1999年6月20日

久慈平岳山麓の猫屋敷に行って来た(岩手県九戸郡軽米町)

「猫屋敷」という集落がある。岩手県九戸郡軽米町のほか胆沢郡金ヶ崎町などにも地名として残っている。

 猫屋敷の由来は、山城の麓の集落という意味を表す根子に猫をあてたもので、一般的に動物の猫とは関係ないようである。昔話の「猫屋敷」では、山中深く迷い入った旅人が明かりの灯る家にホッとしたのもつかの間、かつて飼っていた猫が出てきて、ここは猫屋敷だから早く逃げないと猫にされてしまいますよと言われて、ほうほうのていで逃げ出す。こんな言い伝えが由来なら愉快な地名なのだが。

 むしろ都会のほうに今は猫屋敷と呼ばれる家がある。一人住まいのお婆さんが住んでいる家で、庭先や道路端にまでうずたかくゴミが積まれ、何匹もの猫と暮らしているという例だ。猫がいなければただのゴミ屋敷だが、ゴミ屋敷でなくてもたくさんの猫と暮らす家を指して猫屋敷と言ったりするようだ。

 それはともかく、気になっていたのは軽米町猫屋敷の東方5キロに位置する久慈平岳(706m)であった。久慈平岳は岩手県九戸郡種市町と大野村(※2006年から合併して洋野町)と軽米町の境界にある。そして、手拭いをかぶって踊るようになった猫が引導を渡され、この山に登って山の主になったという言い伝えがある山なのだ(「『村の話』奥南新報」1929年12月)。人語を話し、お宮で幾千の猫とともに踊っていたというので、そんな猫になったらかわいそうだが山に捨てるしかないということになった。送り出すときは「つなぎ銭二つに大きな握り飯とさかななども背負わせた」から、猫もこんな豪勢な餞別を背負ったまま久慈平岳に登るのは大変だったろう。

 四国・香川県にはこれと似たような話があって、ある寺の猫が衣を来て猫またの集まりで踊っているのを見られて暇を出される。その際、小豆飯を炊いてもらって行った先の山を猫山とよんだというもの。

 猫屋敷という集落と猫山たる久慈平岳とが5キロしか離れていないということに興味が湧く。そうなると矢も楯もたまらず猫屋敷という集落をぜひとも見たくなった。ただそれだけのことなのに日帰りでよくもまあ出かけたものだ。あわよくば久慈平岳も登ろうかという気にもあったが、八戸までの距離と時間を考えれば無理。せいぜい八戸からタクシーを使って往復するしかなかった。(これができたのは、たまたま期限切れ間近のJR株主優待乗車券をもらったからである。つまり八戸往復はただだったというわけ)


今にも古猫が出てきそうな猫屋敷

 いずれ久慈平岳に登るときは、確認しなければならないことがある。言い伝えの舞台となった集落は久慈平岳から東方約10キロの種市町岡谷だが、猫が集まったお宮とは岡谷稲荷神社のことか、など。この岡谷稲荷神社は歴史のある三陸有数の神社というから楽しみだ。










1999年4月25日

猫の雪形はなぜないのであろうか

 春山の季節だ。残雪に映えるブナの新緑にはまばゆいばかりの躍動感を感じる。この時期の山が一番好きだという人は多いだろう。かくいう私もそうだ。

 しかし、ここ10年ばかりは2月下旬から4月にかけて花粉症に悩まされてかなりの体力を消耗し、さらに追い打ちをかけるように年間で一番多忙な時期を迎える。先日は連続26時間勤務のあげく、さすがに数日間は変調をきたしてしまった。そんなこんなで今年初の山行きはG.Wなのであります。

 今回のテーマは春にふさわしく、以前から気になっていた雪形ついて取り上げたい。猫の雪形がないことにずっと不満を抱いていたからである。猫の形に見える残雪模様はその気になれば見つけることは可能だろう。

ただし雪形というのは、単にある形を表すだけでなく山麓の人々の農事暦となっていたことがポイントで、北アルプス・白馬岳の代かき馬や爺ケ岳の種捲き爺さんが有名だ。

 雪形伝承の本場ともいえる新潟県内の山の雪形を詳しく調べ上げた『図説 雪形』(斎藤義信著、高志書院)によると、生き物の雪形として確認されたのは、ウサギ、サギ、コイ、タイ、カニ、ウシ、ウマ、ツル、カリ、カタツムリ、キツネ、ネズミ、ゾウ、ヤモリ、ハト、シカ、カモシカ、サル、カラス、竜、カメ、イヌ、コウモリだそうで、このうち十二支の動物はウサギ、ウシ、ウマ、ネズミ、サル、竜、イヌと5割以上入っている。で、イヌやウマとともに身近な生き物の猫はなぜ入っていないのか、のけ者にされなければならない理由があるのだろうか。

 一つの仮説としては、山と猫との忌むべき関係を挙げることができるだろう。東北から北陸にかけては化け猫伝説が多い。新潟県には化け猫伝説の存在とともに後世にそれを触れたがらない例がある。弥彦山では佐渡から飛んできた化け猫を猫多羅天女と崇めたと伝えられるが、現在の弥彦神社では妙多羅天女と名を変えて祀られており縁起も大分違っているという。

 また栃尾市の猫股神社(正称・南部神社)は養蚕の神=猫を祀っているとされるものの、神職に聞くと何か不名誉なこととでも勘違いしたのか猫股神社という俗称の由来については語ってくれなかった、と平岩米吉氏は書いている(『猫の歴史と奇話』)。

 猫の雪形が現れる山とあらば、山猫か化け猫の棲む山と混同される恐れがあり、狩猟の世界でも山では猫のことを口に出すのをはばかり隠語を使ったくらいだから、雪形といえども猫を山と結びつけることは意識的に避けたのかもしれない。

 全国に数多い猫山の由来に「猫の姿に似ているため」とされた山もあるが、猫の雪形が現れる山、すなわち猫形山という名の山が存在しないのは寂しいものだ。

1999年3月28日

見つかる、広がる猫の山

 待ち望んでいた本が出た。白山書房創立20周年記念出版の『日本山名総覧 1万8000山の住所録』(武内正編著)である。

 猫山探しが手元の資料だけではもはや頭打ちになっていただけに、この本で少なくとも「猫」のつく山は総ナメにできると心待ちにしていた。期待に違わず、新たに5山の猫山を発見することができた。特にうれしかったのは、北海道にも「猫山」という名称の山が存在したことだ。

 その一方で、すでにぼくが調査していた猫山のいくつかが漏れていることも判明した。例を挙げれば北アルプスの「大猫山」、奥美濃の「猫洞山」などである。山名総覧は2万5千分の1の地形図記載の山名を基本に、自治体への照会で同定したのだそうだが、登山者や地元が通称で用いていても地図に未記載の山名については漏れているとのことだ。

 すでに一部のガイド本には記載されている山名であるだけに、未収録となったのは残念に思う。地図未記載の山名については、改訂版発行の際にぜひとも載せてほしいものだ。

 また、民間伝承や昔話中の猫にまつわる山のいくつかが同定できずに困っていたが、実在する山かどうかの確認は山名総覧でもできなかった。

 もうひとつ細かいところを指摘しておけば、根子岳には信州・菅平と九州・阿蘇に2山あるが、(猫岳)と別名を添えているのは阿蘇の方だけなのはなぜだろうか。

 「コンサイス日本山名辞典」(三省堂)では両方の山に猫岳と別名を入れている。山名総覧「生き物山名」の項で、猫の字がつく山20山として阿蘇・根子岳(猫岳)も含めるのなら、菅平・根子岳も加えてもいいはずだが、はずれたのは地元の呼称に従ったから(別名なしと?)ということだろう。猫岳参り伝説のない信州・根子岳にとっては、わざわざ「猫岳」の別名をもたなければならない裏付けに乏しい。

 それにしても膨大な山名データをまとめ上げた労作に拍手を贈りたい。著者は生涯をかけて山名総覧を改訂・充実していくとのことで、今後の調査を期待しつつ見守りたい。

1999年2月28日

失せ猫どもはどこで修行するのか

 猫の随筆本をめくると、たまに家出猫についての話がでてくる。どこかへ修行に行ったのではないかと書いてあったりすると、自分はランランと輝く猫目になってしまう。その修行先とはどこだ? どこだと思ってるんだ!

 だが、「中部山岳地帯の荒寺」や「木曽の山中」「何年か修行すると化けられる寺」「遠州森の秋葉神社」などと書かれている程度で、本で読んだとか、ある人から聞いたとか、出所がどうもはっきりしないのだ。これじゃ猫どもはほくそ笑み、自分のイライラはつのるばかりである。

 その昔、年老いた猫は山中に入るとされ、地域によっては狐に誘われて山に行くとも考えられた。飼う場合にはあらかじめ年期を猫に言い聞かせ、年期が来ると追い出したり、あるいは自ら言いつけどおりに失踪したのもいるという。

 “冥界”である山に入った猫が戻ったとあらば、妖力をつけてきたと考えるのは自然のことであっただろう。飼い主からすれば「たくましい顔つきになって帰ってきた」と、戻り猫に感心するくだりをある本で最近読んだが、現代でさえ家出猫の振る舞いには不可思議さを残している面がある。

 失せ猫を戻すおまじないで有名な百人一首「立ちわかれいなばの山の峰におふる まつとしきかば今帰りこむ」の「いなばの山」にひっかけて、失せ猫は「九州のいなばの山の猫山」に居るからと説いたとする伝承もあった。

 「九州のいなばの山」が阿蘇の根子岳(猫岳)であるのは明白で、この山こそ猫の王となるべき猫どもをいかに多く集めたのかは、「猫岳参り」の伝承がこの地方にかなり多いことからもわかる。九州での修行先はこれでいいとしても、本州の中部山岳にある猫岳という山は乗鞍のそれをおいてないが、そこでは猫岳参りの伝説は聞かない。

 北アルプス山麓にある通称・猫寺にも、猫どもが修行のため集まって来たという昔話もない。とすると、家出〜戻るとたくましくなっている〜修行したから〜修行先は深山か山寺のはずだ〜日本の真ん中である中部山岳には猫岳という山と通称・猫寺があるという(ここで九州の「猫岳参り」の民話をあてはめる)……中部山岳説は、ざっとこんな流れなのではなかろうか?

 最近、これらの問題を解明すべくタイムリーな刊行となった『猫の王〜猫はなぜ突然姿を消すのか』は、本格的に猫山を取り上げた初めての本で、昨年末に一気に読了した。しかし、その重厚な論考にもかかわらずなお物足りなさが残ってしまうのはなぜか。

 登山する側の立場から全国各地の猫山を想起するとき、その山々が辿ってきた人と猫と山との深淵なつながりと戦(おのの)きをもっと蘇らせなければと高ぶってしまい、ヤマネコのひげは遠い昔をしのんでピクついてしまうのであった。

 とはいうものの、家出猫がご近所の家でのうのうと幾日か過ごし、その後また別の家に上がり込んではカジケ猫を決め込んでいるなどというのが、案外、修行の真実だったりする。

 自分の郷里で昔飼っていた猫が、何日かの家出の果てに「肥溜め」(昔はよく畑の脇などにあったのだよ)にはまり、化け猫どころかクサ猫になってプーンと戻ってきたときには、家族一同ぶっとんでしまったものだ。こういう修行はしてほしくないものである、猫どもよ!

1999年1月31日

猫とハーケン

 いっときの寒波が緩み、柔らかな陽射しが注ぐ土曜午後の猫日和、思い立って地下鉄に乗って都心へと向かった。降りたのは九段下駅。ここから千鳥ガ淵に沿って竹橋まで歩いていくのだ。

 千鳥が淵沿いの散歩道は都内でも有数の猫スポットだという。猫おばさんでも来ない限り、猫どもが集まっているわけではない。植え込みにポッカリあいた空間をのぞいて見ると、じっとしていたり昼寝している。猫おばさんに作ってもらった手製のつぐらなどあって、その上に座っている場合もある。

 カメラを向けるとエサでもくれるかとすり寄ってくるのもいるが、たいていは無視するか、昼寝のじゃまをするなとでも言いたげにカッと目を見開いて警戒した。

 猫ゾーンを過ぎると、学生時代に遊んだ石垣は間近い。通っていた大学は神田駿河台にあったので、いつも皇居のお濠周辺をランニングしていた。そのころは常盤橋公園の石垣など知らなかったから、千鳥ガ淵のとある秘密の石垣で岩登りまがいの練習をしたことがあるのだ。

 半蔵濠手前で左折して尾根状の散歩道に上がると、すぐその場所がわかった。丸いコンクリート台がいくつかあるところだ。台の上でよく腹筋を鍛えたものだが、それがかつてB29を迎え撃つ高射砲の台座だったとは知らなかった。

 石垣基部に降りるため、懸垂下降の支点に使った木は20数年の時を経てかなり太くなっていた。しかし、その脇に立つ「柵内に入らぬこと 環境庁皇居外苑管理事務所」という、当時はなかった立て看にとまどい、直接石垣をのぞき込むことは遠慮してしまった。のぞいたところでザイルがなければ、下におりられるわけではない。

 当時、石垣遊びする者がぼくらの他にもいたらしいことは、すでにその木にあったザイルずれが証明していた。そして、きょうの本当の目的は、石垣にあった1枚のハーケンがまだあるかどうかを確かめたかったのだが……。

 春になったらまた猫どもを見に来ようとは思う。しかし、石垣にはもう行くことはないだろう。人工壁全盛のいま、歴史的遺物に取り付く不埒者などもういないだろうし、記憶の片隅にあのハーケンも打ち込まれたままにしておくことにしよう。竹橋に向かって歩きながら、そう思った。

1998年12月6日

「ヤマネコ山遊記」開設1周年記念・ヤマネコインタビュー

◆ヤマネコさん、開設1周年おめでとうございます。

「あっという間の1年だったニャ。しかし、問題はこれからだな。だいたい個人の(山の)HPは、開設1〜2年たつとそれっきりというのが多いんだよね。ネタ枯れというか、とくに山行報告中心のページは、仕事に追われて山へ行けなくなるとプッツン。ヤマネコの場合は大丈夫だけど」

◆というと?

「過去300回以上の山行メモが大部分残ってるからね。今のところ70本の記録しか出してないし、昔の記録をちょぼちょぼ追加していけば3年は安泰だニャ。どうせ最近は年10回も山に行かないから」

◆そういうの、アリ? 20年前の記録なんてネコマタギもいいとこじゃないの?

「そうじゃニャいのよ。『ヤマネコ山遊記』は、バリバリ現役で登ってますよっていうHPじゃないの。私は今までこうやって山を遊んできましたという、言ってみれば遊びの自分史代わりなんだから。最近、年譜付きの自分史をネットで公開するのが流行しているらしいし。そうだ、“古いが新しい”なんてキャッチフレーズどう?」

◆自分史なんてジジ臭くない? もっと頑張ってもらわにゃ。

「仕事柄、金曜日は午前様なんだニャ。月曜日もフル回転だし、山へ行く環境としては最悪……おっと、ニャーニャー言っても始まらないか。まあ、少しは変なとこ(沢)載せていくけどね。誰も行かないドブ沢シリーズとか!? でも、仕事抱えて山もガンガン登り、HPも随時更新していける人は一握りじゃない? 最近は山関連のHP数が一時ほど増えていないのが気になるな。それに比べると釣り関連のHPは元気で、山の2倍以上の数がある。山同様、奥が深いけど、エネルギーもすごい。猫ページも多いんだけど、ただカワユイ自慢だけだと見る気がしない」

◆それ、猫飼えないヒガミ? ところで面白い山のHPの条件は?

「人それぞれだろうけど、自分自身の登り方をどうアピールしているかが第一かニャ。ただ百名山をなぞっていても仕方ない(百名山ファンの方ごめんニャ)。ヤマネコの場合は、猫下ろし(食い残し)的な静かでマイナーな山に興味があるから、山行形態も結果的に沢登りが多くなってしまう。難度追求タイプじゃないからハードな遡行はしないけど、やさしい沢でも面白くつないで、岩登りで言うルートラインの美しさというか、面白い遡下降ルートにこだわってみたい気はまだある。もう一つは、山プラスアルファにこだわりがあることだろうかニャ」

◆わかる。山菜、イワナ釣り、キノコ、高山植物、写真とか?

「そう、何でもいいんだナーゴ。焚き火、ブナとか昆虫でも。ヤマネコは蝶やトンボの採集が山登り前段階だったけど、もう採集はしていない。かつて昆虫少年だったという山屋さんは多いニャ。蝶好きが高じて山岳会名になったりする。ゼフィルスとか……。ヤマネコだったら『パルナシウス山の会』がいいニャ。パミールで、優雅に舞うパルナシウス(ウスバシロチョウの仲間=氷河時代の遺物といわれる蝶)を見たときは胸が高鳴ったニャン。東北や越後の山で出会うベニヒカゲも愛らしい。話が飛んだけど、ヤマネコのプラスアルファとは、知っての通り『猫』だニャ。そのへんの経緯はすでに書いているから省略するけど。山と猫を結ぶ“点と線”は、当初考えていたよりも複雑で、けっこう奥が深いって感じ。今までは民俗学、動物学、妖怪学などの分野でそれぞれ断片的に言われてきたことを、山好きの視点も加えてつなぎ合わせてみると面白い『猫山学』が生まれそうだぞ、マイナーだけど」

◆いろいろ勝手に盛り上がってきましたね。最後に2年目の抱負を。

「とりあえずは“古いが新しい”シリーズを少しずつ追加していくこと。殴り書いたノートから復元するので大変だけど、忘れていたことが蘇ってきたりして懐かしい。やっぱり山行記録は丹念につけておきたいもんだニャ。表紙デザインは、テーブルが複雑すぎて何とかせにゃ。貧弱なタイトルロゴも変えたい。それと近々『西新宿招き猫通り』シリーズ始めるんだニャ。これは猫ページへと大化けする布石になるかもしれん」

◆来年も「ヤマネコ山遊記」からは目が離せそうもありませんね。

「ニャ」
                (このインタビューはもちろん架空のやりとりです)

1998年10月25日

猫山の総本山は雲南にあり

 中国・雲南省といえば、京大学士山岳会の大量遭難で有名になった梅里雪山(メイリー・シュエシャン=6,740m)をはじめ、岩壁を張り巡らした玉龍雪山(ユーロン・シュエシャン=5,596m)など魅力的な山々があることで知られる。

 25もの少数民族がおり、貴重な動植物の宝庫でもある。なかでもトラやヒョウ、ヤマネコなどネコ科動物の棲息地ゆえに、トラを自分たちの祖先としている一部の少数民族さえいるのは興味深い。

 動物が人間になりすまして人を襲うという伝承は中国に多いが、代表的なのが「虎人伝説」だ。これらの伝承を残した漢民族からすれば、雲南は辺境で異端の地であり、トラを祖先とするような少数民族を畏怖し、妖怪視したのではないかと妖怪研究家・多田克巳氏は書いている(季刊「怪」第壱号・「雲南で発見する日本妖怪のルーツ」)。

 虎と同様に人を襲う猛獣で、大きな山猫の総称を中国では「狸(り)」と呼び、日本の猫股や化け猫伝説の原型をなしたといわれる。狸(り)は、ネコ科猛獣のいない日本では狸(タヌキ)と同一視されたが、いかんせんタヌキでは妖怪としての迫力に乏しく、猫股や化け猫に変化していったというわけだ。

 動物民話の豊富な雲南にも、猫にちなむ山があるはずだと思っていたら、同じく雲南の動物地名に興味を持った今村余志雄氏が、著書『猫談義』の中ですでに調べていた。無量山脈の最高峰で猫頭山(Maotou Shan=3,306m)という猫山の親分みたいな山があるのだ。

 中国登山ガイド本の『中国登山指南』(中国・成都地図出版社、1993)に載る地図で見ると、この山は省都・昆明(クンミン)から西南西に約200キロほど離れたところに位置する。「猫の頭」というのがなかなかいい。山名の由来はどういうことなのだろうか。頂上付近に猫の耳のような岩峰でもあるのか、あるいはかつてヤマネコがたくさん棲んでいて、親分ネコの住処だったのか。

 いずれにしても、雲南の山と猫に関する自分の情報は前出の本に記された範囲を出ないので、今後調べていくことにしたい。91年にパミールにでかけたあと、次に登ってみたい海外の山として中国、特に四川や雲南に惹かれたのは、猫山の総本山が呼んでいたからなのかもしれない。