2011年8月20日

「猫又山」「猫ノ踊場」を目指して

猫山詣で復活

体調がようやく回復し、10カ月ぶりに山へ。猛暑続きで不安だが、思い切って昨年9月にも計画した北アルプス「猫ノ踊場」(2217m)をめざす。

白馬岳から西方に延びる尾根は清水岳(2589m=しょうずだけ)に至る。さらに黒部川に向かって南西に清水尾根、北西に突坂尾根が分かれる。猫又山(2308m)は清水岳から1.5キロ北西の突坂尾根上にある。猫ノ踊場はここから南西に向きを変える突坂尾根から北西に延びる枝尾根1キロ先に位置する。

猫又山から清水岳までのわずか1.5キロの藪漕ぎに5時間かかったという沢登りパーティーの記録もあり、この猛暑の中で往復するのはただでさえ萎える。残雪期なら比較的容易に辿ることができるが、手つかずの楽園ともいうべきお花畑と草原の「踊場」に立たなくては、とのこだわりがある。できれば月夜の草原に泊まって猫又伝説に思いを馳せてみたい。それは同時に、この一帯特に棲息密度が高いクマの恐怖に戦くことでもあるのだが。

今回はどれだけ体力が回復したか検証するつもりで、黒部峡谷の祖母谷温泉から清水尾根を登ることにした。この尾根を登るのは下山に使う人の1、2割程度。観光客で満杯のトロッコ列車に乗っていた登山者は自分1人だった。お盆時期の白馬岳周辺の喧噪に比べていかに少ないことか。

静かな清水尾根

初日(8月14日)、しょっぱなから急登でかなりこたえる。暑さでヨレヨレしながらも不帰岳避難小屋までほぼコースタイム通り。ということは、かなり遅いということ。小屋泊まりは下山者含めて3人だった。

翌日はとりあえず清水岳まで行って判断することにする。清水尾根上部は噂通りのお花畑が続き展望も素晴らしい。猫又山から猫ノ踊場への尾根もよく見える。ルートを観察したり写真を撮りながら、ついつい歩みがのろくなってしまう。清水岳でハイマツの状況などを確認するが、日高のような枝渡りするハイマツ漕ぎとはならないようだ。尾根北面は植生が薄く、うまく利用すれば辿りやすいだろう。

まだ9時前だが、往復には最低8時間はかかりそう。午後3時以降は雨となりそうだし、今回は猫又山から猫ノ踊場の姿をカメラにおさめたことでよしとしよう。

計画では清水尾根を下るのだが、しんどかった登りを思うと敬遠することに。そのかわり40年ぶりに白馬岳を登ってみたくなった。あわよくば雪倉岳、朝日岳まで足を延ばそうか、というのは虫がよすぎた。結局、白馬大池小屋で幕営し、3日目は蓮華温泉に下山した。


清水尾根上部から毛勝三山の猫又山も見える(左のピーク)

猫又山(写真中央の禿部分と右の小ピーク)と猫ノ踊場
猫ノ踊場遠望。三角点は白い雪渓のさらに先となる

清水岳から猫ノ踊場への稜線。猫又山は隠れて見えない



猫又伝説と猫の踊り場

 黒部・猫又山由来のオリジナルは『山の伝説 日本アルプス篇』(青木純二、丁未出版社、1930)の猫又伝説であろう。

 「元和の頃、黒部峡谷に猫又という怪獣が出た。富士山に棲んでいたのであるが、源頼朝が巻狩をしたとき、軍兵を喰い殺したので、富士権現の怒りに触れて黒部へ流転して来た。ここでも人を襲った。猫又に殺された三人の惨状を目のあたりにした人々は恐れおののき、作場へも出なくなった。そこで庄屋と村人が代官に猫又退治を願い出た。山狩りを行うことになり、千余の勢子が出動した。猫又を発見はしたが、その形相の凄まじさに勢子は立ちすくんだ。しかし、猫又もその威勢に怖れ、いずこともなく逃げ去った。怪獣のいた山を人々は猫又山と呼んで怖れた」

 後半は「猫の踊り場」の話で、猫又退治のため黒部奥山を探し回っていた加賀藩の鉄砲隊が、満月の光を浴びて踊っているところ見つけ、狙いを定めて仕留めた場所とされている。

 ところが伝説前半部の、人々が猫又退治に出かけたあたりまでは、「重倉山の猫又」を記録した『猫又退治之次第』とほとんど同じで、これをリライトしたものと推測されている(湯口康雄『黒部奥山史談』桂書房、1992)。

 猫又山は黒部峡谷右岸に位置するが、そこから出ている谷を猫又谷、谷が黒部川に落ち合う場所に猫又ダム、猫又発電所がある。猫又谷の名も伝説に基づいている。

 「昔、下流から一匹のネズミが猫に追われて逃げてきた。追跡からのがれるため、左岸の絶壁をよじ登ろうと何度も飛びついたがだめだった。そこでその壁を「ネズミ返しの断崖」と呼んだという。さらに猫がその様子を見ていた右岸の段丘を「猫又」と呼ぶようになったという」。ネズミ返しの断崖は猫又発電所の対岸近くに続く200mにも及ぶ花崗岩の壁である。


                                      「ヤマネコ山遊記」より

2011年8月12日

日和山から猫島の「田代島」が見えた

震災からちょうど5ヵ月目にあたる日、兄らと郷里の墓参りのついでに石巻に立ち寄った。

真っ先に向かったのは、街を見下ろせる日和山。かつて祖父宅があった門脇地区は壊滅状態で、がれきの撤去跡は夏草の緑が目立ち、震災からすでに5か月という月日の流れを実感させられる。

浜に近いあたりに自動車のスクラップがうずたかく積まれている。北上川の河口左岸にも瓦礫の山があり、いまもトラックが行き交う。

沖に目をやると、うっすらと“猫の島”田代島が望見された。島の牡蠣養殖事業を復興させ猫も守る「田代島にゃんこ・ザ・プロジェクト」には参加しているので、落ち着いたらぜひ渡ってみたい。

瓦礫の山の向こうに田代島を望む(日和山から)

南麓の門脇小学校前まで行ってみるが、3階まで浸水した様子。背後の日和山で津波はブロックされ、高台の家は無事だったようだ。

門脇小学校と日和山
瓦礫の撤去跡には夏草が茂る

祖父宅は学校の目の前にあったのだが、瓦礫が片づけられた周辺一帯は車が通るたびにホコリが舞い上がる。山上から見た景色とはまた違う荒涼とした現実。言葉少なに早々に車に戻った。

5月から体調を崩して切り替えできなかったが、2日後から猫山詣でを再開する。被災地を実際に見たことでモヤモヤが少しふっきれた。


2011年3月25日

震災のまち・石巻と「初めての山」

 震災発生から2週間。あきらめかけていた安否がようやく判明してホッとしている。一番心配された叔母の無事が、同じ石巻の親戚から内陸部の親戚へと伝わったという。東北道が通れるようになり、大崎市の墓の様子を見に行った兄から今夜の吉報。しかし、これからが本当に大変だ。多くの悲しみを共々に乗り越えて、再び活気ある港町として蘇ることを切に願う。

昭和32年 石巻

兄弟三人、浜辺で遊ぶ
にいちゃん二人
刀がわりの棒きれもって
上のにいちゃん長い刀
次のにいちゃん短い刀
末っ子オレは、お宝係でおおいばり
膝小僧にガキの勲章つけておおいばり

毎年夏休みは石巻に行くのが恒例で、祖父の暮らす門脇町や渡波の叔母宅で幾日かをすごした。海も山もない平野部の子にとって、潮の匂いのする港町は輝いて見えた。逆に浜育ちの従兄弟を水田に囲まれた我が家に招いてもつまらなそうにしていた。叔父は遠洋漁業の船乗りでなかなか会うこともなかったが、ソ連警備艇に拿捕されたときのことを冒険物語さながらに話してくれた。銃を向けられたときは、もう日本には帰れないと思ったという。その叔父も銚子港で亡くなってしまう。船倉を点検しようとして蓋を開けたとたん、溜まっていたガスを吸い込んで意識を失い、そのまま船倉に転落したのだ。海の仕事が死と隣り合わせと知っている叔母は、その後も気丈で明るかった。
ひとり出かけた日和山
ちいさな低い山だけど
登りわくわくセミしぐれ
丘にたどれば北上の
河と海とがはるけくも
眼下に広がるうれしさで
山への憧れ芽生えきし

石巻には市街地の真ん中に小高い日和山(標高56m)がある。小学三年生のころ、門脇小学校前の祖父宅からひとりでこの山に登った。小学校の左から回り込んでいけば自然と頂上公園に導かれていった。眺望に満足して、帰りは急坂を下る。バス道を右に行けば再び小学校に辿り着いた。見知らぬ土地で感だけが頼りのハイキングだった。大げさだが、初めての山、初めての単独行。山行一覧の№1は日和山である。

2011年3月6日

山形県大蔵村の猫岳伝説に手がかり

永松鉱山と猫滝の伝説

 8年前に登録した国会図書館の利用登録証期限がとうに過ぎてしまっていて、改めて登録し直しに行った。ついでに資料収集もするが、複写コーナーや閲覧室の配置が変わっていた。利用登録証があると入館手続きがスムーズで、資料請求も端末からできるようになっていた。かつては端末から資料の請求記号を検索し、いちいち請求書に手書きしていたので便利。計8冊ほど資料をチェックすることができた。

 その中で大きな収穫が一つ。山形県最上郡大蔵村の猫岳(977m)には猫伝説があることは知っていたが、具体的な出典はよくわからなかった。今回は『大蔵村史 集落編』に手掛かりとなる伝説を見つけた。

 猫岳の南西にあった永松鉱山にかかわるものだ。永松鉱山の最盛期(元禄年間)のころは3000人もの人が働いていた。危険な仕事ゆえ病人や死者も多く出たが、麓の寺で供養できない罪人など素性のわからない人の死体はある沢に捨てたのだという。その沢には山猫が棲んでいて死体を食べては大きく成長し、はては死体の怨念が乗り移って人間をも襲うようになった。困り果てた村人の祈りが通じて、猫の化け物は葉山(1462m)の権現様に藤蔓で退治される。また、この沢には大きな滝があって「猫滝」と呼ばれ、化け猫の怨霊を恐れて村人は決して近づこうとしないという言い伝え。前半の苛酷な鉱山労働と結びつけるところなどは事実かと思わせる、すさまじいあらすじである。

 猫の化け物がいた沢とはどの沢なのか不明だ。2万5千分の一地形図「葉山」では永松鉱山跡近辺に滝記号のある沢が一つだけある。これが「猫滝」なのかどうか。猫岳の北西には赤砂山から発するネコマタ沢が銅山川左岸から注いでおり、伝説との関連は濃厚だが確証はない。いずれにしても猫の伝説をもっとあぶり出さないと、猫岳、ネコマタ沢、猫滝が結びつかない。

駆け込みで「平山郁夫展」へ

 適当に資料漁りを切り上げ、明日(6日)閉館の迫る「仏教伝来の道 平山郁夫と文化財保護」(国立博物館平成館)を駆け込みで観に行く。土曜日とはいえ100m以上の列ができた昨年の「阿修羅展」ほどの混雑ではない。目玉は薬師寺の障壁画(大唐西域壁画)で、エベレストビューからのヒマラヤ巨峰群を描いた「西方浄土須弥山」のスケールには圧倒される。

国立博物館平成館入り口の大ポスター

 常設展も時々面白い展示替えがあるようだ。たまたま平成館考古室で特別展示されていた一つの土偶に引き付けられた。宮城県大崎市田尻の恵比寿田遺跡から出土した縄文時代晩期の代表的な遮光器土偶(重要文化財)だ。おなじみのユニークな外見で宇宙人説もあるが、同郷出身者としては「モンペをはいたばあちゃん」にも見えてしまう。昭和18年に出土したとのことで、すぐ国立博物館行きとなったものか。郷里からこんな貴重なものが発掘されていたとは知らなかった。たまには里帰りさせて地元の人に実物を見せてやってほしいものだ。(常設展示物は撮影禁止と表示されたもの以外は撮影可)

故郷離れて60年以上の土偶と初対面





2011年2月20日

「猫山は未知の分野」と座右の語録が後押し

 師と仰ぐ永野忠一さん(故人)の本にたまたま書簡がはさんであった。著書を知人に寄贈したときの挨拶状である。そのなかに自分がこれから猫山について追究していくにあたって奮い立たせてくれる一文があった。

 「今は、こんな根気が出ないなァと思う点があり 我が老いたことを痛感します。
 然しなおやらねばならぬ旧稿があり、のんきにしてはおられませぬ
 だれも手をつけていない分野をわけ入る苦労は苦労ながら、たのしいものです。だからこそやれるんです

 1981年、永野さん81歳のときの心境である。この年、『日中を繋ぐ唐猫』と『猫と日本人(猫の文化史)』の2冊を上梓している。その4年後『猫の民俗誌(続、猫と日本人)』、5年後『猫と故郷の言葉』と精力的に課題を片づけた。最後の『猫と源氏物語』に至っては1997年、なんと96歳のときであった。

把握しきれぬ猫山の所在

 猫山(の思想)について、永野さんはフロイトや吉本隆明の『共同幻想論』によって解釈するほどの力の入れようで、また心残りでもあったに違いない。それは豊富な資料を以てしても猫山の分布・所在を把握しきれなかったことだ。

 また、『猫の歴史と奇話』(1985年、池田書店)の平岩米吉さんは、深山の猫又伝説に野生猫の存在を示唆した。しかし、永野さんも平岩さんも、著書にとりあげた山々には登られていない。資料から分析・推測しているにとどまっている。

 「今は伝承の地名のみで、所在が詳らかにし難いのが多い。古人の、想念の名残りは猫山、猫島、猫岳などの名目に集まる」
 「地方の伝承に、猫山が語られる時もあるが、所在が不明」
 「時代の推移は、地名を改め、昔の字名も今はわからなくした」
 「今日猫山の名だけあって、地図の上にもない処が多い。将来、猫山の語そのものも空しい死語と化するかもしれない」(以上『猫の幻想と俗信』より)

 ――このように永野さんは、地名が急速に失われていくことへの危機感を抱いていた。そして30年後、“地名破壊”ともいわれる平成の市町村大合併で、その危機は現実となってしまったのである。

山屋として猫山に向かう面白さ

 30数年前でさえ把握が困難だった猫山の所在を明らかにすることはできるのか。掘り起こすには資料漁りだけではもはや不可能で、伝承に基づいて現地(山)に向かうしかない。そこで生きるのが、長年の山登りで培ってきた藪山や雪山の経験。普通の人では辿り着けないような猫山(猫伝説のある山)も踏査して検証することができる。山屋であり、かつ猫山に興味を持つ自分に与えられた天職のようなものだ。これからの旅のすべてを注ぐ用意がある。

 ちょうど、これからの山登りをどうするか転換点に差しかかり、次に何をすべきかが明確に見えた。永野さんが猫民俗の研究を本格的に始めたのは57歳の頃。同じ年齢にある自分が、氏の一文に後押しされるというのも何かの因縁だと感じている。

(参考)

日本で一番「猫本」を書いた永野忠一さんはスゴイ

いつのまにか永野忠一著作コレクターになった

2011年2月3日

自性院の節分会で秘仏・猫地蔵を御開帳

 毎年2月3日は自性院(新宿区西落合)の節分会で、この日だけ秘仏の猫地蔵2体が開帳される。ただネット上には過去の開帳日に撮影された猫地蔵の画像がたくさん目につくようになった。寺からすれば秘仏の画像が多くのブログ等に出回るのは好ましいことではなくなったのだろう。秘仏が秘仏でなくなることへの危機感の表れか、2008年から撮影禁止となっている。

 これまで拝観しようと思えば行けたのに10年以上もそのうちそのうちと先延ばししてきた。「明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかわ」ということを実感。主題の猫山詣は藪漕ぎや積雪期もあるから体力のあるうちに行かないと…。

昼休み利用の速攻拝観

 今年こそ必ず猫地蔵尊を拝観するつもりで手帳に書き込んでいた。2月3日は木曜日だが、昼休みを利用すれば何とか観て来られそう。招き猫像に迎えられ北参道から境内へ向かう。午後2時からの豆まき(七福神練り歩きはそのあと)まで約1時間半。人出はまだ少なく、法被姿の氏子さん達も手持ちぶさたの様子だ。猫地蔵堂では若手の坊さんが猫地蔵の由来を拝観者に丁寧に説明中だった。ちょうど木像観音(明治時代の作)の光背に猫顔をあしらっていることを強調されていた。

 地蔵堂奥の正面右に「猫面地蔵」、「太田道灌奉納の猫地蔵」は左に開帳されていた。画像でおなじみのせいか、お初にお目にかかった気がしない。手前に護摩が炊けるようになっていて七福神パレード後に行う予定となっている。堂内には奉納された招き猫がずらり。なかなかの珍品もありそうだが、10年前に招き猫への執着を断ちきっており、それほど感慨はない。としつつも帰りがけに縁起物販売テントをのぞきこんで「左手上げ4号」をいただいてしまう(1000円)。ま、いいか。

昼時の拝観者はまだ少ない(猫地蔵堂)
堂内撮影禁止なので少し離れて
これがギリギリのアングルか
いやもう一押し

猫面地蔵の由来の謎

 猫地蔵の由来については、「江古田ヶ原の戦い(文明9年、1447年)で道に迷った太田道灌を導いて危機から救った猫を供養するため奉納した地蔵」が「道灌招ぎ猫」の猫地蔵、「明和3年(1746年)、江戸市中の評判となった貞女の誉れを後世につたえたいと牛込神楽辺で鮨屋を営む弥平が猫面の地蔵を納めた」のが猫面地蔵である。今日の御開帳で道灌の猫地蔵と猫面地を並べて見たわけだが、由来通りだと2体の制作年には約300年の時を隔てていることになる。

 道灌奉納の猫地蔵はともかく、猫面地蔵については一般に伝えられる由来を読んで疑問を抱く人も多いようだ。なぜ誉れ高い貞女を一介の鮨職人が猫面の地蔵にして奉納したのか。なぜ猫面でなくてはいけなかったのか。自性院でいただく略縁起にもその辺りには触れていない。

 この疑問を完全に解決する内容ではないが、補完する逸話が『旅と伝説』78号(1934年、三元社)の『途上所見(三)』(尾島滿)に載っている。要点は「牛込の人が、かわいがっていた猫に死なれて悲しんでいたところ、夢の中に地蔵尊が現れて、自性院という寺の鑑秀上人に頼んで法要を営んで地蔵尊を建立せよ、と告げた」というのである。牛込の人弥平は猫を飼っていたのだ。そして夢のお告げを実施するにあたり、当時評判だった貞女と死んだ愛猫とだぶらせて猫面の地蔵を刻んだとすると由来のつじつまが合うのである。

 参考に「ねこ地蔵尊の略縁起」を以下に掲載しておく(カッコ内はルビ)。

ねこ地蔵尊の略縁起(はなし)
 昔から私の寺を猫寺とか、猫地蔵と世間の皆さまが愛称して下さるのは、自性院の俗称であります。
 大昔は又別に辻観音とか、東寺(ひがしてら)と愛称されていた真言宗の寺であります。
 又この寺が弘法大師豊嶋廿四番の霊場と申しますことは本四国八十八ヶ所の大師霊場の中第廿四番土佐の高知の室戸崎にある最御崎寺(ほっみさきてら)に模したもので、彼の寺も同じ東寺と申しご利益ことのほか験かな寺でありますところから起ったと申します。
 この寺の御詠歌に
  明星の出でぬる方の 東寺
   暗き迷いの などかあらまじ
 と、私達に此身このまゝ仏さまになれると教えている歌であります。又この土地は何と有難い有難いところであります、ご参詣の方々の品のよさ、巡拝者の腰の鈴の清らかさ、まことに極楽浄土もかっくやあらんと思う程の美しい浄土であります。
 この寺の草創(はじめ)は真言宗の開祖弘法大師空海上人が下野国の日光山に参詣の道すがら観音さまをお供養あそばされたという故事に始り、先づこれが当院の辻観音の縁起であります。又早くより来迎阿彌陀如来をおまつりして当山の本尊さまとして篤く敬い信仰して参りました。その後数百年を経て、酉酉(だいご)の帝、延喜の御代八幡太郎源義家の軍師で大江匡房と並び称された葛大納言源経卿が或年太宰府長官に任命されたが任地に赴かず東下りして、武蔵野のこの地に来り叢(くさむら)深く身をかくし、仏の加護を願って、朝夕当院の観音・阿彌陀如来を熱心に信仰されて、おかげで一生安泰に過ごしたと伝えられて居ります。それより又数百年を経て、足利初期康暦年間に本尊仏の供養に、板碑が造られたがそれが今日尚現存しております。更に降って文明十年七月の記録は本尊修理の件であります、『自性院檀徒中によってこれを修理す』と記しているなど古い文献、金石が現存していることであります。
 そして、今から凡そ四百五十年前天文年間以降は歴代の住持が判然して居ります。徳川時代は細田地頭の皈依で寺は大いに栄えました。
 「道灌招ぎ猫」
 文明九年の頃、当所の豊嶋城主豊島左ヱ門尉と太田道灌とが合戦した有名な江古田ヶ原の戦いの折り、日暮れて、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れて、道灌を当院に案内した、そで道灌は一夜を明したゝめ危難を免れ大勝利を得た、これひとえにこの猫のおかげと感激して、この猫を大切に養い、死後丁重に葬った上一体の地蔵尊を造って盛大な供養して、この地蔵尊を当院に奉納した、これが当院の猫地蔵尊の最初の縁起であります。
 「猫面地蔵尊の由来」
 その後数百年を経て、徳川の中期、明和四年四月十九日江戸小石川御三間屋の豪商で加賀屋舗の真野正順の娘御で金坂八郎治の妻となり、貞女の誉一世に高く、後の覧操院孝室守心大姉の法号を謚られたがこの貞女のため牛込神楽坂辺にて鮨商売を渡世としていた彌平という人がこの貞女の誉を後世の亀鑑(かがみ)に伝えたい、又一つにはこの覧操院の冥福を祈るため、世にも珍しい一体の猫面地蔵尊を丈五十センチ程の石に刻んで造り、猫に因縁深い地蔵尊を祀っている当院を訪ね住持の鑑秀上人に開眼供養を依頼してねんごろに法要を営み御像を当院に納められたと伝えられています。この地蔵尊が当院秘仏の猫面地蔵尊で俗に猫地蔵と申しているものであります。この二体の地蔵尊は当時江戸市中に大そう評判となって一つには貞女にあやかりたい、又一つには地蔵尊のご利益にあずかりたいと願う人々が押な押なと参詣されたと伝えられたが何時しか星うつり余は変って、人々の信仰も次第に衰えしたびとなり、当院も幕末の頃より無住の寺となってさびれ果て昔日の観はなくなってしまったのでありましたが今日再び郊外の発展と共に漸く寺も復興して、昔日の観をとり戻しつゝあります。何卒皆さまと共に、この霊験あらたかな地蔵尊の信仰に浴して、家内安全、諸願成就と延いては世界平和をお祈りいたしましょう。
 猫地蔵尊の御詠歌に
  猫形(みょうぎょう)のほとけの誓い ありがたや
      葛(かつら)の里に かをりとゞめて
 と、これ地蔵尊が猫に形を代えて、この世に現れて、人々に善行をお示しになられたことでありましょう。
 以上が大体猫地蔵の略縁起でご座います。(苗堂山人記)

    付 記
 猫地蔵尊秘仏のお開帳は毎年二月の節分の日だけであります。

2011年1月29日

青梅と五日市の琴平神社(養蚕の神)

 青梅も五日市(現あきる野市)も戦前までは養蚕の盛んなところだった。それぞれ養蚕の神を祀る神社として琴平神社が町を見下ろす山の上に建っている。かつて猫の焼き物を奉納したという青梅の琴平神社が有名で、今でも商売繁盛等を祈願する招き猫が奉納されている。青梅の琴平神社〜日の出山〜金比羅山(五日市の琴平神社)と歩けば5時間程度かかる結構なハイキングになるが、足の具合を考えてそれぞれ麓から往復してみた。五日市の琴平神社にも青梅同様に招き猫が奉納されているものと思いこんでいたが…。


青梅の琴平神社へ


 青梅線日向和田駅から吉野梅郷を経て尾根取り付き(標高230m)まで20分少々。登山道を登ること35分、ようやく汗ばんでくる頃、琴平神社の鳥居が見えた。登山道は右に分岐し、鳥居の道は左を巻くように登っていくと社殿に至る。さっき分かれた登山道も神社裏10m先で合流していた。社殿は青梅の町を一望するかのように建っている。このあたりの標高は470mほど。金網越しに中をのぞき込むと左右の壁に沿って招き猫がたくさん並べられていた。左側に並んでいる招き猫のいくつかは相当古そうなもののようだ。ここが巖山と呼ばれるとおり社殿背後には岩がゴツゴツと突き出ている。金属製由来碑の文字は劣化してかすんでおり、かろうじて読むことができた。

鳥居のある参道。登山道は右へ(社殿裏で合流)
小ぶりな琴平神社社殿
社殿の内部には奉納された招き猫が並ぶ
登山道側から見た社殿
社殿前から青梅の町が一望できる


琴平神社(金比羅大権現)
祭神 大国主命、崇徳天皇
鎮座 不詳
沿革 当社は、梅郷を一望し、常に氏子を見守ることのできる、巌山の頂上に鎮座しており、古くは「金比羅大権現」と呼ばれていましたが、明治以降「琴平神社」と呼ばれるようになりました。昭和の戦前まで当地は養蚕が盛んで、繭の生産が氏子の生活の支えであり、経済の中心事業でありました。増殖増産の産土神として崇敬されていた当社には、当時、繭の豊作を祈願する人が多く、繭の当たり年にはお礼に猫の焼き物が奉納されたものでした。猫の焼き物は、天敵であるネズミから蚕を、お猫様が守ってくれたお礼とも伝えられております。戦後も、山頂の当社まで、商売繁盛を祈願に訪れる人が多く、新しい招き猫、現代的な招き猫がたくさん奉納されております。家運の隆昌を、祈願いたしましょう。

 下山にかかると法螺貝を吹く音が下の方から聞こえてきた。山伏姿の人を先頭に10数人の若い男女が続いてきた。杖を持ち、頭には白い被り物をつけていた。外国人の若い女性もいたから、御山駆けの体験行という感じ。御岳神社まで行くのだろうか。駅まで40分くらいで着いた。次の目的地は拝島経由で武蔵五日市駅である。


五日市の琴平神社に招き猫はなかった


 13時45分に五日市駅に到着。金比羅山(468m)は1997年の長谷川カップ(日本山岳耐久レース)の最終盤で通過しているが、琴平神社があったことさえ全く記憶がない。足にマメができて辛く、下を向きながら黙々と山を下っていたのであろう。長谷川カップのスタート・ゴール地点だった五日市中学校裏から道標に従って金比羅山に向かう。登り口の標高は225mほど。尾根の途中で道は分岐しており巻き道を行ってみる。駅から50分程度で神社に着いた。金比羅山の頂上はさらに300mほど先となる。通称入野峰と呼ばれる神社付近の標高は450mに少し足りないくらいだ。


 鳥居から振り返ると五日市の町が望まれた。青梅の琴平神社と同じく氏子を見守るパターンだ。見下ろす景色も何となく似ている。境内一帯は金比羅山公園として整備されており、社殿左手の一段下がったところに四阿屋とトイレが設置されていた。社殿は青梅の琴平神社より倍以上の大きさである。扉は閉ざされ、内部は簡素で招き猫は奉納されていないようであった。狛犬はなく「寛政六年甲寅 五月吉日」奉納の灯籠が二基あった。右手奥には3mほどの大岩があり祠があった(奉納日は文化十一年戌年 九月吉日)。さしずめ金比羅岩とでもいうのだろうか。養蚕神や猫とのかかわりを示すものがなかったのは残念だった。帰りは尾根道をとる。展望台からの眺めがよい。ツツジが多いので開花時期は綺麗なことだろう。


琴平神社の鳥居と社殿
琴平神社社殿の手前左右にツツジを配置
社殿裏にある金比羅岩?
鳥居から五日市の町が眼下に

 琴平神社は阿伎留神社の境外社で、毎年4月29日の祭礼には入野集落の獅子舞が披露される。社殿も幕で飾られて立派な装いとなる。300年以上前から続いているといわれる獅子舞だが、以前は厳冬の1月9日に行われていたという。阿伎留神社の由緒では明治以降は養蚕の神として崇敬されたとある。青梅の神社と同様、猫の焼き物が奉納されてきたのかどうかは町史などの資料にあたれば分かることだ。4月の例祭に行って阿伎留神社の宮司や入野の人々に直接聞けば確実だろう。




阿伎留神社(あきる野市五日市町五日市1081)の由緒書より
(境外社)琴平神社(大物主神、崇徳天皇)五日市入野峰山頂にあり、江戸時代より栄えた古社。明治以降は特に養蚕安全の神として近郷に崇敬が多く1月9日の山頂の祭は賑やかである。境内地100坪。