2010年9月19日

大桶の猫山(千葉県市原市大桶)と横浜市の中田の踊場

大桶の猫山伝説
 大桶区にあり之を古老に問ふに今より凡そ二百年の前頃、東は長南伊勢屋の猫、西は相川村新三左衛門の猫を始めとして、数百の猫集まりて盛宴を張ることあり、秋夜月清く虫喞く頃、其の歌舞の状を目撃することありしと、今は此の山周囲を青年団の為めに伐採されて開墾する所となり、山頂の平地に四・五の老椎を存するに過ぎず。                                    『市原郡誌』(千葉県市原郡教育会編、千葉県市原郡発行、1916)
 典型的な猫の踊り伝説だが、集まってくる猫のうち二匹の飼い主が明らかにされているのが特徴だ。東の長南伊勢屋は現長生郡長南町のいせや星野薬局のこと、西の相川村は現市原市相川である。猫山からそれぞれ直線距離で8キロ、6キロ程離れている。この距離を猫どもが踊りに興じるため集まってくるのかと思うと頭が下がる。ちなみにいせや星野薬局は300年も続く老舗で切妻妻入の土蔵造りの店舗は文化2(1805)年に建てられたもので、国登録文化財に指定されている。

大桶の猫山へ

9月19日 昨日は群馬県前橋市の飯土井の猫山を探査したが、きょうは房総の猫山である。内房線五井から小湊鉄道に乗り換えて上総山田駅下車。房総方面に出かけることはあまりなく、なじみのないところ。

 市原市大桶(おうけ)の甘露寺まで約5キロ。八幡神社、市原交通刑務所、磯谷病院を過ぎると、両側が丘陵に囲まれたのどかな田園風景が広がってくる。前方に小山が二つ見える。左が軍茶利四天堂が建つ城跡山で目指す猫山。高さがほぼ同じの右の山は城廻山で大桶城があったとされる。どちらも標高100mほどだ。

左が伝説の猫山(城跡山)、右は城廻山



正面に高橋商店、裏山が城跡山

 田んぼの真ん中を一直線に突き進む農道を猫山を正面に見ながら歩いていくのは気持ちがいい。うぐいすラインに合流したところは食料品雑貨「高橋商店」前で、右の大桶集荷所から商店の裏手に回り込んでいくように住宅の間を坂道が続いている。さらに右に上がっていく道に導かれていくと左が広場で、奥に天台宗軍茶利山甘露寺が建っていた。道はそのまま石碑の建つところから細道となって竹林の中へ向かっている。竹林に入ると見上げるほどの急傾斜を一直線の石段と続いていた。両側から竹林が覆い被さって日光を遮り陰気な感じ。石段は82段でいったん途切れ、さらに86段続く。

奥の院への参道からの甘露寺
竹林の中の急な石段

 参道入り口から標高差約50mを登りきると奥の院である軍茶利四天堂に到着。社殿前の広場は手入れされないまま夏草が生い茂っていた。2月上旬に「篝焚き」(かがりだき)という新年神事が行われ、地区民らが広場の草を刈って積み上げて燃やすので、訪れるには春先から初夏の方がいいようだ。伝説の通り老椎の木も何本かあった。そのうち一番大きなものは二股の一方が折れてしまっていた。汗ばんだ体には草いきれの中で休んでも落ち着かず、一通り撮影後下ることにする。社殿裏の城累跡を見にいこうとも思ったが、調査テーマが違うのでやめた。

頂上の軍茶利四天堂。伝説のとおり老椎の木も

猫どもが踊った中田の踊場

 まだ日も高いのでもう一稼ぎすべく駅に戻ることにする。帰途、磯ヶ谷の集落でみかけた大黒猫は一瞬、小熊かと見まごうほどだった。鈴をつけていたので飼い猫とわかる。五井駅からは一気に横須賀線直通の久里浜行きを利用して横浜の戸塚へ(便利になったものだ)。横浜で猫の踊り伝説といえば泉区中田の「踊場」である。踊場というバス停が伝説の名残を伝えていたが、市営地下鉄ブルーラインが1999年に開通し、「踊場駅」ができたことでその存在を広く知らしめた。駅舎には随所にその伝説イメージを採り入れて猫のデザインが施され、粋な計らいをしてくれている。2000年には個性的な駅として関東の駅100選にも選ばれている。


一瞬、小熊かと見まごう大黒猫。足が太い!
踊場駅で最も印象的な踊る猫の照明(出口4)

 戸塚駅からブルーラインに乗り換え一駅目が踊場駅。まずは、踊場の供養塔がある2番出口へ向かう。供養塔は屋根付きで、傍らに碑の由来板も立てられている。碑には「南無阿彌陀佛」と刻まれている。賽銭入れも備わり、碑の後ろには卒塔婆もたてかけられていた。出口1にある踊場交番付近は長後街道の最高標高地点(58.5m)で、「中田の坂」の頂上となっている。供養塔はもともと、旧岡津道と長後街道が交差するこの角にあったが、市営地下鉄建設に伴う長後街道の道路拡幅で現在地に移された。長後街道は庶民信仰の山である大山へ至る旧大山道で、近世は登拝客の往来は多かっただろう。明治・大正期には、この一帯も養蚕が盛んになり製紙工場もあったが、踊場伝説はそれよりずっと前に成立しており、養蚕に関係する言い伝えはない。

長後街道から戸塚方面。右上が踊場交番と出口1

踊場の碑の由来
踊場の地名は伝説として古猫が集り毎夜踊ったので生じたと言はる。この碑は猫の霊をなぐさめ住民の安泰を祈念して近郷住民の総意にて元文二年(西暦一七三七年)造立し中田寺住職尊帰として開眼供養せられしものなり。最近交通いよいよ激しく長後街道と鎌倉道のこの交差路改修にて碑の移動に伴ひ本願の地区安泰と交通安全を祈願のため町内有志相計り住民各位の助成を得て慰霊塔を護持祖先の意志を継承奉らんとするものである。  昭和六十一年十一月三日に戸塚区から当区は泉区に変行になった。   中田踊場慰霊塔管理委員会

踊場供養塔(出口2)
踊場の碑の由来
 踊場伝説のパターンはいくつか在るのだが、不思議なのは猫が踊ったところだから踊場と名付けられたのではなく、「おどり場という所を通ったら猫がたくさん踊っていた」というものが多いことだ。すでに踊場という場所(地名)だったのである。「オドリバノダイ」としている伝説もある。また、なぜ踊る猫どものために供養塔が建てられたのだろうか。由来碑には書かれていないが、一番説明がつく伝説は、「踊場でたくさんの猫とともに踊っていた又兵衛さんの猫が、火傷である日死んでしまう。その後又兵衛さんが踊場にさしかかったところ死んだはずの猫が踊っていた。その猫の怨霊を供養するため供養塔を建てた」というもの。猫どもただ踊っていただけでなく、通りかかる旅人に披露していたというから、そのけなげさが供養塔(慰霊塔)を建ててもらう理由になったのだろう。毎夜踊っている猫どものためにわざわざ供養塔を建てるはずはないからだ。 参考:高塚さより「横浜市泉区踊場の『猫の踊』譚」(『昔話伝説研究』21号 昔話伝説研究会 2000)

 供養塔建立には中田寺の住職が関わっているが、碑の正式名称は「寒念仏供養塔(かんねんぶつくようとう)」という。供養塔右側面に刻まれているようだ。泉区のWebサイトによると、「寒念仏と刻まれているように、寒い中を中田寺の住職等5人の僧侶が、戸塚周辺の広い地域を念仏修行して回った総仕上げに、踊場の坂の頂上に、この供養塔を祀ったものといわれている」。ちなみに中田寺(ちゅうでんじ)は、江戸初期の慶長17年(1612)に中田村の領主石巻康敬が開基となって創建された浄土宗の古刹である。中田の坂の頂上に設置場所を選んだのは猫の踊伝説があったからなのか、碑の由来文にあるように地元住民が猫どもを慰霊するため造立するのにあたり、その開眼のため中田寺住職らが念仏修行したものかはよくわからない。 参考:『いずみ いまむかし − 泉区小史』(1996年、泉区小史編集委員会編、同発行委員会発行)

 猫山のジャンルに入れるつもりはなかったが、昔は「中田の山」「踊場の坂」と呼ばれた寂しい村境の林であった。供養塔の由来についてはなお不明点が多く、再調査することになるだろう。

2010年9月18日

飯土井の猫山(群馬県前橋市)

「踊る猫」の猫山伝説

 実際に存在した伝説の猫山が、いまやその面影すらなくなってしまった残念な事例である。

 「飯土井の猫山」は、前橋市飯土井に実在した。伝説によると「祐庵という医者が、飯土井を通りかかったところ猫が踊っており、その中に自分の飼い猫も入っていた。それからこの辺りを猫山と呼ぶようになった」と、その由来がある。さらに調べてみると、この地区の二之宮小学校には地域に親しみ郷土愛を育むための教材資料として二之宮カルタが昭和55年に作られ、「ね」には「猫山に立った 開田記念碑」と読まれていることがわかった。

 二之宮カルタ解説抄によると、「猫山は、飯土井町の井出上神社から東へ200m程のところにあった小高い丘である。猫山は、飼い猫を捨てた山なので、猫捨山が猫山になったのだろう。沢山の岩石が在ったのであるが大正4〜8年ごろ石工が掘り出したため、南半分は池になっていた。
 開田記念碑はその池の袂に立てられたものであった。この辺りは畑であったが、大正用水が完成し、水が豊富になったために水田になったものである。「もっと米を」これは畑作農民の重要課題である。水田ができたために、飯土井町の供出米が200俵足らずであったものが600俵を越すまでになった。この大事業を記念して猫山に碑を立てたのである。(以下略)」(「二之宮町自治会ホームページ」より)とより詳しく猫山について説明されている。

 現在、猫山と呼ばれた小高い丘はなくなってしまい、池の袂に立てられたという開田記念碑を探すことがポイントになりそうだ。詳しい地図を見ても、それらしき場所を指し示すものはない。現在はどのような状況になっているのだろうか。

猫山の場所を示す「開田記念碑」とは

9月18日 9月中旬だというのに厳しい残暑が続いている。両毛線駒形駅から地図を頼りに井出上神社まで徒歩約1時間かけて13時着。途中、「二之宮カルタ」を作った二之宮小学校に差し掛かると、賑やかに秋の運動会が行われていた。上武道路(国道17号)脇の小さな赤い鳥居から井出上神社境内に入る。掲示されている神社由来の「井出上神社誌」によれば、「井出上は、いずみ湧く上に鎮座せる意味であり、在も赤城山の伏流水が湧き出て神泉池を満している。」とされている。南側にはその通り神泉池があった。

井出上神社
赤城山の伏流水が湧き出る神泉池

 神社の東200m先に開田記念碑があるはずなので、上武道路に沿って周囲も見回しながら進んでみたが、それらしきものは見当たらず。上武道路の北側は工業団地のようで、小高い丘などもちろん見あたらない。仕方なく戻るように、神社東南の木々のこんもりとした集落を歩いてみる。庭先にいたおばさんに訊ねたが記念碑のことは分からないと言う。しかし、畑で農作業中の70代らしきおじさんから詳しくを聞くことができた。

 まず記念碑については、よく分からないが上武道路の北側に池(飯土井池)があり、墓地がある。そのあたりにあるのではという。猫山についてはよく知っていて、具体的に聞くことができた。猫山があったのは、上武道路の北側の西濃運輸となっているところだという。やはり神社の東200mの位置というのは一致していた。完全に小高い丘は削られて運送会社営業所となってしまっていたのだ。二之宮カルタ解説抄の内容通りで、採石をして大きな穴になり、そこに水が溜まって池になっていた。周りには松が生えていて怖いところだった。猫を捨てるところで、エサと一緒に置いてきたものだという。沼に放り投げるのかと思ったが、そんなことはしないと強調していた。

上武道路の向こう側にかつて猫山があった

 しかし、西濃運輸が猫山の場所として一致する一方、猫山にあるという開田記念碑については、神社北側の飯土井沼付近ではないかという答えに少々混乱する。とにかく飯土井池を一周し、墓地も確認したが記念碑はなかった。次に西濃運輸の広い敷地に沿って一周してみる。猫山の名残は何もなかった。途方にくれかかったが、原点に帰り井出上神社に再び行ってみると、最初気にも留めなかった入り口右手にあっさりと記念碑を発見。まさに「飯土井開田記念碑」であった。おそらく西濃運輸が進出した際、井出上神社に移設されたものであろう。

猫山から移された飯土井開田記念碑

遠ざかる「猫山」の記憶

 この猫山には養蚕神としての役割もあったようだ。上武道路は昭和60年に開通したが、それまでは水田のほか桑園が広がる静かな地域だった。『養蠶の神々 蚕神信仰の民俗』(阪本栄一著、群馬県文化事業振興会)によると、猫山には猫観音という石宮もあり、明治期末頃までは観音様には神楽殿があり、祭りに神楽が行われた。猫が居着かない、あるいは死んでしまったりすることがあると猫観音に祈願したという。話を聞いたおじさんは、猫観音のことには触れておらず、石宮などは5、60年前にはすでになくなっていたのだろうか。地元古老の複数の証言がほしいところだ。

 駒形駅に戻る途中、道ばたで自家ぶどう園の巨峰を売っていた老人に聞くと、猫山というのがあったということは知っていた。地域からも「飯土井の猫山」の記憶は消えつつあることを実感させられた。

2010年8月29日

四塚山の四ツ塚伝説

四塚伝説

 白山の四塚山にまつわる四ツ塚伝説のあらすじは次のようなものだ。

 昔尾口村の尾添集落にたいそう猫好きの娘がいた。娘は猫のとってきた魚を猫とともに一つの皿で食べ、猫とともに山野を跳び回り、老女になっても若者のように元気だった。

 ある日大蛇が現れて老女を襲ったが、三匹の猫が勇ましく飛びかかりついにはひるんでいた老女もカマで大蛇を殺した。その肉を食べた猫はその後狼と戦うほど荒くなった。老女もいつの間にか猫そっくりの顔になり、手足にも毛が生えた。

 彼女は家を離れて山の洞穴に住むようになったが、しまいには神通力を得て、雲を起こし、雨を呼び、空を飛べるまでになった。村に葬式があると必ず雨を降らせ、黒雲をおこらせて棺桶を奪った。あまりの悪行に困り果てた村人の頼みで越知山にいた浄定行者が四匹の猫を山から追い出し、二度と暴れないように北竜ヶ馬場の四塚に封じ込めた。

両夜行1泊2日で四塚山へ

8月28日 急行能登で早朝の金沢駅下車。魚津付近からは懐かしい毛勝三山がよく見えた。夜行ではいつも通りあまり眠れず、予想される猛暑への不安も。二日間の好天は保証されており、金沢駅前発のすでに別当谷行きのバスは満員だった。市ノ瀬で降りたのは自分だけだった。ビジターセンターで登山カードに記入する。

 車で来た人は、ここからバスに乗り換えていく。チブリ尾根への道はどこか、少しウロウロして確認する。単独行者が進む方向を見て後を追う。砂防工事用の道が新設されているので地図を見ても初めてだととまどう。

 尾根に取り付いて早くも汗がしたたる。すでに9時をすぎ、ブナ林の中でも蒸し暑い。重さがこたえ、最初の水場で2.5Lの水を少し捨てる。歩き始めて2時間、太腿に違和感を覚える。正午ごろ、足がつり始めた。森林限界を抜け、お花畑が出てくる。修験者姿の人が下ってきた。背中にはホラ貝をくくりつけていた。まだこんな人がいるのだなと思った。

 チブリ尾根避難小屋にヨレヨレで到着。別山がはるか遠くに感じた。下山する人と言葉を交わす。今日、別当出合からここまで来たという。南竜から3時間だというから健脚だ。地元では相当登り込んでいる人だろうと感じた。明日下る予定の釈迦新道を眺めながら、あそこは長いよと言われて、「明日下る」とは言えなかった。つった足の痛みは相当ひどくなっていた。

御舎利山から別山

 御舎利山にようやく上がり、主稜線を南竜のキャンプ場まで辿っていくことを考えると、別山往復は断念せざるを得なかった。今のペースでは日没前に南竜到着ができるか微妙になっていたからだ。稜線右側の谷が切れ落ちた大屏風の尾根を縦走していく。疲れてはいたが、新鮮な眺望がうれしい。行く手には御前峰がどっしりと高い。天池を過ぎ、2256m峰からは大下りの油坂にかかる。足は相当まいっていて、一歩一歩がつらい。

2256m峰から御前峰と南竜ガ馬場

 沢を渡り最後の登り返しでようやくキャンプ場に着いた。18時だった。受付をすませ、一番南側のキャンプ地にゴアライトを張る。20〜30張りの先客がいた。キャビンを借りているグループもいる。足の痛みから、この時点では明日は御前峰に登って別当谷出合へ最短で下山しようと考えていた。

 夜は冷え込んで、あまり眠れず。夜、テント外へ出た高校生パーティーが息が白いと騒いでいた。星の輝きもすごかったようだ。

8月29日 5時ごろ起床し、ゆっくりとコーヒーを飲む。朝食を済ませると、やっぱり四塚山には行きたいと思う。足の様子をみながら登ってみようと決める。そのかわり、御前峰はカットして最短距離で四塚山を目指す。

 6時25分出発。南竜山荘の脇から室堂へ向けトンビ岩コースをとる。足は痛みが残っているが何とか大丈夫そうだ。室堂平の広さは予想以上。昨日辿ってきた大屏風の尾根から別山の稜線が素晴らしい。

 御前峰へ向け人が鈴なりに登っているのでカットしてよかったと思う。いずれまた室堂をベースにのんびり来たらいい。大汝峰への最短コースもゆるやかな登りで高山植物も多く、またそれほど暑さを感じないので足への負担は少ない。

 いったん下りにかかると雪渓の残る沼が見える。白山に来ていることを実感できる眺めだ。大汝峰からの展望も素晴らしいはずだが、今回は西側の巻き道を行く。左手前方には七倉山や四塚山が手招きしているようで気が急く。

 大汝峰からの道と合流し、御手水鉢に下っていく。右側の地獄谷は壮絶な崩壊を見せ、遠く北アルプス槍・穂連峰が連なる。御手水鉢には本当に水がたまっていて不思議だ。いよいよ北竜ガ馬場への登りだが、七倉山を巻いていくような道なのであっさりと到着した。

七倉山と奥に四塚岳
地獄谷の崩壊
水の涸れない御手水鉢と七倉山

 そして、ついに四塚山と四ッ塚が目に入ってきた。ザックをデポし、カメラのみ持って四ッ塚と対面。ちょうど10時だ。細長い山頂部の東側が平で、四つの塚が庭園のなかに配置されたように並んでいる。保護のためか回りをロープで囲んであった。単独行者が北側のベンチで休んでいた。釈迦新道の長い下山を残しており、写真を撮って七倉の辻まで戻る。

七倉の辻から四塚山
四つの塚で最大のもの
四ッ塚と北アルプス遠望

釈迦新道の入り口付近から四塚山

 下山路から見る四塚山は実に大きい立派な山容であった。白山釈迦岳を過ぎる頃には、酷暑がこたえ、足が動かなくなってきた。この尾根からはボリウムある白山の連なりを終始見ながらの下りだ。長い下りはやがてブナ林となり、沢音が近づく。林道に出てからさらに1時間半がんばって市ノ瀬に到着。16時20分。最終バスまで小一時間あるので白山温泉につかることができた。

釈迦新道から四塚山
白山釈迦岳

 再び急行能登で翌朝6時前に大宮着。急いで洗濯し、シャワーを浴びてから出社した。厳しくも充実した両夜行一泊二日の北陸行だった。
 

2010年8月21日

「妖怪・化け猫展」(平木浮世絵美術館)、豪徳寺ほか

「納涼 妖怪・化け猫」展へ

 猛暑続きのなか平木浮世絵美術館(江東区豊洲)で「納涼 妖怪・化け猫」展を観賞する(500円)。美術館は、ららぽーと豊洲の1Fにあるのだが、とてつもなくでかいショッピングセンターだ。展示されていた化け猫関係の作品としては歌舞伎の「岡崎の猫」に題材をとったものがほとんど。見たことがあるものが多く、あまり新鮮味はなかった。主な出品作は以下の通り(化け猫関連)。


歌川国芳 「五拾三次之内 岡崎の場」 天保6年(1835)
歌川国芳 「見立東海道五拾三次 岡部 猫石の由来」 嘉永期(1848−54)
同「昔ばなしの戯 猫又年を遍古寺に怪をなす圖」 弘化4年(1847)頃
歌川国貞(豊国Ⅲ) 「岡崎八ツ橋村の妖怪 玉嶋逸當 猫石の変化」 嘉永期(1848−54)
歌川国周 「東海道五十三次 岡崎 尾上梅幸の猫石の怪」 明治4年(1871)
楊州周延 「二嶌実ハ両尾の古猫」 明治20年(1887)
 

 化け猫以外にも猫の登場する浮世絵をみたかったが、「にゃんとも猫だらけ」という企画展が2006年に開催されていた。カタログを売っていたので購入する(1500円)。

白金の自然教育園で涼む

 妖怪浮世絵では納涼にならず、以前から行きたかった国立科学博物館附属自然教育園(目黒区白金台)に転進。正門は東京都庭園美術館の隣で入園料は300円だ。広大な白金台地に豊かな自然が残る都会のオアシスである。落葉樹・常緑樹に広く覆われ、池や小川もある。「白金長者」という言い伝えを残す豪族の土累も残っている。大きな樹木に囲まれた園内にいると、東京のど真ん中にいることを忘れさせてくれる。ただ隣接して走る高速道の騒音が少し気になった。

招き猫のルーツの一つ・豪徳寺へ

 自然教育園散策は十分に満足したが、やはり猫関連史跡に行きたくなった。日が長いのでもう一がんばりすることにした。渋谷から井の頭線経由で小田急線豪徳寺へ向かう。豪徳寺駅を降りると大きな招き猫の石像がある。高校生が群がっていてシャッターチャンスがない。とにかく豪徳寺へ急ぐ。

 山門をくぐると参道左手に招福観音堂があり、手前右に猫絵馬、左奥に招き猫の奉納所がある。また、招き猫のルーツとなった伝説で彦根藩二代目藩主・井伊直孝を雷雨から救った猫(たま)の墓もある。夕刻だったので蚊がたくさんいて油断するとすぐ刺される。タンクトップにホットパンツ姿の外国人女性が招き猫や絵馬の写真を熱心に撮っているが、群がる蚊に対して全然平気なのが不思議だった。招福殿で招福猫児の一番小さい3号を求めてから井伊家の墓所にも行ってみる。直孝の墓は正面で、桜田門で暗殺された直弼は左手奥に眠っている。

招福観音堂入り口の招福門
招福観音堂に飾られた招福猫児や御札
招き猫奉納所の左に「たまの墓」 

 豪徳寺商店街の招き猫はほとんどが豪徳寺で売られている猫だった。なお、自治体ゆるキャラとして絶大な人気がある滋賀県彦根市のひこにゃんは「彦根の、にゃんこ」を略した愛称だが、彦根城築城400年記念イベントのイメージキャラとして平成19年(2007)に生まれた。なぜ猫なのかというと、豪徳寺の招き猫伝説にあやかっているからである。ひこにゃん公式サイトのプロフィールによると「彦根藩二代目藩主である井伊直孝公をお寺の門前で手招きして雷雨から救ったと伝えられる“招き猫”と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編成のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたきゃらくたー。」と説明されている。


商店街にも豪徳寺の招福猫児
ほとんどが豪徳寺猫

招福猫児の由来(招福猫児の説明書)
東京都世田谷区豪徳寺二丁目の豪徳寺は、幕末の大老 井伊掃部頭直弼公の墓所として世に名高く、寺域広く、老樹爵蒼として堂宇荘厳を極め賓者日に多く、誠に東京西郊の名刹なり。
されど昔、時は至って貧寺にして二三の雲水修行して、漸く暮しを立つる計りなりき。時の和尚、殊に猫を愛しよく飼いならし自分の食を割て猫に与え吾子のように愛育せしが、或日、和尚猫に向かい
「汝、我が愛育の恩を知らば 何か果報を招来せよ」 と言い聞かせたるが、其の後幾月日が過ぎし、夏の日の昼下がり、俄かに門の辺り騒がしければ、和尚何事ならんとて出てみれば、鷹狩の帰りと思しき武士五六騎門前に馬乗り捨てて入り来り、和尚に向かい謂えるよう「我等、今当寺の前を通行せんとするに、門前に猫一匹うずくまりて居て我等を見て手を上げ、頻りに招く様のあまりに不審ければ訪ね入るなり、暫く休息致させよ」とありければ、和尚いそぎ奥へ招じ渋茶など差出しける内、天 忽ち曇り夕立降り出し雷鳴り加わりしが、和尚は心静かに三世因果の説法したりしかば武士は大喜びいよいよ帰依の念発起しけむ、やがて「我こそは 江州彦根の城主 井伊掃部頭直孝なり 猫に招き入れられ雨をしのぎ貴僧の法談に預かること是れ偏へに仏の因果ならん 以来更に心安く頼み参らす」とて立帰られけるが、是れぞ豪徳寺が吉運を開く初めにして、やがて井伊家御菩提所となり、田畑多く寄進せられ一大加藍となりしも
全く猫の恩に報い、福を招き寄篤の霊験によるものにして、此寺一に猫寺とも呼ぶに至れり。
和尚後にこの猫の墓を建ていと懇に其の冥福を祈り、後世この猫の姿形をつくり招福猫児と称へて崇め祀れば吉運立ち所に来り家内安全、商売繁盛、心願成就すとて其の霊験を祈念する事は世に知らぬ人はなかりけり。
                                      曹洞宗 大谿山 豪徳寺

2010年7月25日

会津・猫魔ヶ岳と志津倉山の木彫りカシャ猫探し

代表的な化け猫伝説の山・猫魔ヶ岳

 猫魔ヶ岳(1404m)は猫又伝説の代表的な山の一つ。釣り上げた魚目当てに老女に化けた雌猫を郷士が斬り殺したため、山の主たる猫王はその奥方を食い殺して樹上に吊し復讐。怒りの郷士が宝刀で妻の仇を討つという粗筋である。

 「耶麻郡桧原村の豪勇の士・穴沢善右衛門は奥方を連れて磐梯の湯に行った。奥方を残し、宿の下男と山裾の沼へ釣りに出かけた。思わぬ大漁に夢中になり日も暮れかけたので、その日は近くの釣り小屋に泊まることにした。魚を焚き火で焙り夕食をとっていると、小屋の入り口から覗く老婆がいる。驚いたことに善右衛門の乳母ではないか。中に引き入れ串焼きの魚を差し出すと、ぺろりとたいらげ飢えた者のような食欲である。思い出話をしてもつじつまがあわず、魔性の者と見破った善右衛門は太刀で斬り殺した。明け方になると老婆は年老いた一匹の黒猫となって口から血を吐いて死んでいた。
 急ぎ湯治場へ帰る途中、奥方が昨夜から行方不明と聞かされた。山中を村人らが捜索したところ断崖の上にそびえ立つ老樹に、変わり果てた奥方の屍体を見つけた。
 近くにいた木樵り風の男に遺体の引き下ろしを頼むと、男は「腰に差している刀を貸してくれたなら」という。伝家の宝刀だからと断ると男の態度が一変し、「われこそはこの山の主、猫王なるぞ。先夜、我妻を一刀のもとに斬り殺したであろう。その仇を討たんがため汝の妻を食い殺したのだ。刀を渡さないと汝をも食い殺してやる」と一喝して、するすると梢に登り怪猫の正体を現した。そして「ギャオーッ」と叫ぶと奥方の遺体をくわえて、宙を飛ぶように梢をわたり姿を消した。
 怒狂った善右衛門は村人達を動員して山を包囲し、化け猫退治に乗り出した。幾日かの後、洞穴に潜む化け猫と奥方の屍体を見つけた。善右衛門は伝家の宝刀で怪猫を真っ二つにして、奥方の屍体を取り戻した。それ以来、怪猫を斬った山を猫魔ヶ嶽といい、宝刀貞宗は猫切丸の異名で呼ばれ、穴沢家に永く伝えられた」というもの。北塩原村桧原には、穴沢家の五輪塔群がいまでも残っている。

 このほか、「猫魔ヶ岳に出る化け猫が人々に危害を与えるというので、これを退治しようとした殿様がいたが、計画が猫に聞こえ、奥方様を人質に取られた。これを鉄砲名人の百姓六三が救い出し、沢山の褒美を貰った」(『みちのく120山』福島キャノン山の会、歴史春秋出版)という伝説があるようだが、元文は未見だ。

 善右衛門が釣りをした沼は、猫魔ヶ岳西方の雄国沼だ。北方の檜原湖で釣りをする人々にも危害を与えたともいう。この点について平岩米吉は「人里離れた高地の沼と、釣り上げた魚と、山猫との間には、何か関連がありそうである」と書いている(「猫の歴史と奇話」1992 築地書館)。

 かつて猫魔ヶ岳の猫を祀った磐梯神社では、文政年間(1812~29)に猫の絵を描いたお札を発行していた。山頂西方にある猫石について『新編会津風土記』では、「磐梯山の西にあり、高九十丈周二里計、昔猫またありて人を食ふしとてこの名あり、北の方に猫石とて其面畳の如くなる大石あり、其の下草木を生せす、塵埃なく掃除せしか如し、猫また住すめる故なりと云(後略)」と記されている。なお、松尾芭蕉の詠んだ「山は猫 ねぶりていくや 雪の隙」の句は天和年間(1681~84)の作とされているから、猫又伝説はそれ以前に成立していたと思われる。

猫魔ヶ岳に登る

 7月24日 雄国沼登山道入り口でバスをおりる。猛暑の予報だが、雄国沼登山道はブナ林の涼しい道で助かる。沢も横切るので水には困らない。雄国沼休憩舎手前で雄国山への道が分岐する。水量豊富な水場がある。休憩舎は数十人は泊まれそうな立派なログハウス。大勢のハイカー、学校登山団体で混み合う。雄国沼の散策も楽しそうだ。

雄国沼と猫魔ヶ岳(中央左)と猫石(中央右)

 猫石(1335m)が見える。約1時間の行程だ。急登となるとポッカリと猫石頂上に着いた。猫石そのものがピークとなっている。西方に磐梯山(1818m)が猫魔ヶ岳の向こうに見える。猫石を下ると、すぐ下山コースの厩岳山への分岐である。猫魔ヶ岳からの磐梯山の眺めがすばらしい。

猫石

猫魔ヶ岳から磐梯山

 厩岳山(1261m)への道も歩きやすく、ブナ林の道である。スキー場の存在はここまで目に入らず意外だった。厩岳山からの猫石は猫が寝そべっていると思えなくもないが、見た目が小さい。

 10分も下ると馬頭観音堂と行基清水(冷たくおいしい)だ。三十三番目の石地蔵がある。参道入り口が一番札所となっており、植林地を過ぎると登山口だ。地図どおり真っ直ぐ下る道は草に覆われており、林道を左に少し歩いてから明瞭な道を右に辿ると集落に出た。

 磐梯町駅周辺の地図は持参しておらず、道を間違えて15分のロス。会津若松駅前の白木屋で夕食後、只見線で会津宮下へ向かう。駅前でテントを張ったら駅員に追い払われる。仕方なく宮下活性化センター裏に移動する。

(コースタイム)登山口10:00 雄国沼休憩舎11:15〜11:30 猫石12:30〜45 猫魔ヶ岳13:02〜10 厩岳山14:00〜10 行基清水14:20 登山口15:41 磐梯町駅17:00

木彫りのカシャ猫を求めて三島町へ

7月25日 暑くてあまり眠れなかった。4時には起き出して神社でコーヒーを飲む。7時過ぎまで表通りを散策。カシャ猫を置いてそうな店を探す。いったん駅へ戻り、8時すぎに宮下温泉栄光館に朝風呂をいただきに。おかみは民芸品が好きだと栄光館のサイトにあったので、何か手がかりがありそうだった。

 奥会津書房の脇を通り抜け、下ったところに栄光館がある。入浴料500円。さっぱりとして、土産物売り場で『会津学4号』を購入。おかみさんに聞くと、カシャ猫は15、6年前までは販売していたそうだ。町長宅の「斉藤用品店」に聞いてみるとよいのではとアドバイスを受ける。

 役場入り口の休憩所(水場)でしばらく『会津学』を読みふける。カシャ猫伝説のことにも触れており参考になる。

 9時近くになったので、斉藤用品店へ伺う。町長の息子さんが出てきて、ここにもないということで、生活工芸館に電話してくれた。販売はもうしていないが、展示しているものはあるということなので、向かうことにする。山開きの際に入浴したふるさと荘を過ぎてからが遠かった。西片駅をすぎると、さすがに暑くてバテてきた。ふるさと荘から2・5キロほど行って左へカーブして坂を上がって、さらに右に登っていくとやっと工芸館入り口だ。

 工芸館で電話を受けた方は、『会津学』にも登場していた菅家さんだった。案内され事務室右手の部屋左奥の棚に2体あった。径8センチ、高さ25センチくらいの大カシャと、径4センチ、高さ20センチくらいの小カシャだった。単純な作りだが思ったより手が込んでいて、ヒゲまでついていた。コシアブラの木でつくられているという。間方出身の菅家さんも自宅にひとつ置いてあるという。作者の長郷(なごう)さん宅に在庫があるかもしれないといって電話していただいたが不在だった。

カシャ猫の木彫り(長郷千代喜作)

 空腹だったので、隣のカフェでソバを食べ、主人に宮下駅まで送っていただき大助かりだった。「カシャ猫」と出会えたので所期の目的は果たせたが、実物を見たら味わいのある木彫りでぜひともほしくなった。後日、長郷さんに電話してみると、ヤマブドウのツル細工も作っていないし、カシャ猫は手元にないということだった。

 

2010年7月19日

戸隠山の「ねこまたの岩屋」(埼玉県鳩山町)

「ねこまたの岩屋」

埼玉県比企郡鳩山村須江 戸隠山
戸隠山に岩屋がある。昔、古猫がこの岩屋に沢山集まり、笛を吹いたり、仕舞を舞ったりしたという。             『川越地方郷土研究』四冊

 ねこまた伝説の全文はこれだけにすぎない。比企郡鳩山村は現鳩山町。この一帯は外秩父の丘陵地帯で周辺の開発が進み、地形図を見ても戸隠山という山は見当たらない。須江という地名は残っているが、北側に98.3mの標高点があり周辺の最高地点だ。実際に伝説の地を歩いてみることにした。

埼玉県唯一のねこまた伝説の地

 7月19日 朝から強烈な太陽が照りつける。きょうは沿線地の探索なので気楽だ。東上線武蔵嵐山駅でおりて笛吹峠へ向けて歩いていく。途中、源義賢の墓地や源義仲、源義高生誕地、縁切り橋(東征中の坂上田村麻呂が、心配して訪ねてきた奥方を叱りつけ京に返した)、将軍塚など見所がある。また、笛吹峠までの一帯は蝶の里としてオオムラサキの保護に力を入れている。峠までのなだらかな登りで涼しげなクヌギ林で心地よい。この道はかつての旧鎌倉街道で幾多の武士団らが往き来したところだという交通の要所であった。


 約50分で峠に着く。ハイカーも訪れていて休憩所もあり、一息入れる。「クマ出没注意」の看板があり、こんな里山にも出没するのかと驚く。「平成20年5月27日に熊の目撃情報あり」と記されていた。峠から西に幅広の道が続いている。東に行けば物見山へと続くハイキングコースだ。98.3m標高点を通る西の道に入る。北が嵐山町、南は鳩山町の境界道となっている。標高点付近から南側に入る道があり、そちらに行ってみる。明るく開けた伐採跡に出る。南側は谷を隔てて森となって人家は見えず、里山とは思えない山中にいる感じ。このあたりが戸隠山というのだろうか。雑木林とヤブで自由に歩き回ることはできない。
涼しげなクヌギ林のトンネルを笛吹峠へ
笛吹峠

里山ながら「熊出没注意」の看板

ねこまたの岩屋はこの森に?
 境界線の道に戻り、熊除けに声を上げる。すると、子供の声が返ってきた。車道に出る手前に人家があり、二階から子供がこちらを見ていた。別荘ではなさそうで、寂しいところに住んでいるものだ。車道を下っていくと右手に少し大きい貯水池がある。ほとりに地蔵様が鎮座している。池の南側には社があり、のぞくと戸隠大神と九頭龍大神の文字が見えた。農耕と水を祀る戸隠信仰あることから須江の山を戸隠山と呼んだということは容易に想像できる。少し下った集落から再び山に入る道がある。車も入れる道で途中人家があり、戸隠山の件について聞いてみたが、比較的新しい住人だからなのか知らないということだった。

池端に祀られた戸隠大神と九頭竜大神

農業用貯水池?
 笛吹峠からS字状に戸隠山と目される森を辿って須江集落の南端に回り込む。ここには長命寺という寺があり、何か手がかりになる話をキックことができるのかもと期待していたが、無住の寺となっていた。大きな門構えの農家の前に来た。迷ったが暑いさなかにおじゃまするのは気が引けて断念。これではいないのだが。黒石神社、桝井戸遺跡(町指定記念物)と見ながら、須江の集落を離れ、玉川から八高線明覚駅に向かった。途中、玉川工高前の車道で交通事故に遭った動物は猫かと思ったら大きなタヌキだった。この日は最高気温36度まで上がり、調査するには厳しすぎる猛暑であった。

須江集落と戸隠山方面
 この日歩いただけでは具体的な手がかりはなく、土地の古老か町役場に問い合わせる必要がある。しかし、岩屋の場所を特定することは困難であろう。

2010年7月4日

北上山地・六角牛山と笠通山山麓の猫石探査

六角牛山と猫川

 猫川は岩手県遠野市の早瀬川上流、遠野三山の一つ六角牛山(1294m)付近に発する。

 『遠野物語拾遺 176』(角川文庫)には、「青笹村の猫川の主は猫だそうな。洪水の時に、この川の水が高みへ打ち上がって、たいへんな害をすることがあるのは、元来猫は好んで高あがりするものであるからだといわれている。」とある。地形図をみると、現在の猫川は砂防堰堤だらけで氾濫しやすい暴れ川だったことが分かる。源流は柏手のように何本かの急峻な沢から猫川に一気に流れ込む地形となっているのだ。六角牛山は、そんな暴れ川をかかえる山とは思いもつかない優美な山容である。

 ところで鉄砲水のことを利根川支流湯檜曽川の流れる地元、群馬県水上町では「猫まくり」と呼ぶ。平成12(2000)年8月6日に起きた湯檜曽川での鉄砲水事故が記憶に新しい。事故当時80〜120センチ水位が上昇し、谷川山麓で合宿キャンプ中だった少年サッカー団を襲った。「猫まくり」は「壁のように押し寄せる水の波頭が、猫の前脚のように曲がる様子から来た言葉だ」(asahi.com 8月7日配信記事)と注目された。猫川の洪水は「猫の高あがり」だが、いずれも異常な出水を猫の動きに例えているのは偶然とはいえ興味深い。

六角牛山へ登る

7月3日 六角牛山は以前から登ってみたいと思っていた。この土日は、まずこの山を片づけ、翌日は北上山地最北端の久慈平岳を登る計画だ。

 新花巻に着くと昨夜の豪雨による土砂崩れで釜石線が不通となっていた。振替輸送バスで遠野駅まで行く。六角牛山方面は雲に覆われており、上部は雨かもしれない。六角牛神社でタクシーを下りようと思っていたが、林道終点まで入れるとのこと。終点にはマイクロバス(秋田ナンバー)が止まっており、団体さんが先行しているようだ。

六角牛山登山口
六角牛山頂から中沢への尾根
中沢登山道下部の気持ちいい道
 しっとりとした樹林帯を登っていくと7合目から急登に変わる。岩がゴツゴツして歩きづらい。団体14名が下山してくる。湯沢を朝4時に出てきたそうだ。9合目には小屋があり、頂稜の一角に出る。頂上はガスであまり展望がない。晴れていれば遠野盆地が一望だろうに。北方で雷鳴がする。雨を心配して早々に下山にかかる。中沢への道は誰にも会わず歩きやすかった。登山口から林道をショートカットするが、地形図上の道はあまり使われていないようで沢を強引に渡って林道に上がる。

 六神石神社分岐から青笹駅までのロードは日差しも出て蒸し暑くなった。振り返ると六角牛山が見渡せるほどに天候回復。きょうは陸中海岸北部の久慈まで行くので、猫川の流れを見に行くことはできない。猫川の源流から六角牛山に登るのも面白そう。沢の記録は見ないので、そのうち登ってみたいものだ。

 釜石線は午後に復旧したようだ。予定通り、釜石で山田線に乗り換え、さらに宮古で北リアス線に乗り換えてようやく久慈へ辿り着く。霧で海は見えず。宮古線は豪雨で不通になったらしい。雨上がりの久慈に下り立つ、駅前の養老の瀧で夕食後、市内の道の駅でテント泊。

再び遠野の猫石探査へ

7月4日 ガスが濃く、山は霧雨模様。久慈平岳は中止として八戸に出て、再び遠野に舞い戻ってきた。遠野駅でレンタサイクルを借りて、猫石探査のため笠通林道を目指す。

 40分ほどで続石、そして笠通林道入り口を過ぎて小峠へ向けて400mほど登っていく。どうもこちらではなさそうなので、笠通林道入り口に自転車を置いて林道に入ってみる。右手山側斜面の杉林に見当をつけて探すがそれらしき大石はない。いったん下って畑仕事中の爺様に声をかけ、「猫石を知りませんか」と訊ねる。すると下の家を指さし、「そこで聞けば分かる」というようなことを言う。「それは猫石さんですか」と聞くとうなずくので、これはしめたと思う。そのお宅に行って声をかけると、畑からおばちゃんが上がってきた。

笠通林道入り口
 猫石はやはり笠通林道を少し入った右手斜面にあるのだという。1〜2分も上がると分かるらしい。ご主人(屋号猫石さん)は出かけているが、いれば案内させるのだがと恐縮していた。以前にも何人か猫石を探しに来た人がいると言っていた。

 もう少していねいに探せば見つかるだろうとタカをくくって、もう一度林道に戻る。しかし、かなり上まで行っても見つからずじまい。汗だくになってしまう。あとでネットで調べたら、もう少し奥へ入ったところで、左側に駐車スペースがある地点らしい。今日はここまでとして探査を切り上げる。帰りがけ10年ぶりに続石に立ち寄った。

 今回は収穫がなかったわけではないので、遠野駅に向け自転車を漕ぐ気分はまずまずであった。帰宅後、続石をネットで調べたら弁慶の枕石の近くに「猫石」があるということで、写真まで載っていたのに驚く。これはどういうことだろう。つまり、綾織地区に「猫石」は二つあることになる。さらに安部貞任伝説の「猫岩」は笠通山西麓にあるとにらんでいるので、遠野通いはしばらく続けなくてはならなくなった。

遠野市内で目ヤニ猫がお出迎え