2011年3月6日

山形県大蔵村の猫岳伝説に手がかり

永松鉱山と猫滝の伝説

 8年前に登録した国会図書館の利用登録証期限がとうに過ぎてしまっていて、改めて登録し直しに行った。ついでに資料収集もするが、複写コーナーや閲覧室の配置が変わっていた。利用登録証があると入館手続きがスムーズで、資料請求も端末からできるようになっていた。かつては端末から資料の請求記号を検索し、いちいち請求書に手書きしていたので便利。計8冊ほど資料をチェックすることができた。

 その中で大きな収穫が一つ。山形県最上郡大蔵村の猫岳(977m)には猫伝説があることは知っていたが、具体的な出典はよくわからなかった。今回は『大蔵村史 集落編』に手掛かりとなる伝説を見つけた。

 猫岳の南西にあった永松鉱山にかかわるものだ。永松鉱山の最盛期(元禄年間)のころは3000人もの人が働いていた。危険な仕事ゆえ病人や死者も多く出たが、麓の寺で供養できない罪人など素性のわからない人の死体はある沢に捨てたのだという。その沢には山猫が棲んでいて死体を食べては大きく成長し、はては死体の怨念が乗り移って人間をも襲うようになった。困り果てた村人の祈りが通じて、猫の化け物は葉山(1462m)の権現様に藤蔓で退治される。また、この沢には大きな滝があって「猫滝」と呼ばれ、化け猫の怨霊を恐れて村人は決して近づこうとしないという言い伝え。前半の苛酷な鉱山労働と結びつけるところなどは事実かと思わせる、すさまじいあらすじである。

 猫の化け物がいた沢とはどの沢なのか不明だ。2万5千分の一地形図「葉山」では永松鉱山跡近辺に滝記号のある沢が一つだけある。これが「猫滝」なのかどうか。猫岳の北西には赤砂山から発するネコマタ沢が銅山川左岸から注いでおり、伝説との関連は濃厚だが確証はない。いずれにしても猫の伝説をもっとあぶり出さないと、猫岳、ネコマタ沢、猫滝が結びつかない。

駆け込みで「平山郁夫展」へ

 適当に資料漁りを切り上げ、明日(6日)閉館の迫る「仏教伝来の道 平山郁夫と文化財保護」(国立博物館平成館)を駆け込みで観に行く。土曜日とはいえ100m以上の列ができた昨年の「阿修羅展」ほどの混雑ではない。目玉は薬師寺の障壁画(大唐西域壁画)で、エベレストビューからのヒマラヤ巨峰群を描いた「西方浄土須弥山」のスケールには圧倒される。

国立博物館平成館入り口の大ポスター

 常設展も時々面白い展示替えがあるようだ。たまたま平成館考古室で特別展示されていた一つの土偶に引き付けられた。宮城県大崎市田尻の恵比寿田遺跡から出土した縄文時代晩期の代表的な遮光器土偶(重要文化財)だ。おなじみのユニークな外見で宇宙人説もあるが、同郷出身者としては「モンペをはいたばあちゃん」にも見えてしまう。昭和18年に出土したとのことで、すぐ国立博物館行きとなったものか。郷里からこんな貴重なものが発掘されていたとは知らなかった。たまには里帰りさせて地元の人に実物を見せてやってほしいものだ。(常設展示物は撮影禁止と表示されたもの以外は撮影可)

故郷離れて60年以上の土偶と初対面





2011年2月20日

「猫山は未知の分野」と座右の語録が後押し

 師と仰ぐ永野忠一さん(故人)の本にたまたま書簡がはさんであった。著書を知人に寄贈したときの挨拶状である。そのなかに自分がこれから猫山について追究していくにあたって奮い立たせてくれる一文があった。

 「今は、こんな根気が出ないなァと思う点があり 我が老いたことを痛感します。
 然しなおやらねばならぬ旧稿があり、のんきにしてはおられませぬ
 だれも手をつけていない分野をわけ入る苦労は苦労ながら、たのしいものです。だからこそやれるんです

 1981年、永野さん81歳のときの心境である。この年、『日中を繋ぐ唐猫』と『猫と日本人(猫の文化史)』の2冊を上梓している。その4年後『猫の民俗誌(続、猫と日本人)』、5年後『猫と故郷の言葉』と精力的に課題を片づけた。最後の『猫と源氏物語』に至っては1997年、なんと96歳のときであった。

把握しきれぬ猫山の所在

 猫山(の思想)について、永野さんはフロイトや吉本隆明の『共同幻想論』によって解釈するほどの力の入れようで、また心残りでもあったに違いない。それは豊富な資料を以てしても猫山の分布・所在を把握しきれなかったことだ。

 また、『猫の歴史と奇話』(1985年、池田書店)の平岩米吉さんは、深山の猫又伝説に野生猫の存在を示唆した。しかし、永野さんも平岩さんも、著書にとりあげた山々には登られていない。資料から分析・推測しているにとどまっている。

 「今は伝承の地名のみで、所在が詳らかにし難いのが多い。古人の、想念の名残りは猫山、猫島、猫岳などの名目に集まる」
 「地方の伝承に、猫山が語られる時もあるが、所在が不明」
 「時代の推移は、地名を改め、昔の字名も今はわからなくした」
 「今日猫山の名だけあって、地図の上にもない処が多い。将来、猫山の語そのものも空しい死語と化するかもしれない」(以上『猫の幻想と俗信』より)

 ――このように永野さんは、地名が急速に失われていくことへの危機感を抱いていた。そして30年後、“地名破壊”ともいわれる平成の市町村大合併で、その危機は現実となってしまったのである。

山屋として猫山に向かう面白さ

 30数年前でさえ把握が困難だった猫山の所在を明らかにすることはできるのか。掘り起こすには資料漁りだけではもはや不可能で、伝承に基づいて現地(山)に向かうしかない。そこで生きるのが、長年の山登りで培ってきた藪山や雪山の経験。普通の人では辿り着けないような猫山(猫伝説のある山)も踏査して検証することができる。山屋であり、かつ猫山に興味を持つ自分に与えられた天職のようなものだ。これからの旅のすべてを注ぐ用意がある。

 ちょうど、これからの山登りをどうするか転換点に差しかかり、次に何をすべきかが明確に見えた。永野さんが猫民俗の研究を本格的に始めたのは57歳の頃。同じ年齢にある自分が、氏の一文に後押しされるというのも何かの因縁だと感じている。

(参考)

日本で一番「猫本」を書いた永野忠一さんはスゴイ

いつのまにか永野忠一著作コレクターになった

2011年2月3日

自性院の節分会で秘仏・猫地蔵を御開帳

 毎年2月3日は自性院(新宿区西落合)の節分会で、この日だけ秘仏の猫地蔵2体が開帳される。ただネット上には過去の開帳日に撮影された猫地蔵の画像がたくさん目につくようになった。寺からすれば秘仏の画像が多くのブログ等に出回るのは好ましいことではなくなったのだろう。秘仏が秘仏でなくなることへの危機感の表れか、2008年から撮影禁止となっている。

 これまで拝観しようと思えば行けたのに10年以上もそのうちそのうちと先延ばししてきた。「明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかわ」ということを実感。主題の猫山詣は藪漕ぎや積雪期もあるから体力のあるうちに行かないと…。

昼休み利用の速攻拝観

 今年こそ必ず猫地蔵尊を拝観するつもりで手帳に書き込んでいた。2月3日は木曜日だが、昼休みを利用すれば何とか観て来られそう。招き猫像に迎えられ北参道から境内へ向かう。午後2時からの豆まき(七福神練り歩きはそのあと)まで約1時間半。人出はまだ少なく、法被姿の氏子さん達も手持ちぶさたの様子だ。猫地蔵堂では若手の坊さんが猫地蔵の由来を拝観者に丁寧に説明中だった。ちょうど木像観音(明治時代の作)の光背に猫顔をあしらっていることを強調されていた。

 地蔵堂奥の正面右に「猫面地蔵」、「太田道灌奉納の猫地蔵」は左に開帳されていた。画像でおなじみのせいか、お初にお目にかかった気がしない。手前に護摩が炊けるようになっていて七福神パレード後に行う予定となっている。堂内には奉納された招き猫がずらり。なかなかの珍品もありそうだが、10年前に招き猫への執着を断ちきっており、それほど感慨はない。としつつも帰りがけに縁起物販売テントをのぞきこんで「左手上げ4号」をいただいてしまう(1000円)。ま、いいか。

昼時の拝観者はまだ少ない(猫地蔵堂)
堂内撮影禁止なので少し離れて
これがギリギリのアングルか
いやもう一押し

猫面地蔵の由来の謎

 猫地蔵の由来については、「江古田ヶ原の戦い(文明9年、1447年)で道に迷った太田道灌を導いて危機から救った猫を供養するため奉納した地蔵」が「道灌招ぎ猫」の猫地蔵、「明和3年(1746年)、江戸市中の評判となった貞女の誉れを後世につたえたいと牛込神楽辺で鮨屋を営む弥平が猫面の地蔵を納めた」のが猫面地蔵である。今日の御開帳で道灌の猫地蔵と猫面地を並べて見たわけだが、由来通りだと2体の制作年には約300年の時を隔てていることになる。

 道灌奉納の猫地蔵はともかく、猫面地蔵については一般に伝えられる由来を読んで疑問を抱く人も多いようだ。なぜ誉れ高い貞女を一介の鮨職人が猫面の地蔵にして奉納したのか。なぜ猫面でなくてはいけなかったのか。自性院でいただく略縁起にもその辺りには触れていない。

 この疑問を完全に解決する内容ではないが、補完する逸話が『旅と伝説』78号(1934年、三元社)の『途上所見(三)』(尾島滿)に載っている。要点は「牛込の人が、かわいがっていた猫に死なれて悲しんでいたところ、夢の中に地蔵尊が現れて、自性院という寺の鑑秀上人に頼んで法要を営んで地蔵尊を建立せよ、と告げた」というのである。牛込の人弥平は猫を飼っていたのだ。そして夢のお告げを実施するにあたり、当時評判だった貞女と死んだ愛猫とだぶらせて猫面の地蔵を刻んだとすると由来のつじつまが合うのである。

 参考に「ねこ地蔵尊の略縁起」を以下に掲載しておく(カッコ内はルビ)。

ねこ地蔵尊の略縁起(はなし)
 昔から私の寺を猫寺とか、猫地蔵と世間の皆さまが愛称して下さるのは、自性院の俗称であります。
 大昔は又別に辻観音とか、東寺(ひがしてら)と愛称されていた真言宗の寺であります。
 又この寺が弘法大師豊嶋廿四番の霊場と申しますことは本四国八十八ヶ所の大師霊場の中第廿四番土佐の高知の室戸崎にある最御崎寺(ほっみさきてら)に模したもので、彼の寺も同じ東寺と申しご利益ことのほか験かな寺でありますところから起ったと申します。
 この寺の御詠歌に
  明星の出でぬる方の 東寺
   暗き迷いの などかあらまじ
 と、私達に此身このまゝ仏さまになれると教えている歌であります。又この土地は何と有難い有難いところであります、ご参詣の方々の品のよさ、巡拝者の腰の鈴の清らかさ、まことに極楽浄土もかっくやあらんと思う程の美しい浄土であります。
 この寺の草創(はじめ)は真言宗の開祖弘法大師空海上人が下野国の日光山に参詣の道すがら観音さまをお供養あそばされたという故事に始り、先づこれが当院の辻観音の縁起であります。又早くより来迎阿彌陀如来をおまつりして当山の本尊さまとして篤く敬い信仰して参りました。その後数百年を経て、酉酉(だいご)の帝、延喜の御代八幡太郎源義家の軍師で大江匡房と並び称された葛大納言源経卿が或年太宰府長官に任命されたが任地に赴かず東下りして、武蔵野のこの地に来り叢(くさむら)深く身をかくし、仏の加護を願って、朝夕当院の観音・阿彌陀如来を熱心に信仰されて、おかげで一生安泰に過ごしたと伝えられて居ります。それより又数百年を経て、足利初期康暦年間に本尊仏の供養に、板碑が造られたがそれが今日尚現存しております。更に降って文明十年七月の記録は本尊修理の件であります、『自性院檀徒中によってこれを修理す』と記しているなど古い文献、金石が現存していることであります。
 そして、今から凡そ四百五十年前天文年間以降は歴代の住持が判然して居ります。徳川時代は細田地頭の皈依で寺は大いに栄えました。
 「道灌招ぎ猫」
 文明九年の頃、当所の豊嶋城主豊島左ヱ門尉と太田道灌とが合戦した有名な江古田ヶ原の戦いの折り、日暮れて、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れて、道灌を当院に案内した、そで道灌は一夜を明したゝめ危難を免れ大勝利を得た、これひとえにこの猫のおかげと感激して、この猫を大切に養い、死後丁重に葬った上一体の地蔵尊を造って盛大な供養して、この地蔵尊を当院に奉納した、これが当院の猫地蔵尊の最初の縁起であります。
 「猫面地蔵尊の由来」
 その後数百年を経て、徳川の中期、明和四年四月十九日江戸小石川御三間屋の豪商で加賀屋舗の真野正順の娘御で金坂八郎治の妻となり、貞女の誉一世に高く、後の覧操院孝室守心大姉の法号を謚られたがこの貞女のため牛込神楽坂辺にて鮨商売を渡世としていた彌平という人がこの貞女の誉を後世の亀鑑(かがみ)に伝えたい、又一つにはこの覧操院の冥福を祈るため、世にも珍しい一体の猫面地蔵尊を丈五十センチ程の石に刻んで造り、猫に因縁深い地蔵尊を祀っている当院を訪ね住持の鑑秀上人に開眼供養を依頼してねんごろに法要を営み御像を当院に納められたと伝えられています。この地蔵尊が当院秘仏の猫面地蔵尊で俗に猫地蔵と申しているものであります。この二体の地蔵尊は当時江戸市中に大そう評判となって一つには貞女にあやかりたい、又一つには地蔵尊のご利益にあずかりたいと願う人々が押な押なと参詣されたと伝えられたが何時しか星うつり余は変って、人々の信仰も次第に衰えしたびとなり、当院も幕末の頃より無住の寺となってさびれ果て昔日の観はなくなってしまったのでありましたが今日再び郊外の発展と共に漸く寺も復興して、昔日の観をとり戻しつゝあります。何卒皆さまと共に、この霊験あらたかな地蔵尊の信仰に浴して、家内安全、諸願成就と延いては世界平和をお祈りいたしましょう。
 猫地蔵尊の御詠歌に
  猫形(みょうぎょう)のほとけの誓い ありがたや
      葛(かつら)の里に かをりとゞめて
 と、これ地蔵尊が猫に形を代えて、この世に現れて、人々に善行をお示しになられたことでありましょう。
 以上が大体猫地蔵の略縁起でご座います。(苗堂山人記)

    付 記
 猫地蔵尊秘仏のお開帳は毎年二月の節分の日だけであります。

2011年1月29日

青梅と五日市の琴平神社(養蚕の神)

 青梅も五日市(現あきる野市)も戦前までは養蚕の盛んなところだった。それぞれ養蚕の神を祀る神社として琴平神社が町を見下ろす山の上に建っている。かつて猫の焼き物を奉納したという青梅の琴平神社が有名で、今でも商売繁盛等を祈願する招き猫が奉納されている。青梅の琴平神社〜日の出山〜金比羅山(五日市の琴平神社)と歩けば5時間程度かかる結構なハイキングになるが、足の具合を考えてそれぞれ麓から往復してみた。五日市の琴平神社にも青梅同様に招き猫が奉納されているものと思いこんでいたが…。


青梅の琴平神社へ


 青梅線日向和田駅から吉野梅郷を経て尾根取り付き(標高230m)まで20分少々。登山道を登ること35分、ようやく汗ばんでくる頃、琴平神社の鳥居が見えた。登山道は右に分岐し、鳥居の道は左を巻くように登っていくと社殿に至る。さっき分かれた登山道も神社裏10m先で合流していた。社殿は青梅の町を一望するかのように建っている。このあたりの標高は470mほど。金網越しに中をのぞき込むと左右の壁に沿って招き猫がたくさん並べられていた。左側に並んでいる招き猫のいくつかは相当古そうなもののようだ。ここが巖山と呼ばれるとおり社殿背後には岩がゴツゴツと突き出ている。金属製由来碑の文字は劣化してかすんでおり、かろうじて読むことができた。

鳥居のある参道。登山道は右へ(社殿裏で合流)
小ぶりな琴平神社社殿
社殿の内部には奉納された招き猫が並ぶ
登山道側から見た社殿
社殿前から青梅の町が一望できる


琴平神社(金比羅大権現)
祭神 大国主命、崇徳天皇
鎮座 不詳
沿革 当社は、梅郷を一望し、常に氏子を見守ることのできる、巌山の頂上に鎮座しており、古くは「金比羅大権現」と呼ばれていましたが、明治以降「琴平神社」と呼ばれるようになりました。昭和の戦前まで当地は養蚕が盛んで、繭の生産が氏子の生活の支えであり、経済の中心事業でありました。増殖増産の産土神として崇敬されていた当社には、当時、繭の豊作を祈願する人が多く、繭の当たり年にはお礼に猫の焼き物が奉納されたものでした。猫の焼き物は、天敵であるネズミから蚕を、お猫様が守ってくれたお礼とも伝えられております。戦後も、山頂の当社まで、商売繁盛を祈願に訪れる人が多く、新しい招き猫、現代的な招き猫がたくさん奉納されております。家運の隆昌を、祈願いたしましょう。

 下山にかかると法螺貝を吹く音が下の方から聞こえてきた。山伏姿の人を先頭に10数人の若い男女が続いてきた。杖を持ち、頭には白い被り物をつけていた。外国人の若い女性もいたから、御山駆けの体験行という感じ。御岳神社まで行くのだろうか。駅まで40分くらいで着いた。次の目的地は拝島経由で武蔵五日市駅である。


五日市の琴平神社に招き猫はなかった


 13時45分に五日市駅に到着。金比羅山(468m)は1997年の長谷川カップ(日本山岳耐久レース)の最終盤で通過しているが、琴平神社があったことさえ全く記憶がない。足にマメができて辛く、下を向きながら黙々と山を下っていたのであろう。長谷川カップのスタート・ゴール地点だった五日市中学校裏から道標に従って金比羅山に向かう。登り口の標高は225mほど。尾根の途中で道は分岐しており巻き道を行ってみる。駅から50分程度で神社に着いた。金比羅山の頂上はさらに300mほど先となる。通称入野峰と呼ばれる神社付近の標高は450mに少し足りないくらいだ。


 鳥居から振り返ると五日市の町が望まれた。青梅の琴平神社と同じく氏子を見守るパターンだ。見下ろす景色も何となく似ている。境内一帯は金比羅山公園として整備されており、社殿左手の一段下がったところに四阿屋とトイレが設置されていた。社殿は青梅の琴平神社より倍以上の大きさである。扉は閉ざされ、内部は簡素で招き猫は奉納されていないようであった。狛犬はなく「寛政六年甲寅 五月吉日」奉納の灯籠が二基あった。右手奥には3mほどの大岩があり祠があった(奉納日は文化十一年戌年 九月吉日)。さしずめ金比羅岩とでもいうのだろうか。養蚕神や猫とのかかわりを示すものがなかったのは残念だった。帰りは尾根道をとる。展望台からの眺めがよい。ツツジが多いので開花時期は綺麗なことだろう。


琴平神社の鳥居と社殿
琴平神社社殿の手前左右にツツジを配置
社殿裏にある金比羅岩?
鳥居から五日市の町が眼下に

 琴平神社は阿伎留神社の境外社で、毎年4月29日の祭礼には入野集落の獅子舞が披露される。社殿も幕で飾られて立派な装いとなる。300年以上前から続いているといわれる獅子舞だが、以前は厳冬の1月9日に行われていたという。阿伎留神社の由緒では明治以降は養蚕の神として崇敬されたとある。青梅の神社と同様、猫の焼き物が奉納されてきたのかどうかは町史などの資料にあたれば分かることだ。4月の例祭に行って阿伎留神社の宮司や入野の人々に直接聞けば確実だろう。




阿伎留神社(あきる野市五日市町五日市1081)の由緒書より
(境外社)琴平神社(大物主神、崇徳天皇)五日市入野峰山頂にあり、江戸時代より栄えた古社。明治以降は特に養蚕安全の神として近郷に崇敬が多く1月9日の山頂の祭は賑やかである。境内地100坪。

2011年1月8日

善部のねこ塚(横浜市旭区)

善部のねこ塚伝説

 最近まで「善部のねこ塚」の存在をしらなかった。平成21年秋、旭区誕生40周年記念事業の一環で新たに石碑が建てられたことが新聞に掲載された。そもそも元禄時代にお婆さんが猫連れで巡礼していたということに驚くのだが、よほど絆が深かったのだろう。お婆さんが飢えと疲れで亡くなった後も傍らで鳴き続け、村人がやってくると安心したのか後を追うように猫も死んでしまう。ほろりとさせられる言い伝えにより地元ロータリークラブも後押ししてのねこ塚周辺整備となったようだ。
ねこ塚
元禄の頃、巡礼中のおばあさんが善部の村を通りかかり、飢えと疲れのため亡くなってしまいました。そばで一匹のねこがしきりに鳴いていましたが、間もなく後を追うように死んでしまいました。村人はその場におばあさんとねこを埋め、塚と石碑を建てて供養しました。そこは「ねこ塚」と呼ばれ、かわいがっているねこや犬が死ぬと埋めたということです。現在は場所も少し移され、ねこや犬が埋まっている塚はなくなっています。(旭区観光協会『緑と水と歴史にふれあう 旭区散策ガイド』平成15年 より)

ゴルフ練習場の脇にひっそりと

1月8日 相鉄本線希望ヶ駅から坂を下りながら南下していく。そのまま行けば自然と東海道新幹線にぶつかるはず。しかし、善部西自治会館の分岐で左に入るべき所、そのまま右に入ってしまった。ちょうど「妙蓮寺・ねこ塚」の案内が電柱にあったので行きすぎたことを知る。妙蓮寺の西側に出て新幹線のガード下をくぐり抜け、横浜隼人高校に沿って善部ゴルフの南側へ。親切にも「史跡 ねこ塚」との目立つ指導標が。地元も史跡として大事にしているようだ。練習場の金網柵に沿って北へ100mほどでねこ塚だ。遠回りになったが無事にねこ塚に辿りついた。善部ゴルフのパター練習場の脇で、おじさん達がねこ塚など興味なさそうにパターにいそしんでいる。

ウオーキングコースとなっている
ねこ塚は「史跡」扱い。ゴルフ練習場入り口で

 由来を記した石碑は立派なもので、寝ているような猫のオブジェをのせた凝ったつくりだ。お婆さんのそばで力尽きた姿をあらわしてたのかもしれない。あるいは村人が来てくれて安心しきった様子にも見える。石碑の左側にはねこ塚碑が立っている。高さ25センチ、幅15センチほどの小ぶりな碑だ。表には「元禄七年 妙法門法妙喜信女 十月二日」と刻まれていた。元禄七年(1694年)は今から317年前となる。旧暦の十月二日というと現在の十月下旬で、寒い季節へ向かう中での出来事だった。化けたとか踊ったとかという猫伝説が多い中で、実話としても通用する物語ではある。ただし、猫を連れての巡礼はどうなのかと思うし、行き倒れたお婆さんがいたのは確かだろうが、そばで村の野良猫が鳴いていただけなのかもしれない。

ねこ塚はパター練習場脇にある
少し小ぶりのねこ塚碑

 帰りは林の中の道を北へ向かって下る。すぐ林の出口となり、ここにも指導標があった。当初はここを通ってくるつもりだったから、ねこ塚へは南から北へ抜けるという回り道をしたことになる。新幹線の下を抜けると道路をはさんで向かい側が妙蓮寺と善部神明社だ。ついでだから神明社から妙蓮寺へと立ち寄っていく。石碑を建てるときにこの寺はかかわっていたのだろうか。妙蓮寺の石段から新幹線をはさんでねこ塚のある小高い森がよく望めた。かつてこの一帯は善部谷とよばれたが、新幹線とそれに平行する車道が谷を抜けるように走っている。中田の踊場のときもそうだったが、目の前の丘陵地が300年も前はどのような風景だったのだろうか、といつもながら思う。かつての里山の変貌のなかにかろうじてねこ塚はひっそりとたたずんでいる。

妙蓮寺山門
妙蓮寺の参道石段からねこ塚の林を望む
この猫は何だ! 希望ヶ丘駅への帰途
珍しい?たけし招き猫。希望ヶ丘駅への帰途

 

2010年12月26日

天寧寺の身代わり猫地蔵(千葉県安房郡鋸南町)

 瑞雲山天寧寺(安房郡鋸南町佐久間)は内房線安房勝山駅から東方1・5キロにある臨済宗建長寺派の古刹で、安房の国観音札所七番霊場でもある。動物慰霊墓苑が付設されペット供養にも力を注いでいる。途中、佐久間川沿いに世界の猫グッズ博物館がある。

 動物慰霊墓苑内に鎮座する「身代わり猫地蔵」という風変わりな元招き猫石像は、2010年3月に大阪から遷座してきた。経緯は下記由来碑文にあるとおりで、元々は大阪のお茶屋に置かれていた。戦後、お茶屋廃業の際に猫好きな女性が引き取ったが、代も替わり家の立ち退きのため、落ち着き先として天寧寺が名乗りを上げたということである。世界の猫グッズ博物館館長らが世話人になったようだ。「身代わり」という名称は、幾度か車に当てられて左手を欠くなど、身を以て家人を守ったという逸話によるものだろうか。


 身代わり猫地蔵由来之記
大阪ミナミのお茶屋にて守神だった招猫。戦後、お茶屋の廃業の曲折を経て猫好きな女性に引取られ、自宅前に祀られた。
そこで、招猫は移りゆく大阪を見守りつつ風雨に曝され、、石の猫地蔵に変わり果て、更に、バイクや車に当てられ招猫の左手を欠いてまで家の者に怪我人を出さぬようにしたと云う。
だが、代も替わり後を頼まれた嫁も老いて立退を求められ、猫地蔵様は、またもや居場所を失ってしまった。
縁あって、大阪市都島区北通二ー九ー十三浜口様宅から、当山天寧寺へと遷座された身代わり猫地蔵様、安房の大地が終の住処とならんことを記念する。
平成二十二年三月吉日


天寧寺への途中にある世界の猫グッズ博物館
天寧寺の入り口
天寧寺仁王門と本堂(左奥)
動物慰霊墓苑
身代わり猫地蔵と由来之碑
左手は欠けて無くなっている
だいぶ痛みが激しいが愛嬌のある顔
身代わり猫地蔵由来之記
招福招幸観世音菩薩(ペット観音)

2010年12月19日

殿ヶ谷戸庭園〜江戸東京たてもの園〜小江戸川越

 きょうも文化財ウオーク日和。ちょっとアプローチを変えて武蔵野線経由で国分寺へ。駅南口から都立殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園は目と鼻の先である。この庭園は満鉄副総裁・江口氏の別邸として設けられ、その後三菱財閥の岩崎家別邸として利用されたという。国分寺崖線をうまく利用した回遊式庭園で、野川の水源の一部となる豊富な湧き水がある。武蔵野に自生していた野草も多く、花の季節には楽しめるところだろう。この季節は来園者も少なく、静かな散策ができる。

武蔵野台地の地形を生かした庭園

 次は一つ隣の武蔵小金井駅からバスで小金井公園へ。江戸東京博物館の分園である江戸東京たてもの園の招待券は15年間も持ち歩いていたが、やっと使う日が来た。あまり期待していなかったが、ここだけで1日すごせる内容がある。建物の中もじっくり観覧できる。体が冷えたので、お昼は屋台で豚汁と肉まんを注文したが、ふと見ると招き猫が。いっぱいくっつている子猫パワーが効きそうだ。

2階が2・26事件の舞台となった高橋是清邸
居酒屋「鍵屋」と銭湯「子宝湯」
招かれて豚汁と肉饅をいただく

 もうひと歩きできるが都心へ行くのもどうかと思い、帰りも同じ沿線で便利な川越に行くことにする。歩いて西武線花小金井駅まで15分くらい。タイミング良く急行が来たので終点の本川越まで一眠りで着いてしまった。

 川越ではまず喜多院から。五百羅漢は拝観料が必要なのでパス。少林寺の延々と連なる五百羅漢に比べれば、こちらはこじんまりしている。参道脇の蕎麦屋に七福神と一緒の招き猫を見つける。でもナマ猫にきょうは会っていないので、そろそろキョロキョロしながら時の鐘方面へ。もう16時過ぎなのに観光客が多い。蔵造りの通りから猫がいそうな菓子屋横丁へ入っていく。しかし、こちらの方が人が多い。食べ物ばかりが目につき、鯛焼きを買ってほおばる。

七福神を従えて(喜多院参道脇の蕎麦屋)
夕暮れ迫る時の鐘

 ついにナマ猫を見ることもなく、夕暮れの中を東上線川越駅まで歩くのかと思うと足が重く感じる。大正浪漫通りのレトロなシマノコーヒー大正館で遅めの珈琲タイム。一息いれたあとは、そのままクレアモールを真っ直ぐ行けば駅だ。丸広百貨店をすぎてもうすぐ駅というところで、焼鳥屋の棚にのっかっているトラちゃん発見。招きシーサーと一緒だ。撮影にかかると、通りすがりの女子ふたりが「わあ、おっきいー、かわいーっ」と猫をいじり始めた。おい、俺の被写体だぞ! たまらず猫は棚から地面へおりてうずくまる。女子のなでまくり攻撃はやみそうもなく、まともな絵はとれず。やれやれ。

招きシーサーとナマ猫同居の図