宮沢賢治が、大の猫嫌いだったことを知る人は少ない。まず、「猫」と題する次の短編を読んでほしい。知らなかった人は、びっくりするかもしれない。
(四月の夜、とし老った猫が)
友達のうちのあまり明るくない電燈の向こふにその年とった猫がしづかに顔を出した。
(アンデルセンの猫を知ってゐますか。暗闇で毛を逆立ててパチパチ火花を出すアンデルセンの猫を)
実になめらかによるの気圏の底を猫が滑ってやって来る。
(私は猫は大嫌ひです。猫のからだの中を考へると吐き出しさうになります)
猫は停ってすわって前あしでからだをこする。見てゐるとつめたいそして底知れない変なものが猫の毛皮を網になって覆ひ、猫はその網糸を延ばして毛皮一面に張ってゐるのだ。
(毛皮といふものは厭なもんだ。毛皮を考へると私は変に苦笑ひしたくなる。陰電気のためかも知れない)
猫は立ちあがりからだをうんと延ばしかすかにかすかにミウと鳴きするりと暗の中へ流れていった。
(どう考へても私は猫は厭ですよ)
大正8(1919)年5月、賢治23歳のときの作品である(翌年5月改稿)。この短編を読む限り、異常なほどの猫嫌悪症をみてとれるが、ここまで賢治に書かせた原因や経緯は知る由もない。
自分は、童話『どんぐりと山猫』や『注文の多い料理店』『猫の事務所』に登場する山猫や猫どもに親しみを覚えてきたから、賢治の猫嫌いには驚いたものだ。
『猫』を読んでから、山猫が象徴するのは自然であり、あるいは畏怖の対象であろうという解釈は、何となく分かる気がする。
かつて『銀河鉄道の夜』がアニメ映画化されたとき、ジョバンニとカムパネルラの少年たちが猫に描かれたのも、賢治童話の理解に猫がわかりやすいキャラクターとして採用されたのだろうと思う。
あれが犬だったら、自分はたぶん映画館に足を運ばなかっただろうし、公開記念の猫バッジをもらうために、1時間も前から受付に並ばなかったはずだ。『猫』という短編を知ったのは、それからずっと後だったが、賢治という人の不可解な一面を垣間見た気がする。
「世界が全体幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と言い放った賢治のアキレス腱が、猫だったとは皮肉なものですね。