2010年10月16日

龍徳寺の猫塚伝説と猫塚山(福島県伊達市)

 徒登行山岳会創立40周年記念の集いが行われる10月16日、会場の那須・新甲子温泉には夕方まで入ればいいので、ついでに福島県内の猫山を探ることにした。

 標高200m程度、登れば15分もかからないだろうということで、福島市に隣接する伊達市の猫塚山(同市霊山町下小国)に向かう。このあたりはバス路線が複雑で本数も少ない。事前に調べておく必要がある。福島駅東口からバスで小国街道(国道115号)を山あいに入り、約40分で月館入口下車。付近に「みさとユースホステル」がある。

 猫塚山とは、頂上に猫塚神社(八雲神社)があることから地元で呼ばれてきた名称だ。その神社へは、バス停付近のレストラン愛華夢の脇から入る道がある。石碑がいくつかあるのですぐ分かる。猫塚神社へ登る途中に熊野神社があり、ちょうど24日に行われる例大祭の鳥居を建てる作業中のおじさん達に会う。道はこの先すぐ分岐し、左が熊野神社を経由する急坂の道、右が大きく回り込んで、直接猫塚神社に出る道だという。かつてはもっと左手から猫塚神社に登る道があったが、民家が建ったため使われなくなったらしい。

 せっかくだから、右の道から直接猫塚神社に至り、下りは熊野神社経由にすることにした。ところが、この迂回道はクモの巣だらけで両側から竹が倒れ込み、藪も刈っていないので後半はちょっとした藪漕ぎとなる。ズボンは汚れスネも枝に打ち付けて傷だらけとなったひどい道だった。猫塚神社の裏手から回り込むように尾根上に出た。途中、地形を確認したり時間を食い20分程度かかってしまう。

猫塚山八雲神社(背面は赤い岩に食い込んでいる)

 神社の前の土は猫の血で染まったという伝説のとおり赤い。神社の裏は大きな岩を削って建物と密着させている。猫塚の赤岩そのものに建物を合体させて建てた珍しい社である。中を覗くと岩の左右に猫の浮き彫りが確認できる。

社殿内部(岩の左右に猫の浮き彫りがある)

 猫塚神社右奥には一回り小さい社とその奥に岩コブがあり、石碑が置かれていたような台座が彫られていた。あとで聞くと金華山ということだった。

 社の左から下る踏み跡があり、熊野神社への道だろうと思い、急坂を強引に降りる。小さな神社に至り、右手から龍徳寺に出てしまう。登るには分かりづらいだろう。またレストラン愛華まで戻り、作業中のおじさん達に話すと、そんな道は知らないという。熊野神社へは左の道を登るとすぐだ。この先は登らなかったら、猫塚神社右手に出るのだという。

「赤岩の猫塚伝説」が伝わる龍徳寺(現在は無住)

 曹洞宗瑞雲山龍徳寺(伊達市霊山町下小国字力持71)は、神社登り口から小国街道を福島市方面へ50m戻ったところが入り口で、今は無住だが立派な構えの古刹である。赤岩の猫塚は400年前の「龍徳寺の猫」伝説にちなむ。この伝説では、前半と後半で猫の立場というか評価が正反対となる。まず龍徳寺で飼われていた猫のトラが大活躍するのだ。

 大旱魃で村人らがどうにも困り果て、龍徳寺の住職が雨乞いする傍らで、トラも一緒になって雨乞いに加わるようなしぐさをする。すると雨が降り出して村人らから大した猫だと感謝される。ただし後半では、墓を掘り出して死体が消えてしまう事件が発生。住職が見張っていると墓を掘り出すのは化け猫となったトラであった。住職はトラを寺の裏山の頂まで追い込み、槍で突き刺した。あたりはトラの血で赤く染まったという。村人は祟りを恐れて社を建てて猫塚を祀ったことから猫塚山という。猫が大病した際に参拝すると効能があるといわれた。大旱魃を裏付けるかのように西方に雨乞山(353m)がある。

小国川付近からみた猫塚山

 なお、レストラン愛華夢の主人にも話を聞くことができたが、猫塚神社(八雲神社)の大祭は4月に行われるという。その際は迂回経由の道も刈り払って整備するといっていた。神社は、地図上では山腹にあるように記されているが、実際は尾根上にあることが気になった。4月の大祭も見てみたいものだ。
 

2010年10月11日

湯島聖堂から谷中へ

 学生時代に通ったお茶の水だが、聖橋を渡った神田川北側はあまり歩いた記憶がない。それではと、湯島聖堂、神田明神、湯島天神と歩き、久しぶりに谷中にも行ってみた。

 聖橋から湯島聖堂にかけては、キャンバスに向かっている人が多い。聖橋からの神田川や聖堂周辺も恰好の画題材となるのだろう。聖堂の南側から仰高門をくぐり、杏壇門を入ると大成殿(孔子廟)。屋根の四隅に猫顔の獣が目につく。

湯島聖堂の鬼龍子。顔は猫科

 大成殿に入ると(土・日・祝日公開、有料)、ここにもいた。説明によると、「鬼龍子」という想像上の霊獣で顔はやはり猫科である。関東大震災で焼け落ちたものを展示している。
鬼龍子(きりゅうし) 
聖堂の大成殿屋根、流れ棟の四隅角に鎮座。寛政11年(1799)聖堂の規模が史上最大当時の鋳造である。大正12年(1923)の関東大震災の際、罹災し焼け落ちたもの。鋳銅製、重量93.5㎏
形態は、猫型蛇腹(豹型龍腹)で牙がある。様態は狛犬に似た姿で、顔は猫科の動物に似ており、牙を剥き、腹には鱗があり蛇腹・龍腹となっている。鬼龍子は、想像上の霊獣で、孔子のような聖人の徳に感じて現れるという。古代中国伝説の霊獣「虞(すうぐ)」によく似ている。 右脚に次のような銘がある。寛政十一年八月、御鋳棟梁 松井大和 紀 清政 (大成殿内の説明板より)
関東大震災で焼け落ちた鬼龍子(大成殿内)

 昌平坂から聖堂北側へ回ると、屋根猫発見。こんな都心の聖堂にも住みついているのか。神田明神や湯島天神はにぎやかすぎて、そそくさと退散。猫もいないし、面白くない。ここまできたら谷根千でしょう。地下鉄で湯島から根津へ移動する。
 

鬼龍子のつもり? 湯島聖堂の猫様

 久々の谷中界隈。年をとると古い街並みが心地よい。言問通りからふらふらと引き寄せられるように三浦坂のねんねこ家へ。看板猫にあいさつしてから二階に上がってコーヒータイム。座っているテーブルに猫がピョンと上がって、さらにその上の寝床に入って丸くなった。まだ注文したばかりでよかったが、コーヒーがあったらぶちまけられていたかも。

槍立て中失礼!ねんねこ家の看板猫

 谷中霊園に向かって三崎坂をボーっと歩いて、ついつい永久寺を通り過ぎてしまう。この寺は仮名垣魯文の菩提寺で、榎本武揚が魯文に贈った猫の供養塔「山猫めをと塚」があるのだ。近いうちにまた来よう。霊園手前にさしかかると古い家の屋根に猫発見。猫町・谷中らしいなごみの景色である。

屋根猫
 谷中霊園に入ると東京スカイツリーが遠望される。墓猫の名所といえども、探さなければ猫はなかなか見つからない。徳川慶喜の墓の案内板に導かれて奥に向かうと、なにやら夫婦が猫に話しかけている様子。なかなかおっとりした毛並みのいい墓猫だが、近くにいたもう一匹は撮影するのもはばかれるようなボロ猫だった。

谷中霊園から東京スカイツリー遠望

谷中霊園の墓猫

 もみじ坂からいったん日暮里駅脇に出て、谷中銀座商店街へ。ちょうど、夕やけだんだんの階段にさしかかると、正面の夕陽がまぶしい。みんな右側のマンションを見上げて携帯やカメラをかざしている。3階のベランダから茶トラ君が夕陽をじっと見つめているのだ。夕やけだんだんの名物猫になるだろう(すでにそうなのかも?)。商店街をぶらついて千駄木駅に着く頃には薄暗くなっていた。

夕焼けを見つめる猫(谷中銀座の夕焼けだんだん)

2010年9月21日

北上山地・笠通山の猫石発見

 18日は群馬県前橋市の飯土井の猫山、19日は千葉県市原市の大桶の猫山と探索した。三連休最終日は疲れも残るが、三たび遠野に向かうことにした。7月に笠通山の山麓で猫石の発見に失敗して3カ月近くになる。10月になると東北は冬に向かってまっしぐらだ。その前にどうしても猫石のある場所を見つけ出したかった。その場所は、7月に探した斜面のもう少し奥だと確信していた。

ついに猫石を自力発見

9月20日 いつものように新花巻を経て遠野にやってきた。観光協会でレンタサイクルを借りて10時20分出発。もう綾織方面へは地図なしでも行ける。雲行きは怪しいが何とか午前中くらいはもってくれそうだ。進行方向から笠通山の根張りは大きく、見た目はあんな山懐まで行くのかよ!と遠く感じる。実際は約40分程度である。11時、綾織町の猫石さん(多田氏)宅に立ち寄る。猫石さんは留守らしく、おばあちゃんと話すが猫石には行ったことはなく、よくわからないという。

笠通山遠望。標高のわりに根張りの大きい山だ


 7月と同じく笠通林道入り口に自転車を置いて林道へ入る。前回調査した地点からさらに奥へ、約10分で二つ目の駐車スペースがある。右斜面に踏み跡があり、刈り払いもされている。猫石さんが刈ってくれたのだろうか。猫石への入り口はここだろうと分かった。我ながらこのような時の猫感は鋭い。長年山登りを続けてきたおかげだ。杉林に入っていくとすぐ上部に大岩が見え、それが猫石だと直感。入り口から50〜60mを急登だが2分ほどでたどりつく。15分くらいは登るとの情報もあったので拍子抜けする。登山をしている者とそうでない人との感じ方の違いか。

 猫石周辺の下草はまだ刈られておらず少々うるさい。岩にはシダ類が生え、苔むしている部分もあって掃除してあげたくなる。高さは5mに少し足りないか。側面はきれいに縦に割れて幅10センチくらいの裂け目になっていた。裏側(斜面上部)から簡単に岩に上がれる。林道まで戻ると、入り口左にフーフーと音を立てて岩の重なった下を小沢が流れている。風穴となっているようだ。ここでまた猫感が働く。猫石さんによると、猫石の由来は「風の強い日には猫石の方角から、猫の鳴き声のように聞こえる」というものだ。岩と岩のすき間に風が通り抜ける音が猫の鳴き声のように聞こえるのではないか。あるいは猫石そのものにある裂け目が笛のような役割を果たしているのかもしれない。……こんな仮説が頭に浮かんできた。

猫石発見!
大きな亀裂が走っている(左側面)
亀裂を上から見下ろす
猫の頭部分

 満足して再び猫石さん宅に寄り、猫石発見を報告する。奥さんが出てきたので、おばあちゃんに豪徳寺の招き猫をプレゼントする。先日も市会議員が探しにきたが見つけられずに帰っていったという。

 続いて続石に向かう。ここにも猫石があるという情報があったからだ。弁慶の枕岩の近くだということだったが、結局わからなかった。7月に引き続き失意のうちに続石を去ることになった。でも帰りのペダルは軽くルンルン気分で遠野に戻る。雨が降ってきたが何とかセーフ。自転車を戻し、駅前の御伽屋でそばを食べる。黒い洋猫がすり寄ってきた。


御伽屋のミステリアスな洋猫(遠野駅前)




猫石と猫岩は別

 猫石は見つかったものの、どうしても解せないことがある。発見した猫石は遠野物語拾遺113に出てくる笠通山のキャシャの成り果てなのか。たしかにキャシャは猫石にほど近い小峠あたりに出没するのだが、姿は猫の化け物ではないし、石に変えられたという話も聞いたことがない。猫石さんも猫石がキャシャと関係があるとは言っていないようだ。それともう一つ、源義家軍に追われる安倍貞任に味方し、源義家によって矢で射抜かれたという伝説の怪猫が打ちつけられた岩は猫岩と呼ばれる。笠通山西麓〜北麓にあると推測しているのだが、この猫岩と猫石を同じものとして扱うWebサイトが散見されることだ。以下に引用する『広報みやもり』に掲載された「宮守村風土記」によると、猫岩の位置は笠通山の西麓であり、写真の岩は猫石とは明らかに別の岩である。


宮守村風土記67 砥嶺神霊翁之夜話(四) 怪獣の跡「猫岩」  
 さて、南の間道に向かった義家の軍は、乙茂の坂や鶴ケ谷地(東和町晴山)を打ち過ぎ、谷内峠を越えて田瀬の里に向かいました。それから猿ヶ石川の急流を越え、北に聳える砥森山によじ登りました。(※村名由来参照)そして嶺を下り、艱難苦労をして(大平〜乗越〜迷岡を通り)、笠岡山(笠通山)の麓にたどり着いたのです。そこで一同は小休憩を取って、瓢箪の酒や水などを飲んで喉を潤し、疲れを休めて軍勢は山に登り始めたのです。ところが大変なことが起こりました。途中の岩窟(岩穴)の中から大山猫が現れたのです。針金のような斑の毛で覆われ、その姿はまるで虎のようです。両眼は稲妻のように光り、しっぽは蛇のように揺れ、大きさは小山のようです。しかもその鳴き声は鉢を合わすように響き渡り、身体を揺るがせて飛び出しました。士卒たちは刀や槍で立ち向かいましたが、その猫は飛び交いながら先頭の兵を食い倒しました。義家はこの様子を見て「憎き獣の振るまいかな、射止めてくれん」と弓に矢をつがえるが速いかヒョーと射ると、かの猫の腹を射貫いて後ろの岩にバシッと立ちました。大猫はギャーッと声を上げて死んだのです。そばに寄ってみると身の丈が五尺(1.5メートル)ばかり、恐ろしいほどの怪猫でした。これからこの岩は「猫岩」と呼ばれ、今も残っています。義家の軍勢は笠岡山に登って向こうの山々を眺め渡しましたが、まだ北の頼義の軍は見えません。合図もないのでそこで暫く休んでいました。  
             『広報みやもり(平成10年8月号)水原義人 宮守村風土記

 写真も載っていて説明には「高さ5メートル、幅四メートルほどの大きさの猫岩。全体がコケで覆われ、山の緑にとけ込んでいる」とあり、杉林にある猫石とは違い、周囲の樹木はブナのような広葉樹であった。ということは、猫岩の場所は山麓ではなさそうで、かなり山に分け入る必要があるということか。 猫岩を見つけるまでは、もうしばらく遠野通いをしなければならないようだ。

2010年9月19日

大桶の猫山(千葉県市原市大桶)と横浜市の中田の踊場

大桶の猫山伝説
 大桶区にあり之を古老に問ふに今より凡そ二百年の前頃、東は長南伊勢屋の猫、西は相川村新三左衛門の猫を始めとして、数百の猫集まりて盛宴を張ることあり、秋夜月清く虫喞く頃、其の歌舞の状を目撃することありしと、今は此の山周囲を青年団の為めに伐採されて開墾する所となり、山頂の平地に四・五の老椎を存するに過ぎず。                                    『市原郡誌』(千葉県市原郡教育会編、千葉県市原郡発行、1916)
 典型的な猫の踊り伝説だが、集まってくる猫のうち二匹の飼い主が明らかにされているのが特徴だ。東の長南伊勢屋は現長生郡長南町のいせや星野薬局のこと、西の相川村は現市原市相川である。猫山からそれぞれ直線距離で8キロ、6キロ程離れている。この距離を猫どもが踊りに興じるため集まってくるのかと思うと頭が下がる。ちなみにいせや星野薬局は300年も続く老舗で切妻妻入の土蔵造りの店舗は文化2(1805)年に建てられたもので、国登録文化財に指定されている。

大桶の猫山へ

9月19日 昨日は群馬県前橋市の飯土井の猫山を探査したが、きょうは房総の猫山である。内房線五井から小湊鉄道に乗り換えて上総山田駅下車。房総方面に出かけることはあまりなく、なじみのないところ。

 市原市大桶(おうけ)の甘露寺まで約5キロ。八幡神社、市原交通刑務所、磯谷病院を過ぎると、両側が丘陵に囲まれたのどかな田園風景が広がってくる。前方に小山が二つ見える。左が軍茶利四天堂が建つ城跡山で目指す猫山。高さがほぼ同じの右の山は城廻山で大桶城があったとされる。どちらも標高100mほどだ。

左が伝説の猫山(城跡山)、右は城廻山



正面に高橋商店、裏山が城跡山

 田んぼの真ん中を一直線に突き進む農道を猫山を正面に見ながら歩いていくのは気持ちがいい。うぐいすラインに合流したところは食料品雑貨「高橋商店」前で、右の大桶集荷所から商店の裏手に回り込んでいくように住宅の間を坂道が続いている。さらに右に上がっていく道に導かれていくと左が広場で、奥に天台宗軍茶利山甘露寺が建っていた。道はそのまま石碑の建つところから細道となって竹林の中へ向かっている。竹林に入ると見上げるほどの急傾斜を一直線の石段と続いていた。両側から竹林が覆い被さって日光を遮り陰気な感じ。石段は82段でいったん途切れ、さらに86段続く。

奥の院への参道からの甘露寺
竹林の中の急な石段

 参道入り口から標高差約50mを登りきると奥の院である軍茶利四天堂に到着。社殿前の広場は手入れされないまま夏草が生い茂っていた。2月上旬に「篝焚き」(かがりだき)という新年神事が行われ、地区民らが広場の草を刈って積み上げて燃やすので、訪れるには春先から初夏の方がいいようだ。伝説の通り老椎の木も何本かあった。そのうち一番大きなものは二股の一方が折れてしまっていた。汗ばんだ体には草いきれの中で休んでも落ち着かず、一通り撮影後下ることにする。社殿裏の城累跡を見にいこうとも思ったが、調査テーマが違うのでやめた。

頂上の軍茶利四天堂。伝説のとおり老椎の木も

猫どもが踊った中田の踊場

 まだ日も高いのでもう一稼ぎすべく駅に戻ることにする。帰途、磯ヶ谷の集落でみかけた大黒猫は一瞬、小熊かと見まごうほどだった。鈴をつけていたので飼い猫とわかる。五井駅からは一気に横須賀線直通の久里浜行きを利用して横浜の戸塚へ(便利になったものだ)。横浜で猫の踊り伝説といえば泉区中田の「踊場」である。踊場というバス停が伝説の名残を伝えていたが、市営地下鉄ブルーラインが1999年に開通し、「踊場駅」ができたことでその存在を広く知らしめた。駅舎には随所にその伝説イメージを採り入れて猫のデザインが施され、粋な計らいをしてくれている。2000年には個性的な駅として関東の駅100選にも選ばれている。


一瞬、小熊かと見まごう大黒猫。足が太い!
踊場駅で最も印象的な踊る猫の照明(出口4)

 戸塚駅からブルーラインに乗り換え一駅目が踊場駅。まずは、踊場の供養塔がある2番出口へ向かう。供養塔は屋根付きで、傍らに碑の由来板も立てられている。碑には「南無阿彌陀佛」と刻まれている。賽銭入れも備わり、碑の後ろには卒塔婆もたてかけられていた。出口1にある踊場交番付近は長後街道の最高標高地点(58.5m)で、「中田の坂」の頂上となっている。供養塔はもともと、旧岡津道と長後街道が交差するこの角にあったが、市営地下鉄建設に伴う長後街道の道路拡幅で現在地に移された。長後街道は庶民信仰の山である大山へ至る旧大山道で、近世は登拝客の往来は多かっただろう。明治・大正期には、この一帯も養蚕が盛んになり製紙工場もあったが、踊場伝説はそれよりずっと前に成立しており、養蚕に関係する言い伝えはない。

長後街道から戸塚方面。右上が踊場交番と出口1

踊場の碑の由来
踊場の地名は伝説として古猫が集り毎夜踊ったので生じたと言はる。この碑は猫の霊をなぐさめ住民の安泰を祈念して近郷住民の総意にて元文二年(西暦一七三七年)造立し中田寺住職尊帰として開眼供養せられしものなり。最近交通いよいよ激しく長後街道と鎌倉道のこの交差路改修にて碑の移動に伴ひ本願の地区安泰と交通安全を祈願のため町内有志相計り住民各位の助成を得て慰霊塔を護持祖先の意志を継承奉らんとするものである。  昭和六十一年十一月三日に戸塚区から当区は泉区に変行になった。   中田踊場慰霊塔管理委員会

踊場供養塔(出口2)
踊場の碑の由来
 踊場伝説のパターンはいくつか在るのだが、不思議なのは猫が踊ったところだから踊場と名付けられたのではなく、「おどり場という所を通ったら猫がたくさん踊っていた」というものが多いことだ。すでに踊場という場所(地名)だったのである。「オドリバノダイ」としている伝説もある。また、なぜ踊る猫どものために供養塔が建てられたのだろうか。由来碑には書かれていないが、一番説明がつく伝説は、「踊場でたくさんの猫とともに踊っていた又兵衛さんの猫が、火傷である日死んでしまう。その後又兵衛さんが踊場にさしかかったところ死んだはずの猫が踊っていた。その猫の怨霊を供養するため供養塔を建てた」というもの。猫どもただ踊っていただけでなく、通りかかる旅人に披露していたというから、そのけなげさが供養塔(慰霊塔)を建ててもらう理由になったのだろう。毎夜踊っている猫どものためにわざわざ供養塔を建てるはずはないからだ。 参考:高塚さより「横浜市泉区踊場の『猫の踊』譚」(『昔話伝説研究』21号 昔話伝説研究会 2000)

 供養塔建立には中田寺の住職が関わっているが、碑の正式名称は「寒念仏供養塔(かんねんぶつくようとう)」という。供養塔右側面に刻まれているようだ。泉区のWebサイトによると、「寒念仏と刻まれているように、寒い中を中田寺の住職等5人の僧侶が、戸塚周辺の広い地域を念仏修行して回った総仕上げに、踊場の坂の頂上に、この供養塔を祀ったものといわれている」。ちなみに中田寺(ちゅうでんじ)は、江戸初期の慶長17年(1612)に中田村の領主石巻康敬が開基となって創建された浄土宗の古刹である。中田の坂の頂上に設置場所を選んだのは猫の踊伝説があったからなのか、碑の由来文にあるように地元住民が猫どもを慰霊するため造立するのにあたり、その開眼のため中田寺住職らが念仏修行したものかはよくわからない。 参考:『いずみ いまむかし − 泉区小史』(1996年、泉区小史編集委員会編、同発行委員会発行)

 猫山のジャンルに入れるつもりはなかったが、昔は「中田の山」「踊場の坂」と呼ばれた寂しい村境の林であった。供養塔の由来についてはなお不明点が多く、再調査することになるだろう。

2010年9月18日

飯土井の猫山(群馬県前橋市)

「踊る猫」の猫山伝説

 実際に存在した伝説の猫山が、いまやその面影すらなくなってしまった残念な事例である。

 「飯土井の猫山」は、前橋市飯土井に実在した。伝説によると「祐庵という医者が、飯土井を通りかかったところ猫が踊っており、その中に自分の飼い猫も入っていた。それからこの辺りを猫山と呼ぶようになった」と、その由来がある。さらに調べてみると、この地区の二之宮小学校には地域に親しみ郷土愛を育むための教材資料として二之宮カルタが昭和55年に作られ、「ね」には「猫山に立った 開田記念碑」と読まれていることがわかった。

 二之宮カルタ解説抄によると、「猫山は、飯土井町の井出上神社から東へ200m程のところにあった小高い丘である。猫山は、飼い猫を捨てた山なので、猫捨山が猫山になったのだろう。沢山の岩石が在ったのであるが大正4〜8年ごろ石工が掘り出したため、南半分は池になっていた。
 開田記念碑はその池の袂に立てられたものであった。この辺りは畑であったが、大正用水が完成し、水が豊富になったために水田になったものである。「もっと米を」これは畑作農民の重要課題である。水田ができたために、飯土井町の供出米が200俵足らずであったものが600俵を越すまでになった。この大事業を記念して猫山に碑を立てたのである。(以下略)」(「二之宮町自治会ホームページ」より)とより詳しく猫山について説明されている。

 現在、猫山と呼ばれた小高い丘はなくなってしまい、池の袂に立てられたという開田記念碑を探すことがポイントになりそうだ。詳しい地図を見ても、それらしき場所を指し示すものはない。現在はどのような状況になっているのだろうか。

猫山の場所を示す「開田記念碑」とは

9月18日 9月中旬だというのに厳しい残暑が続いている。両毛線駒形駅から地図を頼りに井出上神社まで徒歩約1時間かけて13時着。途中、「二之宮カルタ」を作った二之宮小学校に差し掛かると、賑やかに秋の運動会が行われていた。上武道路(国道17号)脇の小さな赤い鳥居から井出上神社境内に入る。掲示されている神社由来の「井出上神社誌」によれば、「井出上は、いずみ湧く上に鎮座せる意味であり、在も赤城山の伏流水が湧き出て神泉池を満している。」とされている。南側にはその通り神泉池があった。

井出上神社
赤城山の伏流水が湧き出る神泉池

 神社の東200m先に開田記念碑があるはずなので、上武道路に沿って周囲も見回しながら進んでみたが、それらしきものは見当たらず。上武道路の北側は工業団地のようで、小高い丘などもちろん見あたらない。仕方なく戻るように、神社東南の木々のこんもりとした集落を歩いてみる。庭先にいたおばさんに訊ねたが記念碑のことは分からないと言う。しかし、畑で農作業中の70代らしきおじさんから詳しくを聞くことができた。

 まず記念碑については、よく分からないが上武道路の北側に池(飯土井池)があり、墓地がある。そのあたりにあるのではという。猫山についてはよく知っていて、具体的に聞くことができた。猫山があったのは、上武道路の北側の西濃運輸となっているところだという。やはり神社の東200mの位置というのは一致していた。完全に小高い丘は削られて運送会社営業所となってしまっていたのだ。二之宮カルタ解説抄の内容通りで、採石をして大きな穴になり、そこに水が溜まって池になっていた。周りには松が生えていて怖いところだった。猫を捨てるところで、エサと一緒に置いてきたものだという。沼に放り投げるのかと思ったが、そんなことはしないと強調していた。

上武道路の向こう側にかつて猫山があった

 しかし、西濃運輸が猫山の場所として一致する一方、猫山にあるという開田記念碑については、神社北側の飯土井沼付近ではないかという答えに少々混乱する。とにかく飯土井池を一周し、墓地も確認したが記念碑はなかった。次に西濃運輸の広い敷地に沿って一周してみる。猫山の名残は何もなかった。途方にくれかかったが、原点に帰り井出上神社に再び行ってみると、最初気にも留めなかった入り口右手にあっさりと記念碑を発見。まさに「飯土井開田記念碑」であった。おそらく西濃運輸が進出した際、井出上神社に移設されたものであろう。

猫山から移された飯土井開田記念碑

遠ざかる「猫山」の記憶

 この猫山には養蚕神としての役割もあったようだ。上武道路は昭和60年に開通したが、それまでは水田のほか桑園が広がる静かな地域だった。『養蠶の神々 蚕神信仰の民俗』(阪本栄一著、群馬県文化事業振興会)によると、猫山には猫観音という石宮もあり、明治期末頃までは観音様には神楽殿があり、祭りに神楽が行われた。猫が居着かない、あるいは死んでしまったりすることがあると猫観音に祈願したという。話を聞いたおじさんは、猫観音のことには触れておらず、石宮などは5、60年前にはすでになくなっていたのだろうか。地元古老の複数の証言がほしいところだ。

 駒形駅に戻る途中、道ばたで自家ぶどう園の巨峰を売っていた老人に聞くと、猫山というのがあったということは知っていた。地域からも「飯土井の猫山」の記憶は消えつつあることを実感させられた。

2010年8月29日

四塚山の四ツ塚伝説

四塚伝説

 白山の四塚山にまつわる四ツ塚伝説のあらすじは次のようなものだ。

 昔尾口村の尾添集落にたいそう猫好きの娘がいた。娘は猫のとってきた魚を猫とともに一つの皿で食べ、猫とともに山野を跳び回り、老女になっても若者のように元気だった。

 ある日大蛇が現れて老女を襲ったが、三匹の猫が勇ましく飛びかかりついにはひるんでいた老女もカマで大蛇を殺した。その肉を食べた猫はその後狼と戦うほど荒くなった。老女もいつの間にか猫そっくりの顔になり、手足にも毛が生えた。

 彼女は家を離れて山の洞穴に住むようになったが、しまいには神通力を得て、雲を起こし、雨を呼び、空を飛べるまでになった。村に葬式があると必ず雨を降らせ、黒雲をおこらせて棺桶を奪った。あまりの悪行に困り果てた村人の頼みで越知山にいた浄定行者が四匹の猫を山から追い出し、二度と暴れないように北竜ヶ馬場の四塚に封じ込めた。

両夜行1泊2日で四塚山へ

8月28日 急行能登で早朝の金沢駅下車。魚津付近からは懐かしい毛勝三山がよく見えた。夜行ではいつも通りあまり眠れず、予想される猛暑への不安も。二日間の好天は保証されており、金沢駅前発のすでに別当谷行きのバスは満員だった。市ノ瀬で降りたのは自分だけだった。ビジターセンターで登山カードに記入する。

 車で来た人は、ここからバスに乗り換えていく。チブリ尾根への道はどこか、少しウロウロして確認する。単独行者が進む方向を見て後を追う。砂防工事用の道が新設されているので地図を見ても初めてだととまどう。

 尾根に取り付いて早くも汗がしたたる。すでに9時をすぎ、ブナ林の中でも蒸し暑い。重さがこたえ、最初の水場で2.5Lの水を少し捨てる。歩き始めて2時間、太腿に違和感を覚える。正午ごろ、足がつり始めた。森林限界を抜け、お花畑が出てくる。修験者姿の人が下ってきた。背中にはホラ貝をくくりつけていた。まだこんな人がいるのだなと思った。

 チブリ尾根避難小屋にヨレヨレで到着。別山がはるか遠くに感じた。下山する人と言葉を交わす。今日、別当出合からここまで来たという。南竜から3時間だというから健脚だ。地元では相当登り込んでいる人だろうと感じた。明日下る予定の釈迦新道を眺めながら、あそこは長いよと言われて、「明日下る」とは言えなかった。つった足の痛みは相当ひどくなっていた。

御舎利山から別山

 御舎利山にようやく上がり、主稜線を南竜のキャンプ場まで辿っていくことを考えると、別山往復は断念せざるを得なかった。今のペースでは日没前に南竜到着ができるか微妙になっていたからだ。稜線右側の谷が切れ落ちた大屏風の尾根を縦走していく。疲れてはいたが、新鮮な眺望がうれしい。行く手には御前峰がどっしりと高い。天池を過ぎ、2256m峰からは大下りの油坂にかかる。足は相当まいっていて、一歩一歩がつらい。

2256m峰から御前峰と南竜ガ馬場

 沢を渡り最後の登り返しでようやくキャンプ場に着いた。18時だった。受付をすませ、一番南側のキャンプ地にゴアライトを張る。20〜30張りの先客がいた。キャビンを借りているグループもいる。足の痛みから、この時点では明日は御前峰に登って別当谷出合へ最短で下山しようと考えていた。

 夜は冷え込んで、あまり眠れず。夜、テント外へ出た高校生パーティーが息が白いと騒いでいた。星の輝きもすごかったようだ。

8月29日 5時ごろ起床し、ゆっくりとコーヒーを飲む。朝食を済ませると、やっぱり四塚山には行きたいと思う。足の様子をみながら登ってみようと決める。そのかわり、御前峰はカットして最短距離で四塚山を目指す。

 6時25分出発。南竜山荘の脇から室堂へ向けトンビ岩コースをとる。足は痛みが残っているが何とか大丈夫そうだ。室堂平の広さは予想以上。昨日辿ってきた大屏風の尾根から別山の稜線が素晴らしい。

 御前峰へ向け人が鈴なりに登っているのでカットしてよかったと思う。いずれまた室堂をベースにのんびり来たらいい。大汝峰への最短コースもゆるやかな登りで高山植物も多く、またそれほど暑さを感じないので足への負担は少ない。

 いったん下りにかかると雪渓の残る沼が見える。白山に来ていることを実感できる眺めだ。大汝峰からの展望も素晴らしいはずだが、今回は西側の巻き道を行く。左手前方には七倉山や四塚山が手招きしているようで気が急く。

 大汝峰からの道と合流し、御手水鉢に下っていく。右側の地獄谷は壮絶な崩壊を見せ、遠く北アルプス槍・穂連峰が連なる。御手水鉢には本当に水がたまっていて不思議だ。いよいよ北竜ガ馬場への登りだが、七倉山を巻いていくような道なのであっさりと到着した。

七倉山と奥に四塚岳
地獄谷の崩壊
水の涸れない御手水鉢と七倉山

 そして、ついに四塚山と四ッ塚が目に入ってきた。ザックをデポし、カメラのみ持って四ッ塚と対面。ちょうど10時だ。細長い山頂部の東側が平で、四つの塚が庭園のなかに配置されたように並んでいる。保護のためか回りをロープで囲んであった。単独行者が北側のベンチで休んでいた。釈迦新道の長い下山を残しており、写真を撮って七倉の辻まで戻る。

七倉の辻から四塚山
四つの塚で最大のもの
四ッ塚と北アルプス遠望

釈迦新道の入り口付近から四塚山

 下山路から見る四塚山は実に大きい立派な山容であった。白山釈迦岳を過ぎる頃には、酷暑がこたえ、足が動かなくなってきた。この尾根からはボリウムある白山の連なりを終始見ながらの下りだ。長い下りはやがてブナ林となり、沢音が近づく。林道に出てからさらに1時間半がんばって市ノ瀬に到着。16時20分。最終バスまで小一時間あるので白山温泉につかることができた。

釈迦新道から四塚山
白山釈迦岳

 再び急行能登で翌朝6時前に大宮着。急いで洗濯し、シャワーを浴びてから出社した。厳しくも充実した両夜行一泊二日の北陸行だった。
 

2010年8月21日

「妖怪・化け猫展」(平木浮世絵美術館)、豪徳寺ほか

「納涼 妖怪・化け猫」展へ

 猛暑続きのなか平木浮世絵美術館(江東区豊洲)で「納涼 妖怪・化け猫」展を観賞する(500円)。美術館は、ららぽーと豊洲の1Fにあるのだが、とてつもなくでかいショッピングセンターだ。展示されていた化け猫関係の作品としては歌舞伎の「岡崎の猫」に題材をとったものがほとんど。見たことがあるものが多く、あまり新鮮味はなかった。主な出品作は以下の通り(化け猫関連)。


歌川国芳 「五拾三次之内 岡崎の場」 天保6年(1835)
歌川国芳 「見立東海道五拾三次 岡部 猫石の由来」 嘉永期(1848−54)
同「昔ばなしの戯 猫又年を遍古寺に怪をなす圖」 弘化4年(1847)頃
歌川国貞(豊国Ⅲ) 「岡崎八ツ橋村の妖怪 玉嶋逸當 猫石の変化」 嘉永期(1848−54)
歌川国周 「東海道五十三次 岡崎 尾上梅幸の猫石の怪」 明治4年(1871)
楊州周延 「二嶌実ハ両尾の古猫」 明治20年(1887)
 

 化け猫以外にも猫の登場する浮世絵をみたかったが、「にゃんとも猫だらけ」という企画展が2006年に開催されていた。カタログを売っていたので購入する(1500円)。

白金の自然教育園で涼む

 妖怪浮世絵では納涼にならず、以前から行きたかった国立科学博物館附属自然教育園(目黒区白金台)に転進。正門は東京都庭園美術館の隣で入園料は300円だ。広大な白金台地に豊かな自然が残る都会のオアシスである。落葉樹・常緑樹に広く覆われ、池や小川もある。「白金長者」という言い伝えを残す豪族の土累も残っている。大きな樹木に囲まれた園内にいると、東京のど真ん中にいることを忘れさせてくれる。ただ隣接して走る高速道の騒音が少し気になった。

招き猫のルーツの一つ・豪徳寺へ

 自然教育園散策は十分に満足したが、やはり猫関連史跡に行きたくなった。日が長いのでもう一がんばりすることにした。渋谷から井の頭線経由で小田急線豪徳寺へ向かう。豪徳寺駅を降りると大きな招き猫の石像がある。高校生が群がっていてシャッターチャンスがない。とにかく豪徳寺へ急ぐ。

 山門をくぐると参道左手に招福観音堂があり、手前右に猫絵馬、左奥に招き猫の奉納所がある。また、招き猫のルーツとなった伝説で彦根藩二代目藩主・井伊直孝を雷雨から救った猫(たま)の墓もある。夕刻だったので蚊がたくさんいて油断するとすぐ刺される。タンクトップにホットパンツ姿の外国人女性が招き猫や絵馬の写真を熱心に撮っているが、群がる蚊に対して全然平気なのが不思議だった。招福殿で招福猫児の一番小さい3号を求めてから井伊家の墓所にも行ってみる。直孝の墓は正面で、桜田門で暗殺された直弼は左手奥に眠っている。

招福観音堂入り口の招福門
招福観音堂に飾られた招福猫児や御札
招き猫奉納所の左に「たまの墓」 

 豪徳寺商店街の招き猫はほとんどが豪徳寺で売られている猫だった。なお、自治体ゆるキャラとして絶大な人気がある滋賀県彦根市のひこにゃんは「彦根の、にゃんこ」を略した愛称だが、彦根城築城400年記念イベントのイメージキャラとして平成19年(2007)に生まれた。なぜ猫なのかというと、豪徳寺の招き猫伝説にあやかっているからである。ひこにゃん公式サイトのプロフィールによると「彦根藩二代目藩主である井伊直孝公をお寺の門前で手招きして雷雨から救ったと伝えられる“招き猫”と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編成のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたきゃらくたー。」と説明されている。


商店街にも豪徳寺の招福猫児
ほとんどが豪徳寺猫

招福猫児の由来(招福猫児の説明書)
東京都世田谷区豪徳寺二丁目の豪徳寺は、幕末の大老 井伊掃部頭直弼公の墓所として世に名高く、寺域広く、老樹爵蒼として堂宇荘厳を極め賓者日に多く、誠に東京西郊の名刹なり。
されど昔、時は至って貧寺にして二三の雲水修行して、漸く暮しを立つる計りなりき。時の和尚、殊に猫を愛しよく飼いならし自分の食を割て猫に与え吾子のように愛育せしが、或日、和尚猫に向かい
「汝、我が愛育の恩を知らば 何か果報を招来せよ」 と言い聞かせたるが、其の後幾月日が過ぎし、夏の日の昼下がり、俄かに門の辺り騒がしければ、和尚何事ならんとて出てみれば、鷹狩の帰りと思しき武士五六騎門前に馬乗り捨てて入り来り、和尚に向かい謂えるよう「我等、今当寺の前を通行せんとするに、門前に猫一匹うずくまりて居て我等を見て手を上げ、頻りに招く様のあまりに不審ければ訪ね入るなり、暫く休息致させよ」とありければ、和尚いそぎ奥へ招じ渋茶など差出しける内、天 忽ち曇り夕立降り出し雷鳴り加わりしが、和尚は心静かに三世因果の説法したりしかば武士は大喜びいよいよ帰依の念発起しけむ、やがて「我こそは 江州彦根の城主 井伊掃部頭直孝なり 猫に招き入れられ雨をしのぎ貴僧の法談に預かること是れ偏へに仏の因果ならん 以来更に心安く頼み参らす」とて立帰られけるが、是れぞ豪徳寺が吉運を開く初めにして、やがて井伊家御菩提所となり、田畑多く寄進せられ一大加藍となりしも
全く猫の恩に報い、福を招き寄篤の霊験によるものにして、此寺一に猫寺とも呼ぶに至れり。
和尚後にこの猫の墓を建ていと懇に其の冥福を祈り、後世この猫の姿形をつくり招福猫児と称へて崇め祀れば吉運立ち所に来り家内安全、商売繁盛、心願成就すとて其の霊験を祈念する事は世に知らぬ人はなかりけり。
                                      曹洞宗 大谿山 豪徳寺