両国駅から南へ5分、回向院はすぐのところだ。山門も本堂も現代風である。古い石碑が目立つ。荘厳な犬猫供養堂が高く目立つ。鳥やウサギなどさまざまなペット供養で訪れる人が絶えないようだ。
本堂左へ回っていくと何やら人だかりがあり、数人が墓石を囲んでしきりにガリガリと削っている。鼠小僧次郎吉の墓で、見れば墓石とは別の「欠き石」というものだそうだ。石粉を合格祈願の御守りとしたり、金運上昇のため財布に入れておく。石が削られ尽くすと新しい欠き石が奉納され続けてきたという。
猫塚は、堂々たる鼠小僧の墓の向かって右隣にあったが、現在は左側にガラス張り小屋囲いの中へ移されている。欠き石と間違えられ「ネズミ」人間にかじられないようにということか。鼠の脇で小さくなっている猫が不憫に思えた。
右側は鼠小僧次郎吉の墓の一部 |
猫塚の由来は、説明板によると文化13(1816)年建立とあり、その後文政期(1818〜1829年)に猫の恩返し(俗にいう猫に小判)の話に結びつけられて今に伝わるのだとされる。
各物語に共通しているのは、文化13年(猫塚建立年)のこと、命日が3月11日であること。飼い主は、時田半治郎や時田喜三郎、あるいは福島屋清右衛門だったりする。「猫定」という落語にも登場し、飼い主が定吉だから猫の名は「猫定」。住んでいるところは、日本橋、深川、両替町、神田川のほとり、八丁堀玉子屋新道などといろいろだ。物語中の主人とは違って、猫塚の台座には木下伊之助(あるいは由之助)と実際の建立者名が刻まれている。この人も魚屋だったのだろうか。猫の恩返し(猫塚)猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売できなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両をくわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。ぶらり両国街かど展実行委員会
鼠小僧次郎吉の墓は、群がる「石欠きネズミ」らがじゃまで撮影できず。なぜか薄幸な人々に見えた。石粉で財布をパンパンにしなさい!
さて、両国界隈は見所が多いので巡り歩こう。かつての両国国技館は回向院の敷地内にあった(自分には日大講堂としての記憶が強い)。今は山門の左手に建つ複合ビル施設となっている。中庭スペースに土俵の位置を示す金属環が埋め込まれているが、その上にたくさんの自転車が無造作に止められていて興ざめ。
吉良邸跡、勝海舟生誕の地、両国小学校の芥川龍之介文学碑及び芥川生誕地と回る。さらに総武線をくぐって、旧安田庭園へ。庭園の向こうにそびえる東京スカイツリーの眺めが新鮮。
もうひとついでに東京都慰霊堂まで足を伸ばす。閉館まで残り10分だが、駆け込み拝観。暮れかかるなか、江戸東京博物館を抜けて両国駅に戻る。