2010年11月6日

両国・回向院の猫塚

 土曜午前中はヤボ用で家を空けられず、午後からの徘徊。都内の気楽な猫史跡めぐりシリーズとして、両国・回向院(東京都墨田区両国2-8-10)の猫塚へと向かう。

 両国駅から南へ5分、回向院はすぐのところだ。山門も本堂も現代風である。古い石碑が目立つ。荘厳な犬猫供養堂が高く目立つ。鳥やウサギなどさまざまなペット供養で訪れる人が絶えないようだ。

 本堂左へ回っていくと何やら人だかりがあり、数人が墓石を囲んでしきりにガリガリと削っている。鼠小僧次郎吉の墓で、見れば墓石とは別の「欠き石」というものだそうだ。石粉を合格祈願の御守りとしたり、金運上昇のため財布に入れておく。石が削られ尽くすと新しい欠き石が奉納され続けてきたという。

 猫塚は、堂々たる鼠小僧の墓の向かって右隣にあったが、現在は左側にガラス張り小屋囲いの中へ移されている。欠き石と間違えられ「ネズミ」人間にかじられないようにということか。鼠の脇で小さくなっている猫が不憫に思えた。

右側は鼠小僧次郎吉の墓の一部

 猫塚の由来は、説明板によると文化13(1816)年建立とあり、その後文政期(1818〜1829年)に猫の恩返し(俗にいう猫に小判)の話に結びつけられて今に伝わるのだとされる。
猫の恩返し(猫塚)
 猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売できなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。
 ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両をくわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。
 江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。
                   ぶらり両国街かど展実行委員会
 各物語に共通しているのは、文化13年(猫塚建立年)のこと、命日が3月11日であること。飼い主は、時田半治郎や時田喜三郎、あるいは福島屋清右衛門だったりする。「猫定」という落語にも登場し、飼い主が定吉だから猫の名は「猫定」。住んでいるところは、日本橋、深川、両替町、神田川のほとり、八丁堀玉子屋新道などといろいろだ。物語中の主人とは違って、猫塚の台座には木下伊之助(あるいは由之助)と実際の建立者名が刻まれている。この人も魚屋だったのだろうか。

 鼠小僧次郎吉の墓は、群がる「石欠きネズミ」らがじゃまで撮影できず。なぜか薄幸な人々に見えた。石粉で財布をパンパンにしなさい!

 さて、両国界隈は見所が多いので巡り歩こう。かつての両国国技館は回向院の敷地内にあった(自分には日大講堂としての記憶が強い)。今は山門の左手に建つ複合ビル施設となっている。中庭スペースに土俵の位置を示す金属環が埋め込まれているが、その上にたくさんの自転車が無造作に止められていて興ざめ。

 吉良邸跡、勝海舟生誕の地、両国小学校の芥川龍之介文学碑及び芥川生誕地と回る。さらに総武線をくぐって、旧安田庭園へ。庭園の向こうにそびえる東京スカイツリーの眺めが新鮮。

 もうひとついでに東京都慰霊堂まで足を伸ばす。閉館まで残り10分だが、駆け込み拝観。暮れかかるなか、江戸東京博物館を抜けて両国駅に戻る。

2010年10月24日

磐梯山麓の猫石

 磐梯山麓に点在する三つの猫石を巡り歩いた。

 まずは猪苗代国際スキー場付近にある「渋谷の猫石」から。猪苗代駅から五色沼方面行きバスに乗り国際スキー場入口で下車。スキー場への道から観光ホテルの手前で右に入る。北へ向かう道はやがて、学校施設の跡地に至る。建物はすでになく、草の生い茂った広場となっている。車はここまで入れそう。

 その先さらに進みながら、右下斜面にあるはずの猫石を探す。十数分歩いて行くが、それらしき石は見当たらない。点在するいくつかの石はあるが、とても猫石と呼べるものではない。来た道を引き返し、杉林の斜面をヤブをかきわけながら目を凝らす。

 もう学校施設跡に戻り着くという手前左下に祠を見つける。これだ。猫の背にあたる部分で、その先が大きな岩となって切れ落ち、耳部分の石も二つ乗っかっている。右から回り込んで降りてみる。なるほど苦悶に口元をゆがませたカエルのような猫がいた。高さは3〜4m。

口をゆがめた苦悶の表情が見てとれる猫石


 祠の左側面に「石工 鈴木文三郎 明治24年」、右側面には渋谷村中の幾人かの奉納者名が刻まれていた。

 伝説によると、磐梯山噴火の時、夫婦猫が山から逃げてきたが、女猫は長瀬川を越せず渋谷あたりで力尽き、男猫は川を渡って白木城の近くまで辿り着いて果てた。渋谷の石を女猫石、白木城のを男猫石という。

 また、男猫は白木城まで逃げ生きながらえたともあり、養蚕の盛んな時代はネズミ除けの赤猫大明神としてお祭も賑わったという。(参考「猪苗代の字名の由来」「猪苗代町史 民俗編」)

 そこで、次は男猫の猫石である「赤猫大明神」へと向かう。これを探すのは少しやっかいだ。気を引き締める。交通量の多い県道459号線を沼の倉の手前まで戻り、沼の倉大橋で長瀬川を渡って、今度は国道115号を北上する。この道も磐梯吾妻スカイラインに向かうので、紅葉狩りの車がうるさい。

 猫石は、伯父ヶ倉の集落を過ぎた左手の杉林の中にあるとにらんでいた。閉鎖した電機会社の建物付近は猫塚というらしいので、このあたりを行ったり来たり。切り開きに大きな石が無造作に集められて積み上げられていた。もしや電機会社の建物を造る際に取り除かれたという不安も。しかし、信仰の対象となった猫石を壊すことはないはず。もう一度電機会社の左手から裏に回り込んで川沿いに暗い杉林を探す。

 キョロキョロしながら歩いていたら、ツルに足を取られて思いっきりころんだ。やれやれと顔を上げたら巨大な岩が・・。その下に赤い立派な祠が鎮座している。まさに赤猫大明神様である。中には「奉齋 猫石神社」と書かれた木札が見える。渋谷の猫石より一回り大きい。岩の高さは約6m。土を被った頂上まで登ってみると8mはありそう。大木が何本か絡みつくように生えていて迫力がある。

赤い祠が決め手の赤猫大明神
猫石は国道から横道に入り奥左。向こうは磐梯山

 石の右裏手から杉林を抜け出たところは、カンナ屑の捨て場となっている広場で、隣接する畑脇の道を国道に出ることができる。「渋谷の猫石」とは長瀬川をはさんで、直線距離でわずか1.2キロほど。石と化した無念の夫婦猫が、互いを見守るように対座している。

 残るは「土町(はにまち)の猫石」。こちらは、磐梯山災死者招魂碑が石上に建てられているという情報はつかんでいる。2万5千図にも記載されている碑がおそらくそれであろうと確信していた。

 猪苗代スキー場方面へぐるっと磐梯山麓の南東を回り込んでいく。磐梯山を眺めつつ、晩秋のほどよい冷気を感じて歩くのは楽しい。車なんぞでは味わえない郷愁である。途中、「見祢の大石」という噴火で押し出されてきた大石(国の天然記念物)も見たかったが次の機会に回そう。

土町の猫石に建つのは磐梯山災死者招魂碑

 土町では目当ての碑はあっさりと確認できた。確かに大きな平らな石の上に招魂碑が建っている。町中の四つ角なので風情というものはない。近くで草刈りをしていたおばさんに確認する。土津神社脇からスキー場に至るあたりを「猫石山」といい、その由来がこの猫石だろうと言っていた。薦められて立派な土津(はにつ)神社を見学後、猫石山あたりの道も歩いてみたが、両脇に別荘が建つのみ。

 土町の猫石は、昔多くの猫が群がって日向ぼっこをして岩の上で眠ったと伝えられる。(参考:「猪苗代町史 歴史編」)


 帰りは、猪苗代駅まで歩くついでにふるさと歴史館に立ち寄って資料を漁り、充実した一日を終えた。

2010年10月23日

立川の猫返し神社(阿豆佐味天神社)に行く

 土曜の昼前からでも行けるところを考えた。

 都内では、葛飾柴又の帝釈天なんかは行ったことがないな。でも猫関連のところがいいので、立川の「猫返し神社」こと阿豆佐味(あずさみ)天神社でもいくか。時間があれば一気に都心部を横断して帝釈天へ行こう。

 立川駅北口からバスで約20分、砂川4番で下車。進行方向右手に神社の杜が見えた。アプローチはたったの1分。大鳥居をくぐると雅楽がおごそかに流れ、手入れの行き届いた境内に気が引き締まる。安産祈願(水天宮)や七五三の祈祷に来る人が多いようだ。祈祷・祈願以外の立ち入りご遠慮ください、という趣旨の掲示を目にして構えてしまう。

阿豆佐味天神社本殿

 それではさっさと「猫はどこ?」。猫探しの術で鋭く周囲を見渡せば、本殿右手にたくさんの絵馬とともに猫の石像(ただいま猫というらしい!)があった。「ご遠慮下さい組」でない証明に祈祷受付で猫返しの絵馬を買う(800円)。その前に本殿でお賽銭と共に二礼二拍一礼もしておいたが。

「今、書いていきますか」
「(ギクッ)いやあとで・・」
 そしたら、袋に丁寧に入れて渡してくれた。何だそれだけのことか。てっきり、ここで書いていきなさい、ということかと思ったがにゃ。

「ただいま猫」の石像
奉納された猫返し祈願の絵馬

 1629(寛永6)年創建で、本殿は立川市最古の木造建築物であるという(市有形文化財指定)。本殿の隣りに境内社として蚕影(こかげ)神社があり、養蚕の盛んな時代に蚕の天敵ネズミを遠ざける猫の守り神だった。

 猫返し神社として有名になったきっかけは、ジャズピアニストの山下洋輔氏のエッセイだ。この神社に失踪した愛猫の祈願をして戻ってきた経緯が「芸術新潮」(1987年6月号)に掲載されて以来、全国に猫返し効能がとどろいた。それも二度あったというから、山下氏も本物と確信したようだ。境内に流れていたのは、氏が録音して奉納した越天楽だった。

 絵馬を買っても祈ってやるナマ猫はいないし、いろいろと考える。そうか、山をやってるのは猫みたいな連中ばかりだしな(←自由を愛するという意味で)。万一、仲間や知人が遭難して行方不明という場合、絵馬を神社に納めて祈るというのは、藁をもつかむ状況下ではありか。

 例の猫返し歌は、「いなばの山」を「越後の山」とか「会津の山」にアレンジすればいいのだ。

 立ち別れ越後の山の峰におふるまつとしきかば今帰りこむ
(元歌は百人一首 中納言行平 たちわかれいなばの山の峰におふるまつとしきかばいまかえりこむ)


 祈りが通じて無事生還したら、ネットで流す。すると、「遭難者返し神社」(←語呂がよくない)と評判になる。なかなか見つからなかった遺体がやっと出てきたら「オロク返し神社」か。これはシャレにならない。だんだんと不謹慎になってきたが、まあ、伝説・言い伝えなどというのはこうして形成されていくのであるな。

 
 「失せ猫は御嶽山へ修行に行くらしい」

 いろいろ手を尽くして調べても、いまだ猫と御嶽山の接点を見つけることはできない。しかし、有名作家のエッセイで単なる伝聞として書かれたことが、まことしやかに語られるようになった一例である。とくに猫の不思議話は共同幻想化しやすいのだと思う。

2010年10月16日

龍徳寺の猫塚伝説と猫塚山(福島県伊達市)

 徒登行山岳会創立40周年記念の集いが行われる10月16日、会場の那須・新甲子温泉には夕方まで入ればいいので、ついでに福島県内の猫山を探ることにした。

 標高200m程度、登れば15分もかからないだろうということで、福島市に隣接する伊達市の猫塚山(同市霊山町下小国)に向かう。このあたりはバス路線が複雑で本数も少ない。事前に調べておく必要がある。福島駅東口からバスで小国街道(国道115号)を山あいに入り、約40分で月館入口下車。付近に「みさとユースホステル」がある。

 猫塚山とは、頂上に猫塚神社(八雲神社)があることから地元で呼ばれてきた名称だ。その神社へは、バス停付近のレストラン愛華夢の脇から入る道がある。石碑がいくつかあるのですぐ分かる。猫塚神社へ登る途中に熊野神社があり、ちょうど24日に行われる例大祭の鳥居を建てる作業中のおじさん達に会う。道はこの先すぐ分岐し、左が熊野神社を経由する急坂の道、右が大きく回り込んで、直接猫塚神社に出る道だという。かつてはもっと左手から猫塚神社に登る道があったが、民家が建ったため使われなくなったらしい。

 せっかくだから、右の道から直接猫塚神社に至り、下りは熊野神社経由にすることにした。ところが、この迂回道はクモの巣だらけで両側から竹が倒れ込み、藪も刈っていないので後半はちょっとした藪漕ぎとなる。ズボンは汚れスネも枝に打ち付けて傷だらけとなったひどい道だった。猫塚神社の裏手から回り込むように尾根上に出た。途中、地形を確認したり時間を食い20分程度かかってしまう。

猫塚山八雲神社(背面は赤い岩に食い込んでいる)

 神社の前の土は猫の血で染まったという伝説のとおり赤い。神社の裏は大きな岩を削って建物と密着させている。猫塚の赤岩そのものに建物を合体させて建てた珍しい社である。中を覗くと岩の左右に猫の浮き彫りが確認できる。

社殿内部(岩の左右に猫の浮き彫りがある)

 猫塚神社右奥には一回り小さい社とその奥に岩コブがあり、石碑が置かれていたような台座が彫られていた。あとで聞くと金華山ということだった。

 社の左から下る踏み跡があり、熊野神社への道だろうと思い、急坂を強引に降りる。小さな神社に至り、右手から龍徳寺に出てしまう。登るには分かりづらいだろう。またレストラン愛華まで戻り、作業中のおじさん達に話すと、そんな道は知らないという。熊野神社へは左の道を登るとすぐだ。この先は登らなかったら、猫塚神社右手に出るのだという。

「赤岩の猫塚伝説」が伝わる龍徳寺(現在は無住)

 曹洞宗瑞雲山龍徳寺(伊達市霊山町下小国字力持71)は、神社登り口から小国街道を福島市方面へ50m戻ったところが入り口で、今は無住だが立派な構えの古刹である。赤岩の猫塚は400年前の「龍徳寺の猫」伝説にちなむ。この伝説では、前半と後半で猫の立場というか評価が正反対となる。まず龍徳寺で飼われていた猫のトラが大活躍するのだ。

 大旱魃で村人らがどうにも困り果て、龍徳寺の住職が雨乞いする傍らで、トラも一緒になって雨乞いに加わるようなしぐさをする。すると雨が降り出して村人らから大した猫だと感謝される。ただし後半では、墓を掘り出して死体が消えてしまう事件が発生。住職が見張っていると墓を掘り出すのは化け猫となったトラであった。住職はトラを寺の裏山の頂まで追い込み、槍で突き刺した。あたりはトラの血で赤く染まったという。村人は祟りを恐れて社を建てて猫塚を祀ったことから猫塚山という。猫が大病した際に参拝すると効能があるといわれた。大旱魃を裏付けるかのように西方に雨乞山(353m)がある。

小国川付近からみた猫塚山

 なお、レストラン愛華夢の主人にも話を聞くことができたが、猫塚神社(八雲神社)の大祭は4月に行われるという。その際は迂回経由の道も刈り払って整備するといっていた。神社は、地図上では山腹にあるように記されているが、実際は尾根上にあることが気になった。4月の大祭も見てみたいものだ。
 

2010年10月11日

湯島聖堂から谷中へ

 学生時代に通ったお茶の水だが、聖橋を渡った神田川北側はあまり歩いた記憶がない。それではと、湯島聖堂、神田明神、湯島天神と歩き、久しぶりに谷中にも行ってみた。

 聖橋から湯島聖堂にかけては、キャンバスに向かっている人が多い。聖橋からの神田川や聖堂周辺も恰好の画題材となるのだろう。聖堂の南側から仰高門をくぐり、杏壇門を入ると大成殿(孔子廟)。屋根の四隅に猫顔の獣が目につく。

湯島聖堂の鬼龍子。顔は猫科

 大成殿に入ると(土・日・祝日公開、有料)、ここにもいた。説明によると、「鬼龍子」という想像上の霊獣で顔はやはり猫科である。関東大震災で焼け落ちたものを展示している。
鬼龍子(きりゅうし) 
聖堂の大成殿屋根、流れ棟の四隅角に鎮座。寛政11年(1799)聖堂の規模が史上最大当時の鋳造である。大正12年(1923)の関東大震災の際、罹災し焼け落ちたもの。鋳銅製、重量93.5㎏
形態は、猫型蛇腹(豹型龍腹)で牙がある。様態は狛犬に似た姿で、顔は猫科の動物に似ており、牙を剥き、腹には鱗があり蛇腹・龍腹となっている。鬼龍子は、想像上の霊獣で、孔子のような聖人の徳に感じて現れるという。古代中国伝説の霊獣「虞(すうぐ)」によく似ている。 右脚に次のような銘がある。寛政十一年八月、御鋳棟梁 松井大和 紀 清政 (大成殿内の説明板より)
関東大震災で焼け落ちた鬼龍子(大成殿内)

 昌平坂から聖堂北側へ回ると、屋根猫発見。こんな都心の聖堂にも住みついているのか。神田明神や湯島天神はにぎやかすぎて、そそくさと退散。猫もいないし、面白くない。ここまできたら谷根千でしょう。地下鉄で湯島から根津へ移動する。
 

鬼龍子のつもり? 湯島聖堂の猫様

 久々の谷中界隈。年をとると古い街並みが心地よい。言問通りからふらふらと引き寄せられるように三浦坂のねんねこ家へ。看板猫にあいさつしてから二階に上がってコーヒータイム。座っているテーブルに猫がピョンと上がって、さらにその上の寝床に入って丸くなった。まだ注文したばかりでよかったが、コーヒーがあったらぶちまけられていたかも。

槍立て中失礼!ねんねこ家の看板猫

 谷中霊園に向かって三崎坂をボーっと歩いて、ついつい永久寺を通り過ぎてしまう。この寺は仮名垣魯文の菩提寺で、榎本武揚が魯文に贈った猫の供養塔「山猫めをと塚」があるのだ。近いうちにまた来よう。霊園手前にさしかかると古い家の屋根に猫発見。猫町・谷中らしいなごみの景色である。

屋根猫
 谷中霊園に入ると東京スカイツリーが遠望される。墓猫の名所といえども、探さなければ猫はなかなか見つからない。徳川慶喜の墓の案内板に導かれて奥に向かうと、なにやら夫婦が猫に話しかけている様子。なかなかおっとりした毛並みのいい墓猫だが、近くにいたもう一匹は撮影するのもはばかれるようなボロ猫だった。

谷中霊園から東京スカイツリー遠望

谷中霊園の墓猫

 もみじ坂からいったん日暮里駅脇に出て、谷中銀座商店街へ。ちょうど、夕やけだんだんの階段にさしかかると、正面の夕陽がまぶしい。みんな右側のマンションを見上げて携帯やカメラをかざしている。3階のベランダから茶トラ君が夕陽をじっと見つめているのだ。夕やけだんだんの名物猫になるだろう(すでにそうなのかも?)。商店街をぶらついて千駄木駅に着く頃には薄暗くなっていた。

夕焼けを見つめる猫(谷中銀座の夕焼けだんだん)

2010年9月21日

北上山地・笠通山の猫石発見

 18日は群馬県前橋市の飯土井の猫山、19日は千葉県市原市の大桶の猫山と探索した。三連休最終日は疲れも残るが、三たび遠野に向かうことにした。7月に笠通山の山麓で猫石の発見に失敗して3カ月近くになる。10月になると東北は冬に向かってまっしぐらだ。その前にどうしても猫石のある場所を見つけ出したかった。その場所は、7月に探した斜面のもう少し奥だと確信していた。

ついに猫石を自力発見

9月20日 いつものように新花巻を経て遠野にやってきた。観光協会でレンタサイクルを借りて10時20分出発。もう綾織方面へは地図なしでも行ける。雲行きは怪しいが何とか午前中くらいはもってくれそうだ。進行方向から笠通山の根張りは大きく、見た目はあんな山懐まで行くのかよ!と遠く感じる。実際は約40分程度である。11時、綾織町の猫石さん(多田氏)宅に立ち寄る。猫石さんは留守らしく、おばあちゃんと話すが猫石には行ったことはなく、よくわからないという。

笠通山遠望。標高のわりに根張りの大きい山だ


 7月と同じく笠通林道入り口に自転車を置いて林道へ入る。前回調査した地点からさらに奥へ、約10分で二つ目の駐車スペースがある。右斜面に踏み跡があり、刈り払いもされている。猫石さんが刈ってくれたのだろうか。猫石への入り口はここだろうと分かった。我ながらこのような時の猫感は鋭い。長年山登りを続けてきたおかげだ。杉林に入っていくとすぐ上部に大岩が見え、それが猫石だと直感。入り口から50〜60mを急登だが2分ほどでたどりつく。15分くらいは登るとの情報もあったので拍子抜けする。登山をしている者とそうでない人との感じ方の違いか。

 猫石周辺の下草はまだ刈られておらず少々うるさい。岩にはシダ類が生え、苔むしている部分もあって掃除してあげたくなる。高さは5mに少し足りないか。側面はきれいに縦に割れて幅10センチくらいの裂け目になっていた。裏側(斜面上部)から簡単に岩に上がれる。林道まで戻ると、入り口左にフーフーと音を立てて岩の重なった下を小沢が流れている。風穴となっているようだ。ここでまた猫感が働く。猫石さんによると、猫石の由来は「風の強い日には猫石の方角から、猫の鳴き声のように聞こえる」というものだ。岩と岩のすき間に風が通り抜ける音が猫の鳴き声のように聞こえるのではないか。あるいは猫石そのものにある裂け目が笛のような役割を果たしているのかもしれない。……こんな仮説が頭に浮かんできた。

猫石発見!
大きな亀裂が走っている(左側面)
亀裂を上から見下ろす
猫の頭部分

 満足して再び猫石さん宅に寄り、猫石発見を報告する。奥さんが出てきたので、おばあちゃんに豪徳寺の招き猫をプレゼントする。先日も市会議員が探しにきたが見つけられずに帰っていったという。

 続いて続石に向かう。ここにも猫石があるという情報があったからだ。弁慶の枕岩の近くだということだったが、結局わからなかった。7月に引き続き失意のうちに続石を去ることになった。でも帰りのペダルは軽くルンルン気分で遠野に戻る。雨が降ってきたが何とかセーフ。自転車を戻し、駅前の御伽屋でそばを食べる。黒い洋猫がすり寄ってきた。


御伽屋のミステリアスな洋猫(遠野駅前)




猫石と猫岩は別

 猫石は見つかったものの、どうしても解せないことがある。発見した猫石は遠野物語拾遺113に出てくる笠通山のキャシャの成り果てなのか。たしかにキャシャは猫石にほど近い小峠あたりに出没するのだが、姿は猫の化け物ではないし、石に変えられたという話も聞いたことがない。猫石さんも猫石がキャシャと関係があるとは言っていないようだ。それともう一つ、源義家軍に追われる安倍貞任に味方し、源義家によって矢で射抜かれたという伝説の怪猫が打ちつけられた岩は猫岩と呼ばれる。笠通山西麓〜北麓にあると推測しているのだが、この猫岩と猫石を同じものとして扱うWebサイトが散見されることだ。以下に引用する『広報みやもり』に掲載された「宮守村風土記」によると、猫岩の位置は笠通山の西麓であり、写真の岩は猫石とは明らかに別の岩である。


宮守村風土記67 砥嶺神霊翁之夜話(四) 怪獣の跡「猫岩」  
 さて、南の間道に向かった義家の軍は、乙茂の坂や鶴ケ谷地(東和町晴山)を打ち過ぎ、谷内峠を越えて田瀬の里に向かいました。それから猿ヶ石川の急流を越え、北に聳える砥森山によじ登りました。(※村名由来参照)そして嶺を下り、艱難苦労をして(大平〜乗越〜迷岡を通り)、笠岡山(笠通山)の麓にたどり着いたのです。そこで一同は小休憩を取って、瓢箪の酒や水などを飲んで喉を潤し、疲れを休めて軍勢は山に登り始めたのです。ところが大変なことが起こりました。途中の岩窟(岩穴)の中から大山猫が現れたのです。針金のような斑の毛で覆われ、その姿はまるで虎のようです。両眼は稲妻のように光り、しっぽは蛇のように揺れ、大きさは小山のようです。しかもその鳴き声は鉢を合わすように響き渡り、身体を揺るがせて飛び出しました。士卒たちは刀や槍で立ち向かいましたが、その猫は飛び交いながら先頭の兵を食い倒しました。義家はこの様子を見て「憎き獣の振るまいかな、射止めてくれん」と弓に矢をつがえるが速いかヒョーと射ると、かの猫の腹を射貫いて後ろの岩にバシッと立ちました。大猫はギャーッと声を上げて死んだのです。そばに寄ってみると身の丈が五尺(1.5メートル)ばかり、恐ろしいほどの怪猫でした。これからこの岩は「猫岩」と呼ばれ、今も残っています。義家の軍勢は笠岡山に登って向こうの山々を眺め渡しましたが、まだ北の頼義の軍は見えません。合図もないのでそこで暫く休んでいました。  
             『広報みやもり(平成10年8月号)水原義人 宮守村風土記

 写真も載っていて説明には「高さ5メートル、幅四メートルほどの大きさの猫岩。全体がコケで覆われ、山の緑にとけ込んでいる」とあり、杉林にある猫石とは違い、周囲の樹木はブナのような広葉樹であった。ということは、猫岩の場所は山麓ではなさそうで、かなり山に分け入る必要があるということか。 猫岩を見つけるまでは、もうしばらく遠野通いをしなければならないようだ。

2010年9月19日

大桶の猫山(千葉県市原市大桶)と横浜市の中田の踊場

大桶の猫山伝説
 大桶区にあり之を古老に問ふに今より凡そ二百年の前頃、東は長南伊勢屋の猫、西は相川村新三左衛門の猫を始めとして、数百の猫集まりて盛宴を張ることあり、秋夜月清く虫喞く頃、其の歌舞の状を目撃することありしと、今は此の山周囲を青年団の為めに伐採されて開墾する所となり、山頂の平地に四・五の老椎を存するに過ぎず。                                    『市原郡誌』(千葉県市原郡教育会編、千葉県市原郡発行、1916)
 典型的な猫の踊り伝説だが、集まってくる猫のうち二匹の飼い主が明らかにされているのが特徴だ。東の長南伊勢屋は現長生郡長南町のいせや星野薬局のこと、西の相川村は現市原市相川である。猫山からそれぞれ直線距離で8キロ、6キロ程離れている。この距離を猫どもが踊りに興じるため集まってくるのかと思うと頭が下がる。ちなみにいせや星野薬局は300年も続く老舗で切妻妻入の土蔵造りの店舗は文化2(1805)年に建てられたもので、国登録文化財に指定されている。

大桶の猫山へ

9月19日 昨日は群馬県前橋市の飯土井の猫山を探査したが、きょうは房総の猫山である。内房線五井から小湊鉄道に乗り換えて上総山田駅下車。房総方面に出かけることはあまりなく、なじみのないところ。

 市原市大桶(おうけ)の甘露寺まで約5キロ。八幡神社、市原交通刑務所、磯谷病院を過ぎると、両側が丘陵に囲まれたのどかな田園風景が広がってくる。前方に小山が二つ見える。左が軍茶利四天堂が建つ城跡山で目指す猫山。高さがほぼ同じの右の山は城廻山で大桶城があったとされる。どちらも標高100mほどだ。

左が伝説の猫山(城跡山)、右は城廻山



正面に高橋商店、裏山が城跡山

 田んぼの真ん中を一直線に突き進む農道を猫山を正面に見ながら歩いていくのは気持ちがいい。うぐいすラインに合流したところは食料品雑貨「高橋商店」前で、右の大桶集荷所から商店の裏手に回り込んでいくように住宅の間を坂道が続いている。さらに右に上がっていく道に導かれていくと左が広場で、奥に天台宗軍茶利山甘露寺が建っていた。道はそのまま石碑の建つところから細道となって竹林の中へ向かっている。竹林に入ると見上げるほどの急傾斜を一直線の石段と続いていた。両側から竹林が覆い被さって日光を遮り陰気な感じ。石段は82段でいったん途切れ、さらに86段続く。

奥の院への参道からの甘露寺
竹林の中の急な石段

 参道入り口から標高差約50mを登りきると奥の院である軍茶利四天堂に到着。社殿前の広場は手入れされないまま夏草が生い茂っていた。2月上旬に「篝焚き」(かがりだき)という新年神事が行われ、地区民らが広場の草を刈って積み上げて燃やすので、訪れるには春先から初夏の方がいいようだ。伝説の通り老椎の木も何本かあった。そのうち一番大きなものは二股の一方が折れてしまっていた。汗ばんだ体には草いきれの中で休んでも落ち着かず、一通り撮影後下ることにする。社殿裏の城累跡を見にいこうとも思ったが、調査テーマが違うのでやめた。

頂上の軍茶利四天堂。伝説のとおり老椎の木も

猫どもが踊った中田の踊場

 まだ日も高いのでもう一稼ぎすべく駅に戻ることにする。帰途、磯ヶ谷の集落でみかけた大黒猫は一瞬、小熊かと見まごうほどだった。鈴をつけていたので飼い猫とわかる。五井駅からは一気に横須賀線直通の久里浜行きを利用して横浜の戸塚へ(便利になったものだ)。横浜で猫の踊り伝説といえば泉区中田の「踊場」である。踊場というバス停が伝説の名残を伝えていたが、市営地下鉄ブルーラインが1999年に開通し、「踊場駅」ができたことでその存在を広く知らしめた。駅舎には随所にその伝説イメージを採り入れて猫のデザインが施され、粋な計らいをしてくれている。2000年には個性的な駅として関東の駅100選にも選ばれている。


一瞬、小熊かと見まごう大黒猫。足が太い!
踊場駅で最も印象的な踊る猫の照明(出口4)

 戸塚駅からブルーラインに乗り換え一駅目が踊場駅。まずは、踊場の供養塔がある2番出口へ向かう。供養塔は屋根付きで、傍らに碑の由来板も立てられている。碑には「南無阿彌陀佛」と刻まれている。賽銭入れも備わり、碑の後ろには卒塔婆もたてかけられていた。出口1にある踊場交番付近は長後街道の最高標高地点(58.5m)で、「中田の坂」の頂上となっている。供養塔はもともと、旧岡津道と長後街道が交差するこの角にあったが、市営地下鉄建設に伴う長後街道の道路拡幅で現在地に移された。長後街道は庶民信仰の山である大山へ至る旧大山道で、近世は登拝客の往来は多かっただろう。明治・大正期には、この一帯も養蚕が盛んになり製紙工場もあったが、踊場伝説はそれよりずっと前に成立しており、養蚕に関係する言い伝えはない。

長後街道から戸塚方面。右上が踊場交番と出口1

踊場の碑の由来
踊場の地名は伝説として古猫が集り毎夜踊ったので生じたと言はる。この碑は猫の霊をなぐさめ住民の安泰を祈念して近郷住民の総意にて元文二年(西暦一七三七年)造立し中田寺住職尊帰として開眼供養せられしものなり。最近交通いよいよ激しく長後街道と鎌倉道のこの交差路改修にて碑の移動に伴ひ本願の地区安泰と交通安全を祈願のため町内有志相計り住民各位の助成を得て慰霊塔を護持祖先の意志を継承奉らんとするものである。  昭和六十一年十一月三日に戸塚区から当区は泉区に変行になった。   中田踊場慰霊塔管理委員会

踊場供養塔(出口2)
踊場の碑の由来
 踊場伝説のパターンはいくつか在るのだが、不思議なのは猫が踊ったところだから踊場と名付けられたのではなく、「おどり場という所を通ったら猫がたくさん踊っていた」というものが多いことだ。すでに踊場という場所(地名)だったのである。「オドリバノダイ」としている伝説もある。また、なぜ踊る猫どものために供養塔が建てられたのだろうか。由来碑には書かれていないが、一番説明がつく伝説は、「踊場でたくさんの猫とともに踊っていた又兵衛さんの猫が、火傷である日死んでしまう。その後又兵衛さんが踊場にさしかかったところ死んだはずの猫が踊っていた。その猫の怨霊を供養するため供養塔を建てた」というもの。猫どもただ踊っていただけでなく、通りかかる旅人に披露していたというから、そのけなげさが供養塔(慰霊塔)を建ててもらう理由になったのだろう。毎夜踊っている猫どものためにわざわざ供養塔を建てるはずはないからだ。 参考:高塚さより「横浜市泉区踊場の『猫の踊』譚」(『昔話伝説研究』21号 昔話伝説研究会 2000)

 供養塔建立には中田寺の住職が関わっているが、碑の正式名称は「寒念仏供養塔(かんねんぶつくようとう)」という。供養塔右側面に刻まれているようだ。泉区のWebサイトによると、「寒念仏と刻まれているように、寒い中を中田寺の住職等5人の僧侶が、戸塚周辺の広い地域を念仏修行して回った総仕上げに、踊場の坂の頂上に、この供養塔を祀ったものといわれている」。ちなみに中田寺(ちゅうでんじ)は、江戸初期の慶長17年(1612)に中田村の領主石巻康敬が開基となって創建された浄土宗の古刹である。中田の坂の頂上に設置場所を選んだのは猫の踊伝説があったからなのか、碑の由来文にあるように地元住民が猫どもを慰霊するため造立するのにあたり、その開眼のため中田寺住職らが念仏修行したものかはよくわからない。 参考:『いずみ いまむかし − 泉区小史』(1996年、泉区小史編集委員会編、同発行委員会発行)

 猫山のジャンルに入れるつもりはなかったが、昔は「中田の山」「踊場の坂」と呼ばれた寂しい村境の林であった。供養塔の由来についてはなお不明点が多く、再調査することになるだろう。