2010年11月20日

西方寺の招き猫像(豊島区西巣鴨)と自性院の猫地蔵尊(新宿区西落合)

西方寺の招き猫像

 浄土宗道哲西方寺(豊島区西巣鴨4の8の43)は浅草にあったころ遊女の投げ込み寺として知られたが、関東大震災で消失し現在地に移転した。「遊女薄雲伝説」にちなむ猫塚はなくなったが、名残の石の招き猫像がある。主人を救う忠義猫の有名な伝説なのでかいつまんで記す。

 吉原の遊郭・三浦屋の看板遊女であった薄雲が、ある時厠へ入ろうとすると、ついてきた愛猫の三毛猫が厠に入れようとしない。遊郭の主が魔性の猫かと脇差しで首を切り落としてしまう。猫の首は天井の大蛇に食らいついて薄雲を救った。忠義の猫を供養するため薄雲は西方寺に猫塚を建てた。贔屓の豪商は伽羅(きゃら)の木で造った猫を薄雲に贈った。これを真似たものを浅草で売りに出したのが招き猫の始まりだという。

 「(遊女、殿様の奥方など)厠についてくる猫→誤解され切られて首が飛ぶ→蛇にかみつき飼い主を救う→猫塚が建つ」というパターンの伝説は、このほか仙台市若林区の少林寺の猫塚、山形県置賜郡高畠町の猫の宮、埼玉県秩父郡長瀞町の猫地蔵尊などに伝わる。

無残に変わり果てた姿に

 西方寺に行くのには地下鉄西巣鴨駅を利用するのが一般的だが、久々に都電荒川線に乗ってみたくなり大塚駅から新庚申塚下車。白山通りから裏道に入ると西方寺はすぐだ。招き猫は入り口の門柱の上にあったが、5年以上も前に二代目高尾太夫である万治高尾の墓前に移された。本堂脇を抜けて左手に万治高尾の墓を見つける。招き猫像は高尾の墓入り口の塚の脇に座っていた。しかし、上げていた左手はなくなり頭部も欠けているではないか。修理した跡も痛々しい。写真でもきゃしゃな印象だったが、無残な姿に変わり果てていた。この招き猫は西方寺がまだ浅草にあった頃につくられたもので、関東大震災で焼け出されたとすれば、石ももろくなっていたのだろう。

 傷みが激しいから門柱から下ろしたのだろうが、高尾塚前に移動したことで、誰でも自由に触れることができるようになり、イタズラされた可能性もある。現に欠け落ちた左手はなくなってしまい修理のしようもない。両国回向院の猫塚のように史跡としてガラス張りケースで保護できればいいが、寺の財政事情もあるだろうから難しい。回向院の猫塚もかつては塚の上部に猫の寝姿が刻まれていたというが、鼠小僧墓前の「欠き石」と間違われてすっかり削られてしまったのである。

万治高尾の墓

高尾の墓の左脇に招き猫が

上げた左手はなくなり頭部分も欠損

頭部分の修理跡が痛々しい

自性院の猫地蔵尊は地域密着

 西光山真言宗豊山派自性院(新宿区西落合1の11の23)の猫地蔵尊は伝説を生かして、地域にもしっかりと根付いている。ご本尊の猫地蔵尊は毎年節分の日にしかご開帳しないので、猫マニアは全国から集まるほどだという。都営地下鉄大江戸線落合南長崎駅の広告には「道灌招ぎ猫供養地蔵尊、猫面地蔵尊 秘仏につき、お開帳は、節分会当日です。」としっかりPRしていた。そしてシンボルの招き猫石像は境内にではなく車道からよく見えるように配置している。しっかりと小判を抱いており御利益を期待したくなるというもの。節分の日には商店会も協力して猫パレードもある。とにかく来年の節分には秘仏を拝みにきてみたい。境内には猫も現れず、ついでに哲学堂公園をめぐったがここでもお姿なし。猫探しもこれでは意気上がらず、池袋行きのバスに乗った。

真言宗豊山派の寺院で西光山自性院無量寺といい、秘仏「猫地蔵」を安置し、ねこ寺として有名。 寺伝によると弘法大師空海が日光山に参詣の途中で観音を供養したのが自性院の草創といい、また葛大納言経信が東下りして当地に身をかくし、朝夕当院の観音・阿弥陀を信仰したとも伝えられている。 猫地蔵の縁起は、文明9年(1477)に豊島左衛門尉と太田道灌が江古田ヶ原で合戦した折に、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救ったため、猫の死後に地蔵像を造り奉納したのが起こりという話が伝えられている。また、江戸時代の明和4年(1767)に貞女として名高かった金坂八郎治の妻(覧操院孝室守心大姉)のために、牛込神楽坂の鮱屋弥平が猫面の地蔵像を石に刻んで奉納しており、猫面地蔵と呼ばれている。二体とも秘仏となっており、毎年二月の節分の日だけ開帳されている。 毎年二月三日の午後に行われる節分会は、七福神の扮装姿の信徒らの長い行列が町内を練り歩く珍しいもので、秘仏開帳とあわせ、参詣客で賑わう。                     (『ガイドブック新宿区の文化財』新宿区教育委員会)

地下鉄駅でもしっかり猫地蔵尊をPR

自性院・猫地蔵堂入り口の招き猫

正面左奥に猫地蔵堂がある

境内にある稲荷神社の不気味な石の顔

自性院山門

哲学堂公園の妖怪門