猫の随筆本をめくると、たまに家出猫についての話がでてくる。どこかへ修行に行ったのではないかと書いてあったりすると、自分はランランと輝く猫目になってしまう。その修行先とはどこだ? どこだと思ってるんだ!
だが、「中部山岳地帯の荒寺」や「木曽の山中」「何年か修行すると化けられる寺」「遠州森の秋葉神社」などと書かれている程度で、本で読んだとか、ある人から聞いたとか、出所がどうもはっきりしないのだ。これじゃ猫どもはほくそ笑み、自分のイライラはつのるばかりである。
その昔、年老いた猫は山中に入るとされ、地域によっては狐に誘われて山に行くとも考えられた。飼う場合にはあらかじめ年期を猫に言い聞かせ、年期が来ると追い出したり、あるいは自ら言いつけどおりに失踪したのもいるという。
“冥界”である山に入った猫が戻ったとあらば、妖力をつけてきたと考えるのは自然のことであっただろう。飼い主からすれば「たくましい顔つきになって帰ってきた」と、戻り猫に感心するくだりをある本で最近読んだが、現代でさえ家出猫の振る舞いには不可思議さを残している面がある。
失せ猫を戻すおまじないで有名な百人一首「立ちわかれいなばの山の峰におふる まつとしきかば今帰りこむ」の「いなばの山」にひっかけて、失せ猫は「九州のいなばの山の猫山」に居るからと説いたとする伝承もあった。
「九州のいなばの山」が阿蘇の根子岳(猫岳)であるのは明白で、この山こそ猫の王となるべき猫どもをいかに多く集めたのかは、「猫岳参り」の伝承がこの地方にかなり多いことからもわかる。九州での修行先はこれでいいとしても、本州の中部山岳にある猫岳という山は乗鞍のそれをおいてないが、そこでは猫岳参りの伝説は聞かない。
北アルプス山麓にある通称・猫寺にも、猫どもが修行のため集まって来たという昔話もない。とすると、家出〜戻るとたくましくなっている〜修行したから〜修行先は深山か山寺のはずだ〜日本の真ん中である中部山岳には猫岳という山と通称・猫寺があるという(ここで九州の「猫岳参り」の民話をあてはめる)……中部山岳説は、ざっとこんな流れなのではなかろうか?
最近、これらの問題を解明すべくタイムリーな刊行となった『猫の王〜猫はなぜ突然姿を消すのか』は、本格的に猫山を取り上げた初めての本で、昨年末に一気に読了した。しかし、その重厚な論考にもかかわらずなお物足りなさが残ってしまうのはなぜか。
登山する側の立場から全国各地の猫山を想起するとき、その山々が辿ってきた人と猫と山との深淵なつながりと戦(おのの)きをもっと蘇らせなければと高ぶってしまい、ヤマネコのひげは遠い昔をしのんでピクついてしまうのであった。
とはいうものの、家出猫がご近所の家でのうのうと幾日か過ごし、その後また別の家に上がり込んではカジケ猫を決め込んでいるなどというのが、案外、修行の真実だったりする。
自分の郷里で昔飼っていた猫が、何日かの家出の果てに「肥溜め」(昔はよく畑の脇などにあったのだよ)にはまり、化け猫どころかクサ猫になってプーンと戻ってきたときには、家族一同ぶっとんでしまったものだ。こういう修行はしてほしくないものである、猫どもよ!