寺の衰退を救った虎猫
深谷市人見の人見山昌福寺は、深谷上杉第5代(深谷城初代城主)房憲の開基である。本堂裏の庭園は深谷市の名勝で、仙元山麓を生かした禅宗庭園で、室町時代の造園といわれている。上越新幹線沿線なので、車窓からも仙元山と昌福寺を見ることができる。
この寺に、猫の報恩譚の「猫壇中」という伝説がある。寺の衰退を一匹の虎猫が救う話だ。
猫と寂しく暮らす和尚が胸中を語ると、人語で猫が答えた。「檀家だった長者が近いうちに死ぬ。葬式のとき棺をつりあげるので、南無トラヤヤと唱えるように」と。はたして、猫の予言のとおり長者は亡くなった。その葬列を突然の稲妻と大雨が襲う。雨が去り、棺を置いたままいったん退散した葬列の人々が戻ってみると、棺が宙づりとなっているではないか。なみいる僧たちが経文を読んだり手を尽くすが、棺をおろすことができない。そこで昌福寺の和尚が呼ばれ、猫の言うとおり「南無トラヤヤ」と唱える。棺はするすると降り、そのまま昌福寺の墓地に行ってしまった。これを見て驚いた長者家では、死人が昌福寺が好きなのだろうということで、再び昌福寺の檀家に戻った。嵐を呼び棺を宙づりにしたのが昌福寺の猫だと知れ、以来、昌福寺の檀家を「猫壇中」というようになった。
突然の雷雨から棺(死体)が昌福寺に行くまでのパターンはもう一つある。伝えられている話では、十数件まとまって離壇した村が長在家村(旧大里郡川本村長在家、現深谷市長在家=昌福寺から南南西約5キロ)となっていることや、葬儀を出して棺を宙づりされた長者が小川家と特定していることなど、全国に分布する昔話の「猫檀家」が伝説化した例だ。
昌福寺には、伝説にまつわる猫塚などの遺物もなさそう。でも、行ってみないと何が見つかるか分からないものだ。あまり気乗りはしなかったが、雲洞庵に行った翌10月30日に出かけてみた。深谷駅から南東へ約3キロ。県道62号から仙元山(98m)を南側に回り込む。境内に入り、まず石板に彫られた「昌福寺誌」を読んでみる。案の定、伝説には一言も触れていない。室町時代の創建で江戸時代には幕府から二十石を下付された禅宗の名刹と説明されている。戦国時代にすたれた一時期のこととして語られた伝説を、今さら表に出す必要はないのだろう。猫の伝説など遠ざける寺がある一方、世田谷区の豪徳寺、長野県の法蔵寺などは伝説を寺院経営に生かしている。
昌福寺の入り口。背後は仙元山 |
昌福寺本堂 |
仙元山の散策路 |
背後の仙元山も何かと気にかかった。頂上に建つ浅間神社は昌福寺より古く、南北朝時代にはすでに存立していたと伝えられる。民話などで、踊ったり人語を話したのがバレた寺の猫は、年期を言い渡されたり、また自ら裏山に入っていなくなるものだ。寺と裏山と猫は結びつくのだが、猫の気配なし。散策路はよく整備され、隣接する運動公園とともに市民の憩いの場となっているようだ。何も収穫はなかったが、伝説のある寺を見ただけでも満足感があった。出発が遅かったため、渋沢栄一の生家や記念館までは足が回らなかった。
参考
「埼玉の伝説」(「日本の伝説」18)早船ちよ、諸田森二、角川書店、1977
「ふるさと埼玉県の民話と伝説」県別民話シリーズ3 韮塚一三郎、千秋社、1982