狸が手拭い被って踊る
猫又坂(文京区千石)という怪しい名称にひかれた。この場合の猫又は猫の化け物ではなく狸で、手拭いを被って踊るところなど猫のお株が奪われてしまっている。
11月13日 都営地下鉄三田線千石駅から不忍通りへ出る。不忍通りの千石二丁目(左側)と千石三丁目(右側)の間の坂を猫又坂という。小石川教会付近から下り坂となる。千石通りとの交差点で下りきるが、長くわりと勾配のある坂であった。下りきる手前左側(千石二丁目)にかつて千川にかかっていた猫又橋の袖石2基が史跡として残っている。道をはさんだ向かいには「猫又橋際公衆便所」(
千石3丁目13番14号)がある。「猫又橋」を表示する貴重な施設である。「猫又橋際」と名付けられたということは、猫又橋がまだ撤去される前(昭和初期)に設置された歴史ある公衆便所かもしれない。
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勾配のある猫又坂を下っていく |
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猫又橋の袖石は史跡として保存されている |
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猫又橋際公衆便所 |
猫又坂(猫貍坂、猫股坂)
不忍通りが千石谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正11年(1922)頃開通したが昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。
また、『続江戸砂子』には次のような話がのっている。
むかし、この辺りに狸がいて、夜な夜な赤手拭をかぶって踊るという話があった。ある時、若い僧が、食事に招かれての帰り、夕暮れどき、すすきの茂る中を、白い獣が追ってくるので、すわっ、狸かと、あわてて逃げて千川にはまった。そこから、狸橋、猫貍橋、猫又橋と呼ばれるようになった。猫貍とは妖怪の一種である。 文京区教育委員会
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猫又橋の袖石2基の残されている |
猫又橋 親柱の袖石
この坂下に もと千川(小石川とも)が流れていた。むかし、木の根っ子の股で橋をかけたので、 根子股橋と呼ばれた。
江戸の古い橋で、 伝説的に有名であった。このあたりに、狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある夕暮れ時、大塚辺の道心者(少年僧)がこの橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かとあわてて逃げて千川にはまった。それから、この橋は、 猫貍橋(猫又橋)といわれるようになった。 猫貍は妖怪の一種である。
昭和のはじめまでは、この川でどじょうを取り、ホタルを追って稲田(千川たんぼ)に落ちたなど、古老がのどかな田園風景を語っている。
大正7年3月この橋は、立派な石を用いたコンクリート造となった。ところが千川はたびたび増水して大きな水害をおこした。 それで昭和9年千川は暗渠になり、道路の下を通るようになった。
石造の猫又橋は撤去されたが、地元の故市川虎之助氏(改修工事相談役)はその親柱と袖石を東京市と交渉して自宅に移した。ここにあるのは、袖石の内2基で、千川名残りの猫又橋を伝える記念すべきものである。なお、袖石に刻まれた歌は故市川虎之助氏の作で、同氏が刻んだものである。
騒がしき蛙は土に埋もれぬ 人にしあれば 如何に恨まん
文京区教育委員会 昭和58年1月
もうひつとつの袖石(左側)に刻まれた歌はよく判読できない部分もあるのだが、次のような歌である。これら二首の歌は、橋の架けられた大正7年当時を懐かしんで詠んだもので、千川が暗渠になり猫又橋が撤去された昭和9年以降に刻まれたものである。
長閑なる氷川の里は戀しくも かはり行く世に逢ふよしもなし
交差点から坂を見ると千石二丁目側のマンションに上がる道が猫又坂と平行して上がっている。これは旧猫又坂の一部であると思われる。戻ってこの道を上がって交差方面を眺めるとかなりの傾斜であることが分かる。
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旧猫又坂から交差点方面 |
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猫又坂を下りきった交差点から猫又坂 |
不忍通りをそのまま進み、富士見坂を下っていくと豊島ヶ丘御陵、そして護国寺正門である。猫が寝っ転がっているのが見えたので境内に入る。白黒ブチ猫に近づくと毛並みもよく、遊んでもらおうと寄ってきた。お相手していると、子連れ親子がやってきた。猫は子どもの気配を感じて車の下に避難してしまった。
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あそぼーあそぼー |
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ではお言葉に甘えまして |
本坊前を通って不老門の石段を上がる。本堂前では護国寺骨董市が店じまいしはじめていた(毎月第二土曜日開催)。なぜかアイゼンやワッパを並べている店もあった。本堂は元禄10(1697)年建立の重要文化財である。裏手の墓地に行ってみると花屋の猫がいた。あれ、さっきの猫とウリ二つだ。正門まで300mは離れているから別猫だろうが、血筋は同じなのかもしれない。あとで調べてみると墓地には三条実美、大隈重信、山縣有朋、團伊玖磨、中村天風、梶原一騎、大山倍達ら多くの著名人が眠っている。
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元禄10年建立の護国寺本堂 |
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護国寺花屋三枝の花猫(墓地入り口) |