2010年11月21日

長瀞町の猫地蔵尊(埼玉県秩父郡)〜岩根神社の蚕神像

個人宅で守られてきた猫地蔵

 秩父は養蚕の盛んだった地域で、蚕神としての猫の言い伝えや神社がいくつかある。長瀞町の猫地蔵尊は個人宅に祀られている珍しい猫神である。言い伝えでは、厠についてきた猫の首を切ったところ蛇に食らいついて妻女を守ったので、猫の供養のために地蔵を安置した。300年以上も守り続けているが、養蚕が盛んだった頃は鼠除けに参詣する農家が多く、今では主に安産・交通安全祈願だという。

 秩父鉄道野上駅から彩甲斐街道を南下して消防署分署から右折、十字路で散歩中の男性に尋ねると親切に教えてくれた。昔は養蚕の盛んな時代でよく猫地蔵に参拝にきていた。今はこの町でも数件しか養蚕はやっていないとのこと。左の道(旧道?)を50mほど行くと左に猫地蔵の小さな看板。青い屋根が見えてそれだと分かった。庭におばあさんがいたので確認する。大きな岩に猫地蔵と刻んである。拝観をお願いすると快く扉をあけていただいた。物置小屋のような建物で間口1・5m、奥行き2mほど。物置としても利用しているようで、大きなカメや石油貯蔵のドラム缶も入っている。奥正面の台に鎮座した猫地蔵尊は高さ約30センチで優しいお顔をしていた。赤い頭巾と前垂れをかけ彩色ははげかかっている。下の台座には黒光りした木彫り猫?が横たわっていた。招き猫が20体ほど並べられ、右下には色あせた絵馬が二枚おかれていた。かろうじて大正十二年と読みとれる。猫の絵は消えかかっていた。以前はもっとあったが雨漏り等で痛んでしまったらしい。

300年を経た猫地蔵尊

台座に黒い木彫り猫?

大正12年奉納の猫絵馬

 猫地蔵尊はかつては家の中にあったが、地蔵のところが雨漏りがする。これは元の屋敷に置いてあった場所に戻りたいということなのだろうということで、旧屋敷に安置されていたところに小屋を建て安置し直したらしい。それでわざわざこの小屋があるのだった。これは新たな伝説だ。

旧屋敷の安置場所に戻すため小屋を建てた
 野上駅に戻ると駅前で宮澤賢治の歌碑を見る。石っこ賢さんは秩父にもきていたのだ。大正5(1916)年、盛岡高等農林学校2年(20歳)のとき地質調査のため秩父地方を訪れた。

 盆地にも今日は別れの本野上 駅にひかれるたうきびの穂よ 宮澤賢治

宮澤賢治の歌碑
ツツジの季節が素晴らしい岩根山

 駅員によれば岩根山のつつじ園がすばらしいとのこと。ここから歩いて1時間ほどだから季節はずれだが岩根神社に行くことにする。神社には蚕神像があり、もしかしたら猫の像もあるかもと期待する。秩父鉄道を渡り荒川に架かる高砂橋を渡って左折。やがて岩根神社徒歩道の道標がある。いったん車道に戻るが再び徒歩道入り口から山道となる。手入れがよく歩きやすい。一汗かいて一段と紅葉がきれいなところが岩根神社の社務所前だ。真っ赤な紅葉がすばらしい。

岩根神社社務所前の紅葉
猫顔に見える蚕神像

 社務所脇から車道に上がると白い鳥居があり、急な石段の先が岩根神社だった。つつじ園の眺めがいい。秩父らしく狛犬は狼のようである。社殿の背後は岩壁が迫っていて崩壊防止のためコンクリートが吹き付けられていた。猫の石像もあるかと期待したが、周囲を探しても見当たらない。蚕神像は社殿真後ろの岩壁のくり抜きに鎮座していた。頭には蚕蛾、左手に桑の木、右手にマユを持っている。顔は人顔だがよく見ると猫顔で、少し怖い印象。守り神としての猫をイメージして作られたのではとも思われる蚕神だ。

背後の岩に蚕神像がある
蚕神像
猫顔に見えてしまう

 社務所のある谷を隔てた尾根上にも神社があるのでそちらにも登ってみた。春にツツジの花が山を覆うように咲く景色は見事だろう。往路を戻って高砂橋を渡り、桜並木の街道を長瀞の岩畳へ向かう。隣町にある大日神社(皆野町)も御神体は猫石で興味が湧くが、かなり歩くので別の機会に回すことにした。例大祭がある5月5日には御神体も拝観できるし、御札もいただける。狛猫のある城峰神社と組み合わせて来てみよう。秩父地方は山小屋建設などで何度も通い続けたが、あらためて山裾を歩くだけでも面白いところだと実感する。

長瀞の岩畳から川下り船を見送る
そろそろ猫の気配が
おすまし子猫
運良くSLにも出会えた(秩父鉄道長瀞駅)

2010年11月20日

西方寺の招き猫像(豊島区西巣鴨)と自性院の猫地蔵尊(新宿区西落合)

西方寺の招き猫像

 浄土宗道哲西方寺(豊島区西巣鴨4の8の43)は浅草にあったころ遊女の投げ込み寺として知られたが、関東大震災で消失し現在地に移転した。「遊女薄雲伝説」にちなむ猫塚はなくなったが、名残の石の招き猫像がある。主人を救う忠義猫の有名な伝説なのでかいつまんで記す。

 吉原の遊郭・三浦屋の看板遊女であった薄雲が、ある時厠へ入ろうとすると、ついてきた愛猫の三毛猫が厠に入れようとしない。遊郭の主が魔性の猫かと脇差しで首を切り落としてしまう。猫の首は天井の大蛇に食らいついて薄雲を救った。忠義の猫を供養するため薄雲は西方寺に猫塚を建てた。贔屓の豪商は伽羅(きゃら)の木で造った猫を薄雲に贈った。これを真似たものを浅草で売りに出したのが招き猫の始まりだという。

 「(遊女、殿様の奥方など)厠についてくる猫→誤解され切られて首が飛ぶ→蛇にかみつき飼い主を救う→猫塚が建つ」というパターンの伝説は、このほか仙台市若林区の少林寺の猫塚、山形県置賜郡高畠町の猫の宮、埼玉県秩父郡長瀞町の猫地蔵尊などに伝わる。

無残に変わり果てた姿に

 西方寺に行くのには地下鉄西巣鴨駅を利用するのが一般的だが、久々に都電荒川線に乗ってみたくなり大塚駅から新庚申塚下車。白山通りから裏道に入ると西方寺はすぐだ。招き猫は入り口の門柱の上にあったが、5年以上も前に二代目高尾太夫である万治高尾の墓前に移された。本堂脇を抜けて左手に万治高尾の墓を見つける。招き猫像は高尾の墓入り口の塚の脇に座っていた。しかし、上げていた左手はなくなり頭部も欠けているではないか。修理した跡も痛々しい。写真でもきゃしゃな印象だったが、無残な姿に変わり果てていた。この招き猫は西方寺がまだ浅草にあった頃につくられたもので、関東大震災で焼け出されたとすれば、石ももろくなっていたのだろう。

 傷みが激しいから門柱から下ろしたのだろうが、高尾塚前に移動したことで、誰でも自由に触れることができるようになり、イタズラされた可能性もある。現に欠け落ちた左手はなくなってしまい修理のしようもない。両国回向院の猫塚のように史跡としてガラス張りケースで保護できればいいが、寺の財政事情もあるだろうから難しい。回向院の猫塚もかつては塚の上部に猫の寝姿が刻まれていたというが、鼠小僧墓前の「欠き石」と間違われてすっかり削られてしまったのである。

万治高尾の墓

高尾の墓の左脇に招き猫が

上げた左手はなくなり頭部分も欠損

頭部分の修理跡が痛々しい

自性院の猫地蔵尊は地域密着

 西光山真言宗豊山派自性院(新宿区西落合1の11の23)の猫地蔵尊は伝説を生かして、地域にもしっかりと根付いている。ご本尊の猫地蔵尊は毎年節分の日にしかご開帳しないので、猫マニアは全国から集まるほどだという。都営地下鉄大江戸線落合南長崎駅の広告には「道灌招ぎ猫供養地蔵尊、猫面地蔵尊 秘仏につき、お開帳は、節分会当日です。」としっかりPRしていた。そしてシンボルの招き猫石像は境内にではなく車道からよく見えるように配置している。しっかりと小判を抱いており御利益を期待したくなるというもの。節分の日には商店会も協力して猫パレードもある。とにかく来年の節分には秘仏を拝みにきてみたい。境内には猫も現れず、ついでに哲学堂公園をめぐったがここでもお姿なし。猫探しもこれでは意気上がらず、池袋行きのバスに乗った。

真言宗豊山派の寺院で西光山自性院無量寺といい、秘仏「猫地蔵」を安置し、ねこ寺として有名。 寺伝によると弘法大師空海が日光山に参詣の途中で観音を供養したのが自性院の草創といい、また葛大納言経信が東下りして当地に身をかくし、朝夕当院の観音・阿弥陀を信仰したとも伝えられている。 猫地蔵の縁起は、文明9年(1477)に豊島左衛門尉と太田道灌が江古田ヶ原で合戦した折に、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救ったため、猫の死後に地蔵像を造り奉納したのが起こりという話が伝えられている。また、江戸時代の明和4年(1767)に貞女として名高かった金坂八郎治の妻(覧操院孝室守心大姉)のために、牛込神楽坂の鮱屋弥平が猫面の地蔵像を石に刻んで奉納しており、猫面地蔵と呼ばれている。二体とも秘仏となっており、毎年二月の節分の日だけ開帳されている。 毎年二月三日の午後に行われる節分会は、七福神の扮装姿の信徒らの長い行列が町内を練り歩く珍しいもので、秘仏開帳とあわせ、参詣客で賑わう。                     (『ガイドブック新宿区の文化財』新宿区教育委員会)

地下鉄駅でもしっかり猫地蔵尊をPR

自性院・猫地蔵堂入り口の招き猫

正面左奥に猫地蔵堂がある

境内にある稲荷神社の不気味な石の顔

自性院山門

哲学堂公園の妖怪門 

2010年11月15日

永久寺の山猫めをと塚(台東区谷中)

猫好き・仮名垣魯文の菩提寺・永久寺へ

 前回の谷中散策でとりこぼした曹洞宗興福山永久寺(台東区谷中4の2の37)へ行く。明治時代の新聞記者・戯作者であり猫好きとしても知られる仮名垣魯文の菩提寺であり、山猫めをと塚をはじめ、猫塔記念碑、猫塚碑など猫史跡フリークには見逃せないところである。

榎本武揚から譲られた山猫の供養塚

11月14日 日暮里駅からもみじ坂経由で三崎坂へ。通りに面した永久寺の山門を入ってすぐの本堂右に山猫めおと塚と猫塔記念碑、右手には猫塚碑が建っている。写真では何度も見たことがあるので、初めてという気がしない。それでも細かいところは間近で観察しないといけない。
山猫めを登塚(左)と猫塔記念碑

 山猫めをと塚(正確には「山猫めを登塚」)は、魯文の飼っていた雌雄の山猫を供養する碑である。『猫の歴史と奇話』(平岩米吉著)によると、雌雄の山猫を魯文に譲ったのは当時海軍卿の榎本武揚であった。その山猫とは欝陵島(竹島とされているのは誤り)で捕らえられたらしい。榎本が塚石を建てたのは、贈って約1年後に亡くなった山猫を惜しんでのことだった。表に福地桜痴の碑文(明治十四年十月建 山猫めを登塚 桜痴居士源喜)が刻されている。裏面には「榎本武揚君嘗賜雌雄山猫于猫々道人魯翁 該猫病而斃標石一基 卿表追悼之意 嗚呼」とあり、遊食連(呑み食い友達?)として竹内久一以下16名が列記されている。なお、本堂には魯文の本箱の扉に描かれた「山猫の写生図」(大蘇芳年画)が掲げられているというから興味深い。

魯文は元祖・猫グッズマニア

 平岩によると、魯文は猫の書画玩具収集には目がないが、猫の飼育には不慣れで贈られた山猫はましてや野生猫であったから、飼い始めて約1年の短命に終わったのだと。面白いのは、明治14年10月4日付「仮名読新聞」(魯文主宰)に、「10月16日に山猫の追善法会施行」の広告を載せているが、その機会に収集した猫グッズを陳列して見せたのだろうという。それらの猫グッズが現在もどこかに保存されているのだとしたら是非見てみたいものだ。

山猫めをと塚
 山猫めをと塚の隣に立つ猫塔記念碑は明治11年開催の「珍猫百覧会」の収益で建てたのだという。珍猫百覧会とは今でいう猫グッズ展だというから、昔も猫モノ人気は高かったのか。丸穴から中をのぞくと眠り猫の像が見えるという、なかなか凝った猫塔である。さすが猫々道人(みょうみょうどうじん)を名乗るだけの猫好きだ。

猫塔記念碑の中には眠り猫が
 猫塚碑に刻まれた成島柳北撰文の文字は細かくて読みとれないが、線彫りされた猫の顔は目立つ。よく見ると目、鼻、口を「魯」の字形にしてある。この碑は、もともと谷中霊園にある高橋お伝の墓の近くにあったもの。本当のお伝の墓は南千住回向院にあるが、谷中霊園の墓は『高橋阿伝夜叉譚』を書いた魯文や歌舞伎役者らが伝三回忌に建てた。お伝ネタで得た収入を充てたものだ。正岡子規は「猫の塚お伝の塚や木下闇」と詠んでいる。
 
猫塚碑

猫塚碑に線彫りされた猫の顔
 魯文の墓は、墓地入り口すぐのところ。墓石には、聖観音を線刻した板碑(13〜16世紀頃に追善のため造られた供養塔)がはめ込まれている。側面には「遺言本来空 財産無一物 俗名 假名垣魯文」と刻まれている。
魯文の墓
 さて、今日の目的は果たしたので、猫探し歩きに切り替える。同じ通りの本通寺をのぞくと墓猫どもがいるわいるわ。猫喫茶?「乱歩」でコーヒータイムとするがナマ猫はいなかった。曲がりくねったへび道(旧藍染川)には猫がいそうとにらんだが見つからず。あかじ坂を登りきって右折。三浦坂のねんねこ家をちらりと見て行きかかるがぐっとこらえて宗善寺、延寿寺へと回る。大きなヒマラヤ杉の下、駄菓子屋風のみかどパン屋で菓子を買う。ひも付きの店番猫がいた。大きい黒猫で「かなりのお年でしょ」と店番のおばあちゃんに聞くと、まだ1歳だとのこと。日暮れが迫り先を急ぐ。改修休館中(平成25年3月まで)の朝倉彫塑館〜夕やけだんだん〜六阿弥陀道〜道灌山通りと抜けて西日暮里駅で終了。
墓猫ども(本通寺)

ひも付き店番猫(みかどパン店)

つかまえた!(朝倉彫塑館近くの路地)

2010年11月13日

猫又坂〜護国寺(文京区)

狸が手拭い被って踊る

 猫又坂(文京区千石)という怪しい名称にひかれた。この場合の猫又は猫の化け物ではなく狸で、手拭いを被って踊るところなど猫のお株が奪われてしまっている。

 11月13日 都営地下鉄三田線千石駅から不忍通りへ出る。不忍通りの千石二丁目(左側)と千石三丁目(右側)の間の坂を猫又坂という。小石川教会付近から下り坂となる。千石通りとの交差点で下りきるが、長くわりと勾配のある坂であった。下りきる手前左側(千石二丁目)にかつて千川にかかっていた猫又橋の袖石2基が史跡として残っている。道をはさんだ向かいには「猫又橋際公衆便所」(千石3丁目13番14号)がある。「猫又橋」を表示する貴重な施設である。「猫又橋際」と名付けられたということは、猫又橋がまだ撤去される前(昭和初期)に設置された歴史ある公衆便所かもしれない。

勾配のある猫又坂を下っていく
猫又橋の袖石は史跡として保存されている
猫又橋際公衆便所
猫又坂(猫貍坂、猫股坂)
 不忍通りが千石谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正11年(1922)頃開通したが昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。
 また、『続江戸砂子』には次のような話がのっている。
 むかし、この辺りに狸がいて、夜な夜な赤手拭をかぶって踊るという話があった。ある時、若い僧が、食事に招かれての帰り、夕暮れどき、すすきの茂る中を、白い獣が追ってくるので、すわっ、狸かと、あわてて逃げて千川にはまった。そこから、狸橋、猫貍橋、猫又橋と呼ばれるようになった。猫貍とは妖怪の一種である。         文京区教育委員会

猫又橋の袖石2基の残されている
   猫又橋 親柱の袖石
 この坂下に もと千川(小石川とも)が流れていた。むかし、木の根っ子の股で橋をかけたので、 根子股橋と呼ばれた。
 江戸の古い橋で、 伝説的に有名であった。このあたりに、狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある夕暮れ時、大塚辺の道心者(少年僧)がこの橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かとあわてて逃げて千川にはまった。それから、この橋は、 猫貍橋(猫又橋)といわれるようになった。 猫貍は妖怪の一種である。
 昭和のはじめまでは、この川でどじょうを取り、ホタルを追って稲田(千川たんぼ)に落ちたなど、古老がのどかな田園風景を語っている。
 大正7年3月この橋は、立派な石を用いたコンクリート造となった。ところが千川はたびたび増水して大きな水害をおこした。 それで昭和9年千川は暗渠になり、道路の下を通るようになった。
 石造の猫又橋は撤去されたが、地元の故市川虎之助氏(改修工事相談役)はその親柱と袖石を東京市と交渉して自宅に移した。ここにあるのは、袖石の内2基で、千川名残りの猫又橋を伝える記念すべきものである。なお、袖石に刻まれた歌は故市川虎之助氏の作で、同氏が刻んだものである。
  騒がしき蛙は土に埋もれぬ 人にしあれば 如何に恨まん
                      文京区教育委員会   昭和58年1月 

 もうひつとつの袖石(左側)に刻まれた歌はよく判読できない部分もあるのだが、次のような歌である。これら二首の歌は、橋の架けられた大正7年当時を懐かしんで詠んだもので、千川が暗渠になり猫又橋が撤去された昭和9年以降に刻まれたものである。

   長閑なる氷川の里は戀しくも かはり行く世に逢ふよしもなし

 交差点から坂を見ると千石二丁目側のマンションに上がる道が猫又坂と平行して上がっている。これは旧猫又坂の一部であると思われる。戻ってこの道を上がって交差方面を眺めるとかなりの傾斜であることが分かる。

旧猫又坂から交差点方面

猫又坂を下りきった交差点から猫又坂
 不忍通りをそのまま進み、富士見坂を下っていくと豊島ヶ丘御陵、そして護国寺正門である。猫が寝っ転がっているのが見えたので境内に入る。白黒ブチ猫に近づくと毛並みもよく、遊んでもらおうと寄ってきた。お相手していると、子連れ親子がやってきた。猫は子どもの気配を感じて車の下に避難してしまった。

あそぼーあそぼー
ではお言葉に甘えまして
 本坊前を通って不老門の石段を上がる。本堂前では護国寺骨董市が店じまいしはじめていた(毎月第二土曜日開催)。なぜかアイゼンやワッパを並べている店もあった。本堂は元禄10(1697)年建立の重要文化財である。裏手の墓地に行ってみると花屋の猫がいた。あれ、さっきの猫とウリ二つだ。正門まで300mは離れているから別猫だろうが、血筋は同じなのかもしれない。あとで調べてみると墓地には三条実美、大隈重信、山縣有朋、團伊玖磨、中村天風、梶原一騎、大山倍達ら多くの著名人が眠っている。


元禄10年建立の護国寺本堂

護国寺花屋三枝の花猫(墓地入り口)

 



2010年11月7日

漱石公園の猫塚(新宿区早稲田南町)〜三光稲荷(中央区日本橋堀留町)〜今戸神社(台東区今戸)

 昨日に続き都内文化財ウオーク。出かける当日に地図を眺めながら効率よく回る順番を考える。地下鉄利用で高田馬場起点に西から東へ移動することにした。

漱石公園(新宿区早稲田南町)

 地下鉄東西線早稲田駅から徒歩10分のところ。途中の早稲田小学校はなかなかレトロな建物である。漱石公園(新宿区指定史跡)は夏目漱石終焉の地につくられた。案内板によると、晩年の明治40年9月29日から大正5年12月9日に死去するまで住んだところで「漱石山房」と呼んでいた。この地で発表されたのは「坑夫」「三四郎」「それから」「門」などの代表作で、「明暗」執筆の半ばに世を去った。通称「猫塚」と呼ばれている石塔は「我が輩は猫である」の猫の墓と勘違いする人がいるがそうではない。漱石没後に遺族が飼っていた犬や猫、小鳥の供養のために建てたもので、昭和28年の漱石の命日にここに復元されたものだという。11段の石積みだが、犬、猫など11匹飼っていたということだろうか。

公園入り口の漱石胸像
復元された猫塚
 公園正面奥の道草庵という建物には漱石山房の見取り図がある。また、入り口左手に山房のベランダだけが中途半端に復元されているが、山房そのものの復元も新宿区によって検討されているようだ。なお誕生の地も早稲田駅近くの喜久井町(当時は牛込馬場下横町)にあり、これらゆかりの地を結ぶ「漱石の散歩道」コースがある。

漱石山房の見取り図が展示してある道草庵

三光稲荷神社(中央区日本橋堀留町)

 次に向かったのは日本橋堀留町の三光稲荷。芸妓が招き猫をよく奉納した神社だという。日比谷線人形町駅下車。ビジネス街の谷間にある神社なので迷うかもと思っていたが、人形町交差点から日本橋小伝馬町方面へ150mもいくと三光稲荷参道入り口があった。参道といっても薄暗い路地で20m先に立派な狛犬が出迎えてくれる。由来には『古くから娘、子供、芸妓等の参詣する者が多く、ことに猫を見失ったとき立願すれば霊験ありと云う。「三光稲荷神社参道」と銘ある石碑や境内にある猫の置物は猫が無事に帰った御礼に建立、奉納された。』とある。左に隣接する社務所脇のボックスに招き猫が30ほど奉納されていた。

裏通りからの参道と三光稲荷
三光稲荷神社
奉納された招き猫
今戸神社(台東区今戸)

 きょう最後に向かうのは、浅草の今戸神社。豪徳寺と並ぶ招き猫発祥の地として有名だ。日比谷線浅草駅で降りると、やはりスカイツリー効果なのか隅田川沿いは観光客でいっぱい。隅田川と平行する江戸通りを進み約20分で今戸神社に着く。入り口には「沖田総司終焉の地」とある。沖田らが江戸に引き上げたのち、薩長軍が江戸入りする際に今戸八幡(後に今戸神社と改称)に移り療養していたのだという。境内に入ると良縁祈願の女子だらけで、送迎バスまで出ている。縁結びのパワースポットとして大人気らしい。招き猫の絵馬も飛ぶように売れていた。

右手上げの大招きが社殿に鎮座
パワースポットらしい
招き猫のひな壇
 帰りは隅田川に沿ってスカイツリーを眺めながら猫さがし歩きしていく。隅田公園一帯は痩せた野良が多く絵になる猫は少ない。猫おばさんが数人、野良トラを前に「対策会議?」をしていた。終着点近くの水上バス乗り場近くで、ようやく愛想の良い猫に出会えた。

あいさつしてくれた隅田公園の猫

2010年11月6日

両国・回向院の猫塚

 土曜午前中はヤボ用で家を空けられず、午後からの徘徊。都内の気楽な猫史跡めぐりシリーズとして、両国・回向院(東京都墨田区両国2-8-10)の猫塚へと向かう。

 両国駅から南へ5分、回向院はすぐのところだ。山門も本堂も現代風である。古い石碑が目立つ。荘厳な犬猫供養堂が高く目立つ。鳥やウサギなどさまざまなペット供養で訪れる人が絶えないようだ。

 本堂左へ回っていくと何やら人だかりがあり、数人が墓石を囲んでしきりにガリガリと削っている。鼠小僧次郎吉の墓で、見れば墓石とは別の「欠き石」というものだそうだ。石粉を合格祈願の御守りとしたり、金運上昇のため財布に入れておく。石が削られ尽くすと新しい欠き石が奉納され続けてきたという。

 猫塚は、堂々たる鼠小僧の墓の向かって右隣にあったが、現在は左側にガラス張り小屋囲いの中へ移されている。欠き石と間違えられ「ネズミ」人間にかじられないようにということか。鼠の脇で小さくなっている猫が不憫に思えた。

右側は鼠小僧次郎吉の墓の一部

 猫塚の由来は、説明板によると文化13(1816)年建立とあり、その後文政期(1818〜1829年)に猫の恩返し(俗にいう猫に小判)の話に結びつけられて今に伝わるのだとされる。
猫の恩返し(猫塚)
 猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売できなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。
 ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両をくわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。
 江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。
                   ぶらり両国街かど展実行委員会
 各物語に共通しているのは、文化13年(猫塚建立年)のこと、命日が3月11日であること。飼い主は、時田半治郎や時田喜三郎、あるいは福島屋清右衛門だったりする。「猫定」という落語にも登場し、飼い主が定吉だから猫の名は「猫定」。住んでいるところは、日本橋、深川、両替町、神田川のほとり、八丁堀玉子屋新道などといろいろだ。物語中の主人とは違って、猫塚の台座には木下伊之助(あるいは由之助)と実際の建立者名が刻まれている。この人も魚屋だったのだろうか。

 鼠小僧次郎吉の墓は、群がる「石欠きネズミ」らがじゃまで撮影できず。なぜか薄幸な人々に見えた。石粉で財布をパンパンにしなさい!

 さて、両国界隈は見所が多いので巡り歩こう。かつての両国国技館は回向院の敷地内にあった(自分には日大講堂としての記憶が強い)。今は山門の左手に建つ複合ビル施設となっている。中庭スペースに土俵の位置を示す金属環が埋め込まれているが、その上にたくさんの自転車が無造作に止められていて興ざめ。

 吉良邸跡、勝海舟生誕の地、両国小学校の芥川龍之介文学碑及び芥川生誕地と回る。さらに総武線をくぐって、旧安田庭園へ。庭園の向こうにそびえる東京スカイツリーの眺めが新鮮。

 もうひとついでに東京都慰霊堂まで足を伸ばす。閉館まで残り10分だが、駆け込み拝観。暮れかかるなか、江戸東京博物館を抜けて両国駅に戻る。

2010年10月24日

磐梯山麓の猫石

 磐梯山麓に点在する三つの猫石を巡り歩いた。

 まずは猪苗代国際スキー場付近にある「渋谷の猫石」から。猪苗代駅から五色沼方面行きバスに乗り国際スキー場入口で下車。スキー場への道から観光ホテルの手前で右に入る。北へ向かう道はやがて、学校施設の跡地に至る。建物はすでになく、草の生い茂った広場となっている。車はここまで入れそう。

 その先さらに進みながら、右下斜面にあるはずの猫石を探す。十数分歩いて行くが、それらしき石は見当たらない。点在するいくつかの石はあるが、とても猫石と呼べるものではない。来た道を引き返し、杉林の斜面をヤブをかきわけながら目を凝らす。

 もう学校施設跡に戻り着くという手前左下に祠を見つける。これだ。猫の背にあたる部分で、その先が大きな岩となって切れ落ち、耳部分の石も二つ乗っかっている。右から回り込んで降りてみる。なるほど苦悶に口元をゆがませたカエルのような猫がいた。高さは3〜4m。

口をゆがめた苦悶の表情が見てとれる猫石


 祠の左側面に「石工 鈴木文三郎 明治24年」、右側面には渋谷村中の幾人かの奉納者名が刻まれていた。

 伝説によると、磐梯山噴火の時、夫婦猫が山から逃げてきたが、女猫は長瀬川を越せず渋谷あたりで力尽き、男猫は川を渡って白木城の近くまで辿り着いて果てた。渋谷の石を女猫石、白木城のを男猫石という。

 また、男猫は白木城まで逃げ生きながらえたともあり、養蚕の盛んな時代はネズミ除けの赤猫大明神としてお祭も賑わったという。(参考「猪苗代の字名の由来」「猪苗代町史 民俗編」)

 そこで、次は男猫の猫石である「赤猫大明神」へと向かう。これを探すのは少しやっかいだ。気を引き締める。交通量の多い県道459号線を沼の倉の手前まで戻り、沼の倉大橋で長瀬川を渡って、今度は国道115号を北上する。この道も磐梯吾妻スカイラインに向かうので、紅葉狩りの車がうるさい。

 猫石は、伯父ヶ倉の集落を過ぎた左手の杉林の中にあるとにらんでいた。閉鎖した電機会社の建物付近は猫塚というらしいので、このあたりを行ったり来たり。切り開きに大きな石が無造作に集められて積み上げられていた。もしや電機会社の建物を造る際に取り除かれたという不安も。しかし、信仰の対象となった猫石を壊すことはないはず。もう一度電機会社の左手から裏に回り込んで川沿いに暗い杉林を探す。

 キョロキョロしながら歩いていたら、ツルに足を取られて思いっきりころんだ。やれやれと顔を上げたら巨大な岩が・・。その下に赤い立派な祠が鎮座している。まさに赤猫大明神様である。中には「奉齋 猫石神社」と書かれた木札が見える。渋谷の猫石より一回り大きい。岩の高さは約6m。土を被った頂上まで登ってみると8mはありそう。大木が何本か絡みつくように生えていて迫力がある。

赤い祠が決め手の赤猫大明神
猫石は国道から横道に入り奥左。向こうは磐梯山

 石の右裏手から杉林を抜け出たところは、カンナ屑の捨て場となっている広場で、隣接する畑脇の道を国道に出ることができる。「渋谷の猫石」とは長瀬川をはさんで、直線距離でわずか1.2キロほど。石と化した無念の夫婦猫が、互いを見守るように対座している。

 残るは「土町(はにまち)の猫石」。こちらは、磐梯山災死者招魂碑が石上に建てられているという情報はつかんでいる。2万5千図にも記載されている碑がおそらくそれであろうと確信していた。

 猪苗代スキー場方面へぐるっと磐梯山麓の南東を回り込んでいく。磐梯山を眺めつつ、晩秋のほどよい冷気を感じて歩くのは楽しい。車なんぞでは味わえない郷愁である。途中、「見祢の大石」という噴火で押し出されてきた大石(国の天然記念物)も見たかったが次の機会に回そう。

土町の猫石に建つのは磐梯山災死者招魂碑

 土町では目当ての碑はあっさりと確認できた。確かに大きな平らな石の上に招魂碑が建っている。町中の四つ角なので風情というものはない。近くで草刈りをしていたおばさんに確認する。土津神社脇からスキー場に至るあたりを「猫石山」といい、その由来がこの猫石だろうと言っていた。薦められて立派な土津(はにつ)神社を見学後、猫石山あたりの道も歩いてみたが、両脇に別荘が建つのみ。

 土町の猫石は、昔多くの猫が群がって日向ぼっこをして岩の上で眠ったと伝えられる。(参考:「猪苗代町史 歴史編」)


 帰りは、猪苗代駅まで歩くついでにふるさと歴史館に立ち寄って資料を漁り、充実した一日を終えた。