2010年11月15日

永久寺の山猫めをと塚(台東区谷中)

猫好き・仮名垣魯文の菩提寺・永久寺へ

 前回の谷中散策でとりこぼした曹洞宗興福山永久寺(台東区谷中4の2の37)へ行く。明治時代の新聞記者・戯作者であり猫好きとしても知られる仮名垣魯文の菩提寺であり、山猫めをと塚をはじめ、猫塔記念碑、猫塚碑など猫史跡フリークには見逃せないところである。

榎本武揚から譲られた山猫の供養塚

11月14日 日暮里駅からもみじ坂経由で三崎坂へ。通りに面した永久寺の山門を入ってすぐの本堂右に山猫めおと塚と猫塔記念碑、右手には猫塚碑が建っている。写真では何度も見たことがあるので、初めてという気がしない。それでも細かいところは間近で観察しないといけない。
山猫めを登塚(左)と猫塔記念碑

 山猫めをと塚(正確には「山猫めを登塚」)は、魯文の飼っていた雌雄の山猫を供養する碑である。『猫の歴史と奇話』(平岩米吉著)によると、雌雄の山猫を魯文に譲ったのは当時海軍卿の榎本武揚であった。その山猫とは欝陵島(竹島とされているのは誤り)で捕らえられたらしい。榎本が塚石を建てたのは、贈って約1年後に亡くなった山猫を惜しんでのことだった。表に福地桜痴の碑文(明治十四年十月建 山猫めを登塚 桜痴居士源喜)が刻されている。裏面には「榎本武揚君嘗賜雌雄山猫于猫々道人魯翁 該猫病而斃標石一基 卿表追悼之意 嗚呼」とあり、遊食連(呑み食い友達?)として竹内久一以下16名が列記されている。なお、本堂には魯文の本箱の扉に描かれた「山猫の写生図」(大蘇芳年画)が掲げられているというから興味深い。

魯文は元祖・猫グッズマニア

 平岩によると、魯文は猫の書画玩具収集には目がないが、猫の飼育には不慣れで贈られた山猫はましてや野生猫であったから、飼い始めて約1年の短命に終わったのだと。面白いのは、明治14年10月4日付「仮名読新聞」(魯文主宰)に、「10月16日に山猫の追善法会施行」の広告を載せているが、その機会に収集した猫グッズを陳列して見せたのだろうという。それらの猫グッズが現在もどこかに保存されているのだとしたら是非見てみたいものだ。

山猫めをと塚
 山猫めをと塚の隣に立つ猫塔記念碑は明治11年開催の「珍猫百覧会」の収益で建てたのだという。珍猫百覧会とは今でいう猫グッズ展だというから、昔も猫モノ人気は高かったのか。丸穴から中をのぞくと眠り猫の像が見えるという、なかなか凝った猫塔である。さすが猫々道人(みょうみょうどうじん)を名乗るだけの猫好きだ。

猫塔記念碑の中には眠り猫が
 猫塚碑に刻まれた成島柳北撰文の文字は細かくて読みとれないが、線彫りされた猫の顔は目立つ。よく見ると目、鼻、口を「魯」の字形にしてある。この碑は、もともと谷中霊園にある高橋お伝の墓の近くにあったもの。本当のお伝の墓は南千住回向院にあるが、谷中霊園の墓は『高橋阿伝夜叉譚』を書いた魯文や歌舞伎役者らが伝三回忌に建てた。お伝ネタで得た収入を充てたものだ。正岡子規は「猫の塚お伝の塚や木下闇」と詠んでいる。
 
猫塚碑

猫塚碑に線彫りされた猫の顔
 魯文の墓は、墓地入り口すぐのところ。墓石には、聖観音を線刻した板碑(13〜16世紀頃に追善のため造られた供養塔)がはめ込まれている。側面には「遺言本来空 財産無一物 俗名 假名垣魯文」と刻まれている。
魯文の墓
 さて、今日の目的は果たしたので、猫探し歩きに切り替える。同じ通りの本通寺をのぞくと墓猫どもがいるわいるわ。猫喫茶?「乱歩」でコーヒータイムとするがナマ猫はいなかった。曲がりくねったへび道(旧藍染川)には猫がいそうとにらんだが見つからず。あかじ坂を登りきって右折。三浦坂のねんねこ家をちらりと見て行きかかるがぐっとこらえて宗善寺、延寿寺へと回る。大きなヒマラヤ杉の下、駄菓子屋風のみかどパン屋で菓子を買う。ひも付きの店番猫がいた。大きい黒猫で「かなりのお年でしょ」と店番のおばあちゃんに聞くと、まだ1歳だとのこと。日暮れが迫り先を急ぐ。改修休館中(平成25年3月まで)の朝倉彫塑館〜夕やけだんだん〜六阿弥陀道〜道灌山通りと抜けて西日暮里駅で終了。
墓猫ども(本通寺)

ひも付き店番猫(みかどパン店)

つかまえた!(朝倉彫塑館近くの路地)

2010年11月13日

猫又坂〜護国寺(文京区)

狸が手拭い被って踊る

 猫又坂(文京区千石)という怪しい名称にひかれた。この場合の猫又は猫の化け物ではなく狸で、手拭いを被って踊るところなど猫のお株が奪われてしまっている。

 11月13日 都営地下鉄三田線千石駅から不忍通りへ出る。不忍通りの千石二丁目(左側)と千石三丁目(右側)の間の坂を猫又坂という。小石川教会付近から下り坂となる。千石通りとの交差点で下りきるが、長くわりと勾配のある坂であった。下りきる手前左側(千石二丁目)にかつて千川にかかっていた猫又橋の袖石2基が史跡として残っている。道をはさんだ向かいには「猫又橋際公衆便所」(千石3丁目13番14号)がある。「猫又橋」を表示する貴重な施設である。「猫又橋際」と名付けられたということは、猫又橋がまだ撤去される前(昭和初期)に設置された歴史ある公衆便所かもしれない。

勾配のある猫又坂を下っていく
猫又橋の袖石は史跡として保存されている
猫又橋際公衆便所
猫又坂(猫貍坂、猫股坂)
 不忍通りが千石谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正11年(1922)頃開通したが昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。
 また、『続江戸砂子』には次のような話がのっている。
 むかし、この辺りに狸がいて、夜な夜な赤手拭をかぶって踊るという話があった。ある時、若い僧が、食事に招かれての帰り、夕暮れどき、すすきの茂る中を、白い獣が追ってくるので、すわっ、狸かと、あわてて逃げて千川にはまった。そこから、狸橋、猫貍橋、猫又橋と呼ばれるようになった。猫貍とは妖怪の一種である。         文京区教育委員会

猫又橋の袖石2基の残されている
   猫又橋 親柱の袖石
 この坂下に もと千川(小石川とも)が流れていた。むかし、木の根っ子の股で橋をかけたので、 根子股橋と呼ばれた。
 江戸の古い橋で、 伝説的に有名であった。このあたりに、狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある夕暮れ時、大塚辺の道心者(少年僧)がこの橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かとあわてて逃げて千川にはまった。それから、この橋は、 猫貍橋(猫又橋)といわれるようになった。 猫貍は妖怪の一種である。
 昭和のはじめまでは、この川でどじょうを取り、ホタルを追って稲田(千川たんぼ)に落ちたなど、古老がのどかな田園風景を語っている。
 大正7年3月この橋は、立派な石を用いたコンクリート造となった。ところが千川はたびたび増水して大きな水害をおこした。 それで昭和9年千川は暗渠になり、道路の下を通るようになった。
 石造の猫又橋は撤去されたが、地元の故市川虎之助氏(改修工事相談役)はその親柱と袖石を東京市と交渉して自宅に移した。ここにあるのは、袖石の内2基で、千川名残りの猫又橋を伝える記念すべきものである。なお、袖石に刻まれた歌は故市川虎之助氏の作で、同氏が刻んだものである。
  騒がしき蛙は土に埋もれぬ 人にしあれば 如何に恨まん
                      文京区教育委員会   昭和58年1月 

 もうひつとつの袖石(左側)に刻まれた歌はよく判読できない部分もあるのだが、次のような歌である。これら二首の歌は、橋の架けられた大正7年当時を懐かしんで詠んだもので、千川が暗渠になり猫又橋が撤去された昭和9年以降に刻まれたものである。

   長閑なる氷川の里は戀しくも かはり行く世に逢ふよしもなし

 交差点から坂を見ると千石二丁目側のマンションに上がる道が猫又坂と平行して上がっている。これは旧猫又坂の一部であると思われる。戻ってこの道を上がって交差方面を眺めるとかなりの傾斜であることが分かる。

旧猫又坂から交差点方面

猫又坂を下りきった交差点から猫又坂
 不忍通りをそのまま進み、富士見坂を下っていくと豊島ヶ丘御陵、そして護国寺正門である。猫が寝っ転がっているのが見えたので境内に入る。白黒ブチ猫に近づくと毛並みもよく、遊んでもらおうと寄ってきた。お相手していると、子連れ親子がやってきた。猫は子どもの気配を感じて車の下に避難してしまった。

あそぼーあそぼー
ではお言葉に甘えまして
 本坊前を通って不老門の石段を上がる。本堂前では護国寺骨董市が店じまいしはじめていた(毎月第二土曜日開催)。なぜかアイゼンやワッパを並べている店もあった。本堂は元禄10(1697)年建立の重要文化財である。裏手の墓地に行ってみると花屋の猫がいた。あれ、さっきの猫とウリ二つだ。正門まで300mは離れているから別猫だろうが、血筋は同じなのかもしれない。あとで調べてみると墓地には三条実美、大隈重信、山縣有朋、團伊玖磨、中村天風、梶原一騎、大山倍達ら多くの著名人が眠っている。


元禄10年建立の護国寺本堂

護国寺花屋三枝の花猫(墓地入り口)

 



2010年11月7日

漱石公園の猫塚(新宿区早稲田南町)〜三光稲荷(中央区日本橋堀留町)〜今戸神社(台東区今戸)

 昨日に続き都内文化財ウオーク。出かける当日に地図を眺めながら効率よく回る順番を考える。地下鉄利用で高田馬場起点に西から東へ移動することにした。

漱石公園(新宿区早稲田南町)

 地下鉄東西線早稲田駅から徒歩10分のところ。途中の早稲田小学校はなかなかレトロな建物である。漱石公園(新宿区指定史跡)は夏目漱石終焉の地につくられた。案内板によると、晩年の明治40年9月29日から大正5年12月9日に死去するまで住んだところで「漱石山房」と呼んでいた。この地で発表されたのは「坑夫」「三四郎」「それから」「門」などの代表作で、「明暗」執筆の半ばに世を去った。通称「猫塚」と呼ばれている石塔は「我が輩は猫である」の猫の墓と勘違いする人がいるがそうではない。漱石没後に遺族が飼っていた犬や猫、小鳥の供養のために建てたもので、昭和28年の漱石の命日にここに復元されたものだという。11段の石積みだが、犬、猫など11匹飼っていたということだろうか。

公園入り口の漱石胸像
復元された猫塚
 公園正面奥の道草庵という建物には漱石山房の見取り図がある。また、入り口左手に山房のベランダだけが中途半端に復元されているが、山房そのものの復元も新宿区によって検討されているようだ。なお誕生の地も早稲田駅近くの喜久井町(当時は牛込馬場下横町)にあり、これらゆかりの地を結ぶ「漱石の散歩道」コースがある。

漱石山房の見取り図が展示してある道草庵

三光稲荷神社(中央区日本橋堀留町)

 次に向かったのは日本橋堀留町の三光稲荷。芸妓が招き猫をよく奉納した神社だという。日比谷線人形町駅下車。ビジネス街の谷間にある神社なので迷うかもと思っていたが、人形町交差点から日本橋小伝馬町方面へ150mもいくと三光稲荷参道入り口があった。参道といっても薄暗い路地で20m先に立派な狛犬が出迎えてくれる。由来には『古くから娘、子供、芸妓等の参詣する者が多く、ことに猫を見失ったとき立願すれば霊験ありと云う。「三光稲荷神社参道」と銘ある石碑や境内にある猫の置物は猫が無事に帰った御礼に建立、奉納された。』とある。左に隣接する社務所脇のボックスに招き猫が30ほど奉納されていた。

裏通りからの参道と三光稲荷
三光稲荷神社
奉納された招き猫
今戸神社(台東区今戸)

 きょう最後に向かうのは、浅草の今戸神社。豪徳寺と並ぶ招き猫発祥の地として有名だ。日比谷線浅草駅で降りると、やはりスカイツリー効果なのか隅田川沿いは観光客でいっぱい。隅田川と平行する江戸通りを進み約20分で今戸神社に着く。入り口には「沖田総司終焉の地」とある。沖田らが江戸に引き上げたのち、薩長軍が江戸入りする際に今戸八幡(後に今戸神社と改称)に移り療養していたのだという。境内に入ると良縁祈願の女子だらけで、送迎バスまで出ている。縁結びのパワースポットとして大人気らしい。招き猫の絵馬も飛ぶように売れていた。

右手上げの大招きが社殿に鎮座
パワースポットらしい
招き猫のひな壇
 帰りは隅田川に沿ってスカイツリーを眺めながら猫さがし歩きしていく。隅田公園一帯は痩せた野良が多く絵になる猫は少ない。猫おばさんが数人、野良トラを前に「対策会議?」をしていた。終着点近くの水上バス乗り場近くで、ようやく愛想の良い猫に出会えた。

あいさつしてくれた隅田公園の猫

2010年11月6日

両国・回向院の猫塚

 土曜午前中はヤボ用で家を空けられず、午後からの徘徊。都内の気楽な猫史跡めぐりシリーズとして、両国・回向院(東京都墨田区両国2-8-10)の猫塚へと向かう。

 両国駅から南へ5分、回向院はすぐのところだ。山門も本堂も現代風である。古い石碑が目立つ。荘厳な犬猫供養堂が高く目立つ。鳥やウサギなどさまざまなペット供養で訪れる人が絶えないようだ。

 本堂左へ回っていくと何やら人だかりがあり、数人が墓石を囲んでしきりにガリガリと削っている。鼠小僧次郎吉の墓で、見れば墓石とは別の「欠き石」というものだそうだ。石粉を合格祈願の御守りとしたり、金運上昇のため財布に入れておく。石が削られ尽くすと新しい欠き石が奉納され続けてきたという。

 猫塚は、堂々たる鼠小僧の墓の向かって右隣にあったが、現在は左側にガラス張り小屋囲いの中へ移されている。欠き石と間違えられ「ネズミ」人間にかじられないようにということか。鼠の脇で小さくなっている猫が不憫に思えた。

右側は鼠小僧次郎吉の墓の一部

 猫塚の由来は、説明板によると文化13(1816)年建立とあり、その後文政期(1818〜1829年)に猫の恩返し(俗にいう猫に小判)の話に結びつけられて今に伝わるのだとされる。
猫の恩返し(猫塚)
 猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売できなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。
 ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両をくわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。
 江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。
                   ぶらり両国街かど展実行委員会
 各物語に共通しているのは、文化13年(猫塚建立年)のこと、命日が3月11日であること。飼い主は、時田半治郎や時田喜三郎、あるいは福島屋清右衛門だったりする。「猫定」という落語にも登場し、飼い主が定吉だから猫の名は「猫定」。住んでいるところは、日本橋、深川、両替町、神田川のほとり、八丁堀玉子屋新道などといろいろだ。物語中の主人とは違って、猫塚の台座には木下伊之助(あるいは由之助)と実際の建立者名が刻まれている。この人も魚屋だったのだろうか。

 鼠小僧次郎吉の墓は、群がる「石欠きネズミ」らがじゃまで撮影できず。なぜか薄幸な人々に見えた。石粉で財布をパンパンにしなさい!

 さて、両国界隈は見所が多いので巡り歩こう。かつての両国国技館は回向院の敷地内にあった(自分には日大講堂としての記憶が強い)。今は山門の左手に建つ複合ビル施設となっている。中庭スペースに土俵の位置を示す金属環が埋め込まれているが、その上にたくさんの自転車が無造作に止められていて興ざめ。

 吉良邸跡、勝海舟生誕の地、両国小学校の芥川龍之介文学碑及び芥川生誕地と回る。さらに総武線をくぐって、旧安田庭園へ。庭園の向こうにそびえる東京スカイツリーの眺めが新鮮。

 もうひとついでに東京都慰霊堂まで足を伸ばす。閉館まで残り10分だが、駆け込み拝観。暮れかかるなか、江戸東京博物館を抜けて両国駅に戻る。

2010年10月24日

磐梯山麓の猫石

 磐梯山麓に点在する三つの猫石を巡り歩いた。

 まずは猪苗代国際スキー場付近にある「渋谷の猫石」から。猪苗代駅から五色沼方面行きバスに乗り国際スキー場入口で下車。スキー場への道から観光ホテルの手前で右に入る。北へ向かう道はやがて、学校施設の跡地に至る。建物はすでになく、草の生い茂った広場となっている。車はここまで入れそう。

 その先さらに進みながら、右下斜面にあるはずの猫石を探す。十数分歩いて行くが、それらしき石は見当たらない。点在するいくつかの石はあるが、とても猫石と呼べるものではない。来た道を引き返し、杉林の斜面をヤブをかきわけながら目を凝らす。

 もう学校施設跡に戻り着くという手前左下に祠を見つける。これだ。猫の背にあたる部分で、その先が大きな岩となって切れ落ち、耳部分の石も二つ乗っかっている。右から回り込んで降りてみる。なるほど苦悶に口元をゆがませたカエルのような猫がいた。高さは3〜4m。

口をゆがめた苦悶の表情が見てとれる猫石


 祠の左側面に「石工 鈴木文三郎 明治24年」、右側面には渋谷村中の幾人かの奉納者名が刻まれていた。

 伝説によると、磐梯山噴火の時、夫婦猫が山から逃げてきたが、女猫は長瀬川を越せず渋谷あたりで力尽き、男猫は川を渡って白木城の近くまで辿り着いて果てた。渋谷の石を女猫石、白木城のを男猫石という。

 また、男猫は白木城まで逃げ生きながらえたともあり、養蚕の盛んな時代はネズミ除けの赤猫大明神としてお祭も賑わったという。(参考「猪苗代の字名の由来」「猪苗代町史 民俗編」)

 そこで、次は男猫の猫石である「赤猫大明神」へと向かう。これを探すのは少しやっかいだ。気を引き締める。交通量の多い県道459号線を沼の倉の手前まで戻り、沼の倉大橋で長瀬川を渡って、今度は国道115号を北上する。この道も磐梯吾妻スカイラインに向かうので、紅葉狩りの車がうるさい。

 猫石は、伯父ヶ倉の集落を過ぎた左手の杉林の中にあるとにらんでいた。閉鎖した電機会社の建物付近は猫塚というらしいので、このあたりを行ったり来たり。切り開きに大きな石が無造作に集められて積み上げられていた。もしや電機会社の建物を造る際に取り除かれたという不安も。しかし、信仰の対象となった猫石を壊すことはないはず。もう一度電機会社の左手から裏に回り込んで川沿いに暗い杉林を探す。

 キョロキョロしながら歩いていたら、ツルに足を取られて思いっきりころんだ。やれやれと顔を上げたら巨大な岩が・・。その下に赤い立派な祠が鎮座している。まさに赤猫大明神様である。中には「奉齋 猫石神社」と書かれた木札が見える。渋谷の猫石より一回り大きい。岩の高さは約6m。土を被った頂上まで登ってみると8mはありそう。大木が何本か絡みつくように生えていて迫力がある。

赤い祠が決め手の赤猫大明神
猫石は国道から横道に入り奥左。向こうは磐梯山

 石の右裏手から杉林を抜け出たところは、カンナ屑の捨て場となっている広場で、隣接する畑脇の道を国道に出ることができる。「渋谷の猫石」とは長瀬川をはさんで、直線距離でわずか1.2キロほど。石と化した無念の夫婦猫が、互いを見守るように対座している。

 残るは「土町(はにまち)の猫石」。こちらは、磐梯山災死者招魂碑が石上に建てられているという情報はつかんでいる。2万5千図にも記載されている碑がおそらくそれであろうと確信していた。

 猪苗代スキー場方面へぐるっと磐梯山麓の南東を回り込んでいく。磐梯山を眺めつつ、晩秋のほどよい冷気を感じて歩くのは楽しい。車なんぞでは味わえない郷愁である。途中、「見祢の大石」という噴火で押し出されてきた大石(国の天然記念物)も見たかったが次の機会に回そう。

土町の猫石に建つのは磐梯山災死者招魂碑

 土町では目当ての碑はあっさりと確認できた。確かに大きな平らな石の上に招魂碑が建っている。町中の四つ角なので風情というものはない。近くで草刈りをしていたおばさんに確認する。土津神社脇からスキー場に至るあたりを「猫石山」といい、その由来がこの猫石だろうと言っていた。薦められて立派な土津(はにつ)神社を見学後、猫石山あたりの道も歩いてみたが、両脇に別荘が建つのみ。

 土町の猫石は、昔多くの猫が群がって日向ぼっこをして岩の上で眠ったと伝えられる。(参考:「猪苗代町史 歴史編」)


 帰りは、猪苗代駅まで歩くついでにふるさと歴史館に立ち寄って資料を漁り、充実した一日を終えた。

2010年10月23日

立川の猫返し神社(阿豆佐味天神社)に行く

 土曜の昼前からでも行けるところを考えた。

 都内では、葛飾柴又の帝釈天なんかは行ったことがないな。でも猫関連のところがいいので、立川の「猫返し神社」こと阿豆佐味(あずさみ)天神社でもいくか。時間があれば一気に都心部を横断して帝釈天へ行こう。

 立川駅北口からバスで約20分、砂川4番で下車。進行方向右手に神社の杜が見えた。アプローチはたったの1分。大鳥居をくぐると雅楽がおごそかに流れ、手入れの行き届いた境内に気が引き締まる。安産祈願(水天宮)や七五三の祈祷に来る人が多いようだ。祈祷・祈願以外の立ち入りご遠慮ください、という趣旨の掲示を目にして構えてしまう。

阿豆佐味天神社本殿

 それではさっさと「猫はどこ?」。猫探しの術で鋭く周囲を見渡せば、本殿右手にたくさんの絵馬とともに猫の石像(ただいま猫というらしい!)があった。「ご遠慮下さい組」でない証明に祈祷受付で猫返しの絵馬を買う(800円)。その前に本殿でお賽銭と共に二礼二拍一礼もしておいたが。

「今、書いていきますか」
「(ギクッ)いやあとで・・」
 そしたら、袋に丁寧に入れて渡してくれた。何だそれだけのことか。てっきり、ここで書いていきなさい、ということかと思ったがにゃ。

「ただいま猫」の石像
奉納された猫返し祈願の絵馬

 1629(寛永6)年創建で、本殿は立川市最古の木造建築物であるという(市有形文化財指定)。本殿の隣りに境内社として蚕影(こかげ)神社があり、養蚕の盛んな時代に蚕の天敵ネズミを遠ざける猫の守り神だった。

 猫返し神社として有名になったきっかけは、ジャズピアニストの山下洋輔氏のエッセイだ。この神社に失踪した愛猫の祈願をして戻ってきた経緯が「芸術新潮」(1987年6月号)に掲載されて以来、全国に猫返し効能がとどろいた。それも二度あったというから、山下氏も本物と確信したようだ。境内に流れていたのは、氏が録音して奉納した越天楽だった。

 絵馬を買っても祈ってやるナマ猫はいないし、いろいろと考える。そうか、山をやってるのは猫みたいな連中ばかりだしな(←自由を愛するという意味で)。万一、仲間や知人が遭難して行方不明という場合、絵馬を神社に納めて祈るというのは、藁をもつかむ状況下ではありか。

 例の猫返し歌は、「いなばの山」を「越後の山」とか「会津の山」にアレンジすればいいのだ。

 立ち別れ越後の山の峰におふるまつとしきかば今帰りこむ
(元歌は百人一首 中納言行平 たちわかれいなばの山の峰におふるまつとしきかばいまかえりこむ)


 祈りが通じて無事生還したら、ネットで流す。すると、「遭難者返し神社」(←語呂がよくない)と評判になる。なかなか見つからなかった遺体がやっと出てきたら「オロク返し神社」か。これはシャレにならない。だんだんと不謹慎になってきたが、まあ、伝説・言い伝えなどというのはこうして形成されていくのであるな。

 
 「失せ猫は御嶽山へ修行に行くらしい」

 いろいろ手を尽くして調べても、いまだ猫と御嶽山の接点を見つけることはできない。しかし、有名作家のエッセイで単なる伝聞として書かれたことが、まことしやかに語られるようになった一例である。とくに猫の不思議話は共同幻想化しやすいのだと思う。

2010年10月16日

龍徳寺の猫塚伝説と猫塚山(福島県伊達市)

 徒登行山岳会創立40周年記念の集いが行われる10月16日、会場の那須・新甲子温泉には夕方まで入ればいいので、ついでに福島県内の猫山を探ることにした。

 標高200m程度、登れば15分もかからないだろうということで、福島市に隣接する伊達市の猫塚山(同市霊山町下小国)に向かう。このあたりはバス路線が複雑で本数も少ない。事前に調べておく必要がある。福島駅東口からバスで小国街道(国道115号)を山あいに入り、約40分で月館入口下車。付近に「みさとユースホステル」がある。

 猫塚山とは、頂上に猫塚神社(八雲神社)があることから地元で呼ばれてきた名称だ。その神社へは、バス停付近のレストラン愛華夢の脇から入る道がある。石碑がいくつかあるのですぐ分かる。猫塚神社へ登る途中に熊野神社があり、ちょうど24日に行われる例大祭の鳥居を建てる作業中のおじさん達に会う。道はこの先すぐ分岐し、左が熊野神社を経由する急坂の道、右が大きく回り込んで、直接猫塚神社に出る道だという。かつてはもっと左手から猫塚神社に登る道があったが、民家が建ったため使われなくなったらしい。

 せっかくだから、右の道から直接猫塚神社に至り、下りは熊野神社経由にすることにした。ところが、この迂回道はクモの巣だらけで両側から竹が倒れ込み、藪も刈っていないので後半はちょっとした藪漕ぎとなる。ズボンは汚れスネも枝に打ち付けて傷だらけとなったひどい道だった。猫塚神社の裏手から回り込むように尾根上に出た。途中、地形を確認したり時間を食い20分程度かかってしまう。

猫塚山八雲神社(背面は赤い岩に食い込んでいる)

 神社の前の土は猫の血で染まったという伝説のとおり赤い。神社の裏は大きな岩を削って建物と密着させている。猫塚の赤岩そのものに建物を合体させて建てた珍しい社である。中を覗くと岩の左右に猫の浮き彫りが確認できる。

社殿内部(岩の左右に猫の浮き彫りがある)

 猫塚神社右奥には一回り小さい社とその奥に岩コブがあり、石碑が置かれていたような台座が彫られていた。あとで聞くと金華山ということだった。

 社の左から下る踏み跡があり、熊野神社への道だろうと思い、急坂を強引に降りる。小さな神社に至り、右手から龍徳寺に出てしまう。登るには分かりづらいだろう。またレストラン愛華まで戻り、作業中のおじさん達に話すと、そんな道は知らないという。熊野神社へは左の道を登るとすぐだ。この先は登らなかったら、猫塚神社右手に出るのだという。

「赤岩の猫塚伝説」が伝わる龍徳寺(現在は無住)

 曹洞宗瑞雲山龍徳寺(伊達市霊山町下小国字力持71)は、神社登り口から小国街道を福島市方面へ50m戻ったところが入り口で、今は無住だが立派な構えの古刹である。赤岩の猫塚は400年前の「龍徳寺の猫」伝説にちなむ。この伝説では、前半と後半で猫の立場というか評価が正反対となる。まず龍徳寺で飼われていた猫のトラが大活躍するのだ。

 大旱魃で村人らがどうにも困り果て、龍徳寺の住職が雨乞いする傍らで、トラも一緒になって雨乞いに加わるようなしぐさをする。すると雨が降り出して村人らから大した猫だと感謝される。ただし後半では、墓を掘り出して死体が消えてしまう事件が発生。住職が見張っていると墓を掘り出すのは化け猫となったトラであった。住職はトラを寺の裏山の頂まで追い込み、槍で突き刺した。あたりはトラの血で赤く染まったという。村人は祟りを恐れて社を建てて猫塚を祀ったことから猫塚山という。猫が大病した際に参拝すると効能があるといわれた。大旱魃を裏付けるかのように西方に雨乞山(353m)がある。

小国川付近からみた猫塚山

 なお、レストラン愛華夢の主人にも話を聞くことができたが、猫塚神社(八雲神社)の大祭は4月に行われるという。その際は迂回経由の道も刈り払って整備するといっていた。神社は、地図上では山腹にあるように記されているが、実際は尾根上にあることが気になった。4月の大祭も見てみたいものだ。