年代半ばの小学生の頃、まだ養蚕が行われていて、体育館で繭玉の品評会をしていたのを覚えているという。かつて、お蚕を鼠から守るための御札は、猫絵ゆえに今でも人気があるのだ。残念ながら八海山には猫の伝説はない。猫の御札一枚ほしくて来た奇特者に「またご縁がありましたら」と宮司さん。

八海山尊神社

昔「鼠除」今は「猫札」人気

雲洞庵の「火車落の袈裟」と「化け猫の骨」
 次の目的地は金城山麓の雲洞庵。大河ドラマ「天地人」で、上杉景勝と直江兼続が幼少時代を過ごしたことで一躍有名になった。鈴木牧之の「北越雪譜」には、雲洞庵の北高和尚が野辺送りの棺を奪おうとする化け猫を退治した話がある。六日町駅から坂戸山(633.9m)の山裾を歩いて約1時間だ。坂戸山は金城(1369m)へと峰続きで、積雪期は低山ながら面白い雪稜となりそうだ。

雲洞庵本堂
 今年7月下旬の新潟・福島豪雨で雲洞庵にも土砂が流れ込み、金城山登山道は通行禁止。大河ドラマ「天地人」から2年たつが、観光バスで次々と拝観者が訪れ、その人気ぶりが伺われた。一通り拝観をすませ、最後に宝物殿を見学。歴史的に貴重な文物が多く展示されている。その中で見逃せないのは、北高禅師が着ていた血染めの「火車落としの袈裟」と、退治された化け猫の頭骨。頭骨は、猫科の動物のものという感じではないし、火星人みたいな顔をしている。ま、怪獣だから、これはこれでいい。伝説の物証が大切に残されていることに意義がある。説明書きによると、化け猫の出撃基地は金城山の岩洞だったという。「北越雪譜」にはない情報だ。その岩洞の場所が特定されていれば興味深いのだが。

大涅槃図に謎の双尾猫がいた
火車落としの袈裟と怪獣の頭骨(手前)
塩沢への道から金城山を仰ぐ

塩沢の鈴木牧之記念館
 六日町駅までの送迎バスを断って、歩いて塩沢駅に向かう。金城山を何度も振り返りながら南魚沼をテクテクと歩くのは楽しい。小一時間で塩沢駅に近い鈴木牧之記念館に着いた。牧之の生家という酒屋さんの前の通りは、三国街道塩沢宿牧之通りとして観光客を呼び込んでいる。今年度の都市景観賞を受賞したという。

鈴木牧之の生家は健在
 記念館で目を惹いたのはワカンのおばけのようなスカリ。会津山岳会の会報は「すかり」だったと記憶する。先端につけた長いヒモを手綱のように持ち、雪に深く沈んだ足を引き上げるという使い方をする。

すかりの使い方が分かる
 なお、牧之は「飯士山の東に阿弥陀峯があり」と「泊まり山の大猫」に書いたが、塩沢から見ると、飯士山の右手に阿弥陀峯が位置するため「東にある」と書いたことがわかった。地図上では飯士山の北北西に阿弥陀峯がある。

2011年10月27日

霊諍山の「マントを着たヘソ出しフンドシ鬼猫」

フンドシ猫に会いに行く
15日の弥彦行に続き、16日は長野方面へ。霊諍山(長野県千曲市)の通称・フンドシ猫神を見に行くことにした。頂上付近には、安宮神社のある修那羅山と同様に石仏・石神が数多く鎮座する。中でも通称・フンドシ猫は、石仏写真集で惚れ込んで見に来る人もいるらしい。電車に乗っているうちから実物と対面するのが楽しみでソワソワする。

屋代駅前から、千曲市営の循環バスが出ている。日曜日なのにすばらしいことだ。公共交通機関を利用して山に行く主義者として(運転免許ないだけ…)、この上なく嬉しい。八幡というバス停でおりると、30分かからず霊諍山の麓の大雲寺に到着。

大雲寺池から霊諍山
霊諍山一帯は一重山と呼ぶらしい。まず大雲寺へ行ってみると、「大雲寺自然探勝路」があって、霊諍山へ行けるようだ。少しやぶっぽいが、わずかで鳥居のある尾根の鞍部(牛首)に出た。通ってきた道は落石があったのか通行止とされていた。林道のような幅広の道が尾根を左へ回り込んでいく。10分ほどで491mの霊諍山に着く。


大雲寺の背後が霊諍山

大雲寺のおすまし寺猫
 頂上の真ん中に社殿があり、頂上南側から東側の縁を取り巻くように石仏や石神等が居並んでいた。急かされるように猫神を探す。社殿後方には大きな石祠。その背後に南側を向いた二体並んで猫神があった。他の石仏等とは独立して鎮座していて、特別の存在のように感じられた。養蚕が盛んだった時代をしのばせる貴重な存在だ。

霊諍山の頂上
 フンドシ猫をより詳しく表現すると「マントをはおった出ベソのフンドシ鬼猫」だ。鬼猫というのは下あごに牙を出していて、角と鬼棒がないだけでほとんど鬼のつもりらしい。左手を上げて「来い来い」をしているので、招き猫という見方もできる。もう一体の猫神はうずくまったポーズで平凡だが、その立体的な彫りがよろしい。拝顔するととぼけてはいるが、よくよく見ると少し不気味な表情をしている。

二体の猫神

ユニークなフンドシ猫

とぼけ顔

牛首まで戻って案内板をみると、大雲寺への通行止めの道のほか3本の下山ルートがある。尾根をそのまま進めば矢崎山という小ピークに至るようだ。大雲寺に一番近い元八幡へ下ることにする。あっという間に下り、屋代駅へのんびりと歩いて行く。秋空の下を歩くのはなかなか楽しく、1時間10分ほどで駅に着いた。

霊諍山
 霊諍山は明治の中ごろ、千曲市八幡、郡の北川原権兵衛が開山し、八幡中原の和田辰五郎(東筑摩郡北村安宮神社の修那羅峠の大天武の高弟)と共に近郷近在に布教し、信者を集めて「御座たて」という神事が行われ、吉凶を占っていたという。
 現在はそのようなことは行われていないが、春秋の社日・節分・八十八夜など、祭が暦にしたがって執り行われている。
 この社には天地地祇、八百万の神と大国主命が祀られ、「信者が各地の社寺へ参詣せずとも、ここで願いごとを祈れば願渡しをすることが出来る」と、いわれている。
 社殿の周囲に並ぶ石神・石仏は、諸国の著名な社寺から勧請したほか、信者の願果たしの御礼として奉納されたものである。厚い信仰は今も続き数年前に、寄特な方により本殿脇に如意輪観音が祀られた。百余体があり、土俗信仰を知る上で貴重な存在である。
 代表的な石像として、三途の川で亡者の衣をはぎとる奪衣婆像・ヤットコと持った鬼・マントにフンドシ姿の猫・魔利支天・大日如来・文殊菩薩があげられる。
 この一重山一帯は、霊諍山の石仏群、麓にはサクラに囲まれた禅宗寺院の大雲寺。夏にはハスの花が咲き、ナライシダに秋はヤマガキが実るという、歴史的自然環境に恵まれ、県の「大雲寺郷土環境保全地域」に指定されている。(頂上説明書きより)

2011年10月23日

宝光院の妙多羅天女像御開帳(新潟県弥彦村)

猫多羅天女と妙多羅天女
10月15日は猫鳴山(福島県いわき市)に行きたかったのだが、天気が今一つなので新潟方面に行き先を変更した。ちょうど、弥彦神社に近い宝光院(西蒲原郡弥彦村弥彦2860)で妙多羅天女像を御開帳する日だったので好都合。新潟県には弥三郎婆伝説が数多く残されていて、中でも妙多羅天女は伝説の核となっている。悪行を重ねたのち改心するまで「弥彦の鬼婆」として恐れられたという。一方、佐渡由来の伝説では猫多羅天女という化け猫にまつわるものがあるのだが、現在は伝説の表舞台から一歩退いた存在なのだ。

 一字違いの猫多羅天女を宝光院の妙多羅天女と結びつけたい--そんな思いが猫好きには強くあることだろう。かく言う自分も化け猫びいきからか復権を願ってきた。しかし、何とか細い糸を辿って光明の手がかりをつかめないものか。当日の御開帳に立ち会い、妙多羅天女像をこの目で確認してみなくては…。


妙多羅天像御開帳当日の宝光院阿弥陀堂

スケールの大きい婆々杉
弥彦駅から真言宗紫雲山龍池寺宝光院まで歩いて15分。御開帳の法要前に本堂裏手へ妙多羅天ゆかりの婆々杉を見に行く。予想したより遙かにスケールがある大杉だ。県指定の天然記念物で幹回り10m、樹高40m、樹齢約1000年だという。傍らの石碑は、同じ妙多羅天女伝説が伝わる山形県高畠町の有志が建立したものだった。

妙多羅天女ゆかりの婆々杉
 法要受付では勝手がわからず右往左往したが、とりあえず妙多羅天様にお参りしたい旨伝えて阿弥陀堂に入った。中央に阿弥陀如来像、左側に「妙多羅天」の額があり、立派な飾り厨子の扉が開いていた。


妙多羅天女像は、黒っぽく変色していて相当古そうだ。奪衣婆像によく見られる綿帽子をまとうように被り、何かにつかみかかるようなお姿だった。かつてこの真綿は、子どもの首に巻くと百日咳が治る「妙多羅天御衣」として参拝者の信仰を集めたという。


三体ある妙多羅天の残り二体は、阿弥陀如来像の左右に安置されている。このうち左側の像が写真でよく紹介されているものだった。片膝を立てた姿は奪衣婆像そのもの。

午前11時半、僧呂8人による読経で護摩焚きが始まった。堂内の気温が上がり、これから冬ごもりのカメムシが元気になって動き回っていた。真言宗の歌うような読経は、リズミカルな太鼓の響きとともに心地よく感じられる。ただ、隣の弥彦競輪場のアナウンスが少々気に障った。法要が終わってお斎の案内を受けたが今回は遠慮する。参列者は妙多羅天様に手を合わせて、ありがたい護摩の煙をかぶっていた。

御開帳法要でいただいた御供物
中身は紅白の落雁
 朝方の小雨もすっかり上がり、弥彦山が望める高台の弥彦総合文化会館に行って周辺の遊歩道を辿ってみる。山の上部のガスがなかなかとれないので、弥彦神社境内の散策に向かった。


 何よりも実際に伝説の地を歩いてみることが想像力をかきたてる。資料だけ見ていては気がつかなかったことも想起された。伝説の成り立ちの違いから、猫多羅天女=妙多羅天女と断定できるところまでいかないが、その源流は猫多羅天女にあるという念を今は強くしている。


弥彦山を望む(弥彦総合文化会館から)
弥彦神社拝殿(背景は弥彦山)
   猫多羅天女の事(佐渡由来の伝説)
 鳥翠台北茎の『北国奇談巡杖記』(文化4年〈1807〉刊)巻三「猫多羅天女の事」 
 弥彦神社末社に猫多羅天女の禿(毛髪)というのがある。その由来を尋ねるに、夏の夕方、佐渡国雑多(さわた)郡小沢の老婆がひとり山上で涼んでいた。すると一匹の老猫があらわれ砂の上でころがってたわむれはじめた。老婆もつられて猫と遊ぶこと数日、そのうちに体が軽くなり、やがて全身に毛が生えてついに飛行自在の妖術を得た。形相もすさまじく、見る人肝をつぶし驚くうち、猫となった老婆は雷鳴をとどろかせて対岸の越後国・弥彦山に飛び移り、霊威をふるって大雨を数日降らせた。里人は困り、これを鎮めて猫多羅天女とあがめた。年に一度、猫多羅天女が佐渡にわたる日には、ひどい雷鳴があるという。 

妙多羅天女と婆々杉(弥彦由来の伝説)
 承暦3年(1079)彌彦神社造営の際、上棟式奉仕の日取りの前後について鍛匠と工匠(大工棟梁家)との争いとなり、結局、工匠は第1日、鍛匠は第2日に奉仕と決定された。鍛匠・黒津弥三郎の祖母は無念やるかたなく、怨みの念が高じて悪鬼に化け、工匠らにたたり、方々を飛び歩いて悪行を重ねた。家から姿を消した祖母は、ものすごい鬼の姿となり、雲を呼び風を起こして天高く飛び去ってしまった。それより後は、佐渡の金北山・蒲原の古津・加賀の白山・越中の立山・信州の浅間山と諸国を自由に飛行して、悪行の限りを尽くし、長らく「弥彦の鬼婆」と恐れられた。保元元年(1156)、当時弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が、ある日、山のふもとの大杉の根方に横になっている一人の老婆を見つけ、その異様な形態にただならぬ怪しさを感じて話したところ、これぞ弥三郎の祖母であることがわかった。典海大僧正は、善心に立ち返らせるべく老婆に説教し、「妙多羅天女」の称号を与えた。高僧のありがたいお説教に目覚めた老婆は、「今からは神仏の道を護る天女となり、これより後は世の悪人を戒め、善人を守り、とりわけ幼い子らを守り育てることに力を尽くす」と大誓願を立て、神通力を発揮して誓願のために働きだした。その後は、この大杉の根元に居を定め、悪人と称された人が死ぬと、死体や衣類を奪って弥彦の大杉の枝にかけて世人のみせしめにしたといわれ、後にこの大杉を人々は「婆々杉」と呼ぶようになったという。(参考:弥彦村・弥彦観光協会ホームページ)