2011年2月20日

「猫山は未知の分野」と座右の語録が後押し

 師と仰ぐ永野忠一さん(故人)の本にたまたま書簡がはさんであった。著書を知人に寄贈したときの挨拶状である。そのなかに自分がこれから猫山について追究していくにあたって奮い立たせてくれる一文があった。

 「今は、こんな根気が出ないなァと思う点があり 我が老いたことを痛感します。
 然しなおやらねばならぬ旧稿があり、のんきにしてはおられませぬ
 だれも手をつけていない分野をわけ入る苦労は苦労ながら、たのしいものです。だからこそやれるんです

 1981年、永野さん81歳のときの心境である。この年、『日中を繋ぐ唐猫』と『猫と日本人(猫の文化史)』の2冊を上梓している。その4年後『猫の民俗誌(続、猫と日本人)』、5年後『猫と故郷の言葉』と精力的に課題を片づけた。最後の『猫と源氏物語』に至っては1997年、なんと96歳のときであった。

把握しきれぬ猫山の所在

 猫山(の思想)について、永野さんはフロイトや吉本隆明の『共同幻想論』によって解釈するほどの力の入れようで、また心残りでもあったに違いない。それは豊富な資料を以てしても猫山の分布・所在を把握しきれなかったことだ。

 また、『猫の歴史と奇話』(1985年、池田書店)の平岩米吉さんは、深山の猫又伝説に野生猫の存在を示唆した。しかし、永野さんも平岩さんも、著書にとりあげた山々には登られていない。資料から分析・推測しているにとどまっている。

 「今は伝承の地名のみで、所在が詳らかにし難いのが多い。古人の、想念の名残りは猫山、猫島、猫岳などの名目に集まる」
 「地方の伝承に、猫山が語られる時もあるが、所在が不明」
 「時代の推移は、地名を改め、昔の字名も今はわからなくした」
 「今日猫山の名だけあって、地図の上にもない処が多い。将来、猫山の語そのものも空しい死語と化するかもしれない」(以上『猫の幻想と俗信』より)

 ――このように永野さんは、地名が急速に失われていくことへの危機感を抱いていた。そして30年後、“地名破壊”ともいわれる平成の市町村大合併で、その危機は現実となってしまったのである。

山屋として猫山に向かう面白さ

 30数年前でさえ把握が困難だった猫山の所在を明らかにすることはできるのか。掘り起こすには資料漁りだけではもはや不可能で、伝承に基づいて現地(山)に向かうしかない。そこで生きるのが、長年の山登りで培ってきた藪山や雪山の経験。普通の人では辿り着けないような猫山(猫伝説のある山)も踏査して検証することができる。山屋であり、かつ猫山に興味を持つ自分に与えられた天職のようなものだ。これからの旅のすべてを注ぐ用意がある。

 ちょうど、これからの山登りをどうするか転換点に差しかかり、次に何をすべきかが明確に見えた。永野さんが猫民俗の研究を本格的に始めたのは57歳の頃。同じ年齢にある自分が、氏の一文に後押しされるというのも何かの因縁だと感じている。

(参考)

日本で一番「猫本」を書いた永野忠一さんはスゴイ

いつのまにか永野忠一著作コレクターになった

2011年2月3日

自性院の節分会で秘仏・猫地蔵を御開帳

 毎年2月3日は自性院(新宿区西落合)の節分会で、この日だけ秘仏の猫地蔵2体が開帳される。ただネット上には過去の開帳日に撮影された猫地蔵の画像がたくさん目につくようになった。寺からすれば秘仏の画像が多くのブログ等に出回るのは好ましいことではなくなったのだろう。秘仏が秘仏でなくなることへの危機感の表れか、2008年から撮影禁止となっている。

 これまで拝観しようと思えば行けたのに10年以上もそのうちそのうちと先延ばししてきた。「明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかわ」ということを実感。主題の猫山詣は藪漕ぎや積雪期もあるから体力のあるうちに行かないと…。

昼休み利用の速攻拝観

 今年こそ必ず猫地蔵尊を拝観するつもりで手帳に書き込んでいた。2月3日は木曜日だが、昼休みを利用すれば何とか観て来られそう。招き猫像に迎えられ北参道から境内へ向かう。午後2時からの豆まき(七福神練り歩きはそのあと)まで約1時間半。人出はまだ少なく、法被姿の氏子さん達も手持ちぶさたの様子だ。猫地蔵堂では若手の坊さんが猫地蔵の由来を拝観者に丁寧に説明中だった。ちょうど木像観音(明治時代の作)の光背に猫顔をあしらっていることを強調されていた。

 地蔵堂奥の正面右に「猫面地蔵」、「太田道灌奉納の猫地蔵」は左に開帳されていた。画像でおなじみのせいか、お初にお目にかかった気がしない。手前に護摩が炊けるようになっていて七福神パレード後に行う予定となっている。堂内には奉納された招き猫がずらり。なかなかの珍品もありそうだが、10年前に招き猫への執着を断ちきっており、それほど感慨はない。としつつも帰りがけに縁起物販売テントをのぞきこんで「左手上げ4号」をいただいてしまう(1000円)。ま、いいか。

昼時の拝観者はまだ少ない(猫地蔵堂)
堂内撮影禁止なので少し離れて
これがギリギリのアングルか
いやもう一押し

猫面地蔵の由来の謎

 猫地蔵の由来については、「江古田ヶ原の戦い(文明9年、1447年)で道に迷った太田道灌を導いて危機から救った猫を供養するため奉納した地蔵」が「道灌招ぎ猫」の猫地蔵、「明和3年(1746年)、江戸市中の評判となった貞女の誉れを後世につたえたいと牛込神楽辺で鮨屋を営む弥平が猫面の地蔵を納めた」のが猫面地蔵である。今日の御開帳で道灌の猫地蔵と猫面地を並べて見たわけだが、由来通りだと2体の制作年には約300年の時を隔てていることになる。

 道灌奉納の猫地蔵はともかく、猫面地蔵については一般に伝えられる由来を読んで疑問を抱く人も多いようだ。なぜ誉れ高い貞女を一介の鮨職人が猫面の地蔵にして奉納したのか。なぜ猫面でなくてはいけなかったのか。自性院でいただく略縁起にもその辺りには触れていない。

 この疑問を完全に解決する内容ではないが、補完する逸話が『旅と伝説』78号(1934年、三元社)の『途上所見(三)』(尾島滿)に載っている。要点は「牛込の人が、かわいがっていた猫に死なれて悲しんでいたところ、夢の中に地蔵尊が現れて、自性院という寺の鑑秀上人に頼んで法要を営んで地蔵尊を建立せよ、と告げた」というのである。牛込の人弥平は猫を飼っていたのだ。そして夢のお告げを実施するにあたり、当時評判だった貞女と死んだ愛猫とだぶらせて猫面の地蔵を刻んだとすると由来のつじつまが合うのである。

 参考に「ねこ地蔵尊の略縁起」を以下に掲載しておく(カッコ内はルビ)。

ねこ地蔵尊の略縁起(はなし)
 昔から私の寺を猫寺とか、猫地蔵と世間の皆さまが愛称して下さるのは、自性院の俗称であります。
 大昔は又別に辻観音とか、東寺(ひがしてら)と愛称されていた真言宗の寺であります。
 又この寺が弘法大師豊嶋廿四番の霊場と申しますことは本四国八十八ヶ所の大師霊場の中第廿四番土佐の高知の室戸崎にある最御崎寺(ほっみさきてら)に模したもので、彼の寺も同じ東寺と申しご利益ことのほか験かな寺でありますところから起ったと申します。
 この寺の御詠歌に
  明星の出でぬる方の 東寺
   暗き迷いの などかあらまじ
 と、私達に此身このまゝ仏さまになれると教えている歌であります。又この土地は何と有難い有難いところであります、ご参詣の方々の品のよさ、巡拝者の腰の鈴の清らかさ、まことに極楽浄土もかっくやあらんと思う程の美しい浄土であります。
 この寺の草創(はじめ)は真言宗の開祖弘法大師空海上人が下野国の日光山に参詣の道すがら観音さまをお供養あそばされたという故事に始り、先づこれが当院の辻観音の縁起であります。又早くより来迎阿彌陀如来をおまつりして当山の本尊さまとして篤く敬い信仰して参りました。その後数百年を経て、酉酉(だいご)の帝、延喜の御代八幡太郎源義家の軍師で大江匡房と並び称された葛大納言源経卿が或年太宰府長官に任命されたが任地に赴かず東下りして、武蔵野のこの地に来り叢(くさむら)深く身をかくし、仏の加護を願って、朝夕当院の観音・阿彌陀如来を熱心に信仰されて、おかげで一生安泰に過ごしたと伝えられて居ります。それより又数百年を経て、足利初期康暦年間に本尊仏の供養に、板碑が造られたがそれが今日尚現存しております。更に降って文明十年七月の記録は本尊修理の件であります、『自性院檀徒中によってこれを修理す』と記しているなど古い文献、金石が現存していることであります。
 そして、今から凡そ四百五十年前天文年間以降は歴代の住持が判然して居ります。徳川時代は細田地頭の皈依で寺は大いに栄えました。
 「道灌招ぎ猫」
 文明九年の頃、当所の豊嶋城主豊島左ヱ門尉と太田道灌とが合戦した有名な江古田ヶ原の戦いの折り、日暮れて、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れて、道灌を当院に案内した、そで道灌は一夜を明したゝめ危難を免れ大勝利を得た、これひとえにこの猫のおかげと感激して、この猫を大切に養い、死後丁重に葬った上一体の地蔵尊を造って盛大な供養して、この地蔵尊を当院に奉納した、これが当院の猫地蔵尊の最初の縁起であります。
 「猫面地蔵尊の由来」
 その後数百年を経て、徳川の中期、明和四年四月十九日江戸小石川御三間屋の豪商で加賀屋舗の真野正順の娘御で金坂八郎治の妻となり、貞女の誉一世に高く、後の覧操院孝室守心大姉の法号を謚られたがこの貞女のため牛込神楽坂辺にて鮨商売を渡世としていた彌平という人がこの貞女の誉を後世の亀鑑(かがみ)に伝えたい、又一つにはこの覧操院の冥福を祈るため、世にも珍しい一体の猫面地蔵尊を丈五十センチ程の石に刻んで造り、猫に因縁深い地蔵尊を祀っている当院を訪ね住持の鑑秀上人に開眼供養を依頼してねんごろに法要を営み御像を当院に納められたと伝えられています。この地蔵尊が当院秘仏の猫面地蔵尊で俗に猫地蔵と申しているものであります。この二体の地蔵尊は当時江戸市中に大そう評判となって一つには貞女にあやかりたい、又一つには地蔵尊のご利益にあずかりたいと願う人々が押な押なと参詣されたと伝えられたが何時しか星うつり余は変って、人々の信仰も次第に衰えしたびとなり、当院も幕末の頃より無住の寺となってさびれ果て昔日の観はなくなってしまったのでありましたが今日再び郊外の発展と共に漸く寺も復興して、昔日の観をとり戻しつゝあります。何卒皆さまと共に、この霊験あらたかな地蔵尊の信仰に浴して、家内安全、諸願成就と延いては世界平和をお祈りいたしましょう。
 猫地蔵尊の御詠歌に
  猫形(みょうぎょう)のほとけの誓い ありがたや
      葛(かつら)の里に かをりとゞめて
 と、これ地蔵尊が猫に形を代えて、この世に現れて、人々に善行をお示しになられたことでありましょう。
 以上が大体猫地蔵の略縁起でご座います。(苗堂山人記)

    付 記
 猫地蔵尊秘仏のお開帳は毎年二月の節分の日だけであります。